水浸し
翌朝、二日酔いで起きることの出来ないブレアとナシル以外はセルディの作った朝食を食べた後はそれぞれ自由に過ごしていた。
ミカは半分呆れつつも気分が悪いと言っているナシルの世話を甲斐甲斐しく焼いており、ユアン曰くナシルが二日酔いの時にはいつも傍で見守りつつ、水分の補給などを手伝っているらしい。
そして思わず目を逸らしたくなるほどのお酒を飲んだロサリアは昨日と変わらずいつも通りで、彼女の肝臓には驚くばかりだ。
昼食作りはユアンとレイクが挑戦してみるらしく、早速準備に取り掛かっていたが念のためにとセルディが傍について見守るようだ。
キロルは町の方へと出掛けているので戻って来るのは昼前だという。
そういうわけで、特に何かの手伝いをする必要がなくなったアイリスとクロイドは時間があるうちに川へと遊びに行くことにした。
道はもちろん覚えているので、今度は景色を眺めながらゆっくりと歩みの速さを合わせて歩いていた。
リッツ邸から少し離れた場所にある川にはほとんど人が来ないらしい。釣りをする人はもう少し下流か、この川よりもさらに上流の方へと行くらしく、リッツ邸から一番近いこの川辺はほとんど貸し切り状態なのだという。
そのため、自分達以外に誰もいない川辺は先日の喧騒から程遠いくらいに静かだった。簡単に言えば、二人で貸し切りということだ。
「風がひんやりとしていて涼しいわね」
太陽の光は少し暑いくらいだが、木々によって作られた木陰から涼しい風が吹いてきているためそれ程暑さを感じることはなかった。
アイリスはさっそく靴と靴下を脱いで、スカートの裾が濡れないように膝あたりで端と端を結んだ。
「この前は先輩達の手前、はしゃげなかったけれど今日は思いっきりはしゃぐわよ!」
腕を捲りつつそう言うと、クロイドは口に手を当てて苦笑した。
「そんなに遊びたかったのか」
「だって、川で遊んだことないもの。……あ、でも何をして遊ぶか考えていなかったわ」
勢いで川へとやってきたが、何をして遊ぶかは具体的に決めてはいなかった。というよりも、外で遊ぶ機会がなかったので、どうやって遊べばいいのか分からないのだ。
「……それじゃあこの前、先輩達と遊んでいた方法でよくないか?」
「水の掛け合い? でも、私は水の魔法なんて使えないわよ」
アイリスが軽く笑いながら川の浅瀬へと足を入れていく。今まで触れた水の中で一番気持ちよく感じる冷たさに思わずきゅっと目を閉じた。
「思っていたより冷たいのね」
足の裏を支えているのは冷え切った石達だ。
流れる水は隙間なく自分の足の周りを埋めている。
気付くとクロイドも靴と靴下を脱いで川へと入ってきていた。
アイリスは試しに両手で水を掬ってみる。冷たい水が両手の中で揺らめき、少しずつ零れ落ちていく。
ずっと昔、ロディアートに来る前だったなら、自然の中で遊んでいたような気もする。ただ、記憶が曖昧過ぎて何をしていたかはっきりと思い出せないのだ。
……あの頃の私って、どんな風に遊んでいたかしら。
学校には通っていたし、近所の友達と遊んでいたようにも思う。ただ、具体的なことが思い出せず、アイリスは空になった両手をそのまま見続けていた。
その時、顔に冷たいものがかかり、アイリスは目を瞬かせる。
顏を上げると両手を濡らしてこちらを見ているクロイドが噴き出すように小さく笑っていた。
「また何か考えていたのか?」
どうやらクロイドによって水がかけられたらしく、アイリスは軽く頬を膨らませた。
確かに今の状況とは関係のない事を考えていたが、突然水をかけられるとは思っていなかったので驚いてしまったではないか。
「よくもやったわね……」
両手で水を掬って、クロイドの方へと思いっきり振り上げたが彼はそれを軽々と避けてしまう。やはり、手の動きから軌道が読まれているようだ。
「一昨日、先輩達に鍛えられたからな」
余裕の笑みを浮かべるクロイドに向かってアイリスはもう一度、水を手で掬った。
しかし、その間に準備が出来たのかクロイドがこちらに向けて水を投げかけてくる。
「ひゃ……」
その水の塊は見事にアイリスの顔へと再びかかった。びしょ濡れではないがやられっぱなしだとかなり癪である。
「もうっ……!」
アイリスが掬っていた水を彼に投げかけても、またもや軽々と避けられてしまう。
「軌道が見えすぎなんだ。アイリスの場合だと間合いを詰めた方が軌道は読みにくいからな」
さすが自分の相棒だけあって、自分に対する観察力は鋭いようだ。クロイドは魔法を使い慣れているので、視線と手による誘導の仕方も上手いのだろう。
「そんなに言うなら、これで勝負よ!」
アイリスは川辺に落ちていた木の枝を手に取って、その先をクロイドへと向ける。
「これさえあれば、どんな攻撃だって防げるんだから!」
自分の特技は剣術だ。魔法よりも速度が遅い水の塊なら簡単に叩き切れるだろう。
アイリスの威勢にクロイドはにやりと笑って、水を投げかけて来た。
即座に軌道を読んだアイリスは水の塊を枝で一線を描くように横に薙ぐ。
塊だった水はアイリスに切られたことで分散していった。
「魔法に比べたら、止まっているように見えるんだから……」
一歩、アイリスが前へと進んだ時だった。足場となっている石に苔が生えていたのだろう。足はしっかりと石の上に立つことなく、足首が内側に入るようにつるりと滑ってしまった。
「わっ……」
「アイリスっ……」
アイリスが足を滑らせたことにすぐ気付いたクロイドはこちらに向かって手を伸ばす。枝を放り投げてその手を取ったが、体勢が整わないままアイリスはそのまま腰を抜かしたように尻餅をついた。
「っ……」
水の中に身体を半分浸かってしまい、その冷たさが一気に身体全体へと染み込んでくる。
「……大丈夫か?」
どうやらクロイドの腕を掴んだまま、同じように水の中へと引き込んでしまったらしい。目の前には同じように腰まで水に浸かってしまった彼がいた。
「私は平気よ。……あらら。結局、二人とも水浸しになっちゃったわね」
上ばかり見ていたので足元に気を配るのを忘れていた。予想せずに二人ともびしょ濡れになってしまったがそれほど悪い気はしなかった。
アイリスが苦笑しつつも、その水の冷たさに気持ち良さを感じていた。泳いだことなど一度もないが、この水の気持ち良さを味わえば少しくらいは泳いでみたい気もする。
「……まぁ、魔法で乾かせばいいか」
クロイドが水の中に座ったまま、びっしょりと濡れた黒髪を片手で軽くかき上げる。髪から滴る水が雫となり、頬を流れて行った。
「…………」
何気ない仕草だというのに、思わず心臓が跳ね上がりそうなったのは何故だろうか。濡れた黒髪も瞳も水面によって光を反射し、その光景がどこか特別な一場面のようにさえ見えたのだ。
すぐに顔を逸らすと、クロイドは何かに気付いたのかアイリスの頬にそっと手を当ててくる。
「ひゃ……」
突然のことに驚いたアイリスはつい声を上げてしまったが、それを聞いたクロイドは目を少し見開いて、それからはにかんだ。
「少し、じっとしてくれ」
「…………」
アイリスはきゅっと目を瞑って、自分の頬に添えられている手だけを感じる。その手はゆっくりと頬を撫でつつ、耳の後ろへと触れた。
どうやら髪が頬に張り付いていたため、耳までかき上げてくれたらしいがそれなら口で言ってくれれば自分でやるのにとさえ思う。
でなければ、別のことを想像してしまった自分が恥ずかしいではないか。
「……ありがとう」
自分の頬は赤く染まっていないだろうか。あまり羽目を外し過ぎて呆れられていないだろうか。
そんなことばかりを考えていたせいで今の自分がどういう状態になっているのかを忘れていた。身体の線が見えてしまう程にぴったりと張り付いた服は自分の肌の色を映していた。
濡れた服から引きはがすようにクロイドに視線を向けると彼は顏を逸らして口元を押さえていた。
その耳はかなり赤い。
「……クロイドのむっつり」
「……こういう時はどう対応すればいいのか分からないんだ。仕方ないだろう」
冗談でそう言ったのに彼が真面目に答えてくれたため、アイリスは小さく苦笑した。
「でも私、あなたのそういうお堅いところも好きよ」
アイリスに気遣って、視線を逸らし続けるクロイドはちらりとこちらを見て今度は片手で頭を抱え始める。
「別にお堅いわけでも、奥手というわけでもないんだけどな……」
「あら、そうなの?」
からかうような口調でアイリスが軽く笑うと今度は溜息を吐かれた。
「何というか……君の隣にいると心臓がもたない時があるんだ」
頭を抱えている手の間から見えた黒い瞳と視線が重なり、アイリスは囚われてしまった。
「自分の気持ちに素直でいたいが、それだと君を傷付けてしまわないか不安でもある。本当は君にたくさん触れたいし、色んな君を見たいと思っている」
頭から手が離れ、彼の瞳が真っすぐと自分だけを見つめてくる。真剣な表情で彼はそう言っているのに、その頬は少しだけ赤い気がした。
「……まぁ、俺が積極的過ぎてアイリスに嫌われたら嫌だからあまり……」
「別に、嫌ったりしないわ」
クロイドの言葉を遮り、アイリスは顔を背けつつそう答える。自分でも分かる程に身体は熱くなってしまっていた。
「クロイドにされて嫌なことなんて無いもの。あなたは私に気を遣い過ぎなのよ」
別に深い意味で言ったわけではないが、クロイド盛大に溜息を吐きつつ、再び右手をアイリスの左頬へと添えてくる。
「……そういうことを軽々と言わない方が良い。抑えが利かなくなったらどうするんだ」
「えっ!?」
驚いてつい身体を縮めると彼はぱっと手を離して苦笑した。
「冗談だ。……まぁ、少しだけ本気として受け取ってもらっても構わないけどな」
大人っぽい微笑を浮かべるクロイドに対してアイリスは唇を尖らせた。
「最近、あなたにからかわれてばかりだわ」
「君の反応が可愛くて、つい意地悪したくなるんだ」
そう答えた時のクロイドは余裕ある笑みから、悪戯好きの少年のような顔へと変わっていた。
「さて、このままだと風邪をひくから、そろそろ乾かさないといけないな」
クロイドは立ち上がり、アイリスへと手を伸ばす。それを迷うことなく掴み、ゆっくりと立ち上がった。
スカートの裾を掴み、出来るだけ水分を絞り出す。
「アイリス」
振り返ると彼は口元を緩めてこちらを見ていた。
「……ありがとう」
それは何に対するお礼なのかは分からない。だが、すっと笑みを浮かべたアイリスは肩を竦めつつ頷いた。
全く、抑えが利かなくなりそうなのはむしろ自分の方だ。自分がどれほどクロイドのことを想っているのか口に出せないでいるだけで、本当はたくさん彼に伝えたいことがある。
自分だってもっとクロイドに触れたいし、色んな彼を見たい。でも、それを言わないのは恥ずかしがってしまう自分がいるからだ。
すっかり身体は冷えてしまっているのにそれでも内側から火照る熱は中々冷めないでいた。
夕方以降に登場人物の項目に絵を追加したいと思います。
お目汚しになるかもしれませんが、興味がある方は見て下さると嬉しいです。




