収拾
ロサリアが音を立てるように空になったグラスを置いた瞬間、ぐらりと大柄の男の身体が前へと揺れる。
「……私の勝ち」
お酒を飲みつつも、セルディに作ってもらった辛い料理を全て食べ終えて、ロサリアは口元を軽く親指で拭いた。
「まだだ……。まだ、終わっちゃいねぇ……」
男の身体は前後に揺れつつも何とか意識を保とうとグラスを持っていない手で机を叩く。
「負けるわけがねぇ……。この俺が……酒に酔うなど……」
明らかに男の顔は真っ赤になっているし、視線も定まっていないようだ。呂律も回っていないというのに、男は自分の負けを認めなくないのか恨み事を吐くように言葉を続ける。
「同じお酒を同じ量だけ飲んだ。その結果がこれだよ」
店主によってお酒の続きが注がれたグラスをロサリアは平然とした顔で傾ける。まだ、余裕があるらしい。
店主が男のグラスにお酒を注ごうが迷っていると、男は机を大きく叩いて、椅子を後ろへと倒しながら荒っぽく立ち上がった。
「何かいかさましやがったな!?」
男は口の端からお酒をこぼしているのを拭くことなく、ロサリアに向かってそう吐いた。
決着が無事に着くと思っていた傍観者に徹していた客達は雲行きが怪しくなったことを察知して、一歩ずつ下がっていく。
「あ~……。まぁ、あぁいう人間なら自分の気に入らないことがあればどういうやり方をするか予想は付くけどね」
ナシルの介抱をしていたミカが引き気味の顔でぼそりと呟く。
「……もう飲めないなら、あなたの負け。最初にそう決めたでしょう?」
すっと細められたロサリアの瞳は刃のように鋭いものへと変わっていた。
「この……!」
暴力で解決しようとしているのはアイリス達も分かっていた。男が拳を作った腕を大きく振り上げる。
客の誰かが小さな悲鳴を上げた。
しかし、その場に響くのは乾いた音だった。
ロサリアと男の間に割って入ったのは普段からでは想像出来ないほどに無表情になっていたセルディだった。彼はロサリアに振り下ろされそうになっていた男の腕を右手で軽々と受け止めていたのである。
アイリス達はほっと安堵の溜息を吐きつつも、セルディから流れてくる冷たい空気が誰に向けられているのかを感じ取っていた。
「……それ以上は黙って見ていられないかな」
男は渾身の力で振り下ろそうと腕を震えさせているにも関わらず、セルディは微動することなくその太い腕を掴んでいた。
「ぐっ……ぁ……」
セルディは掴んだ腕をそのまま外側へと曲げるように傾ける。
「勝負は潔さが大事だ。周りから見てもあなたが圧倒的に負けていることは分かり切ったことじゃないかな?」
「こ、の……」
セルディが男に対して静かに怒りをぶつけているにも関わらず、ロサリアは何も気にしていないのかグラスを傾けていた。
男は何とかもがくように身体を動かして、セルディの腕から逃れるとお酒が零れていた口元を手の甲で拭いた。セルディは余程、強い力で握っていたのか、男の腕にはくっきりと痕が残っている。
「ふざけるな……。まだ、負けてねぇ……」
「それなら、続きを飲めばいい。ほら――」
セルディは顎で男が使っていたグラスを手に取るように示す。しかし、男はもう飲む気力がないのか、グラスを軽く睨むと大きく舌打ちした。
「……収拾がつかなくなってきたな」
「そうね……」
静かに呟かれるクロイドの言葉にアイリスも同意する。
何となくだが、ただの飲み比べで終わる気はしないと思っていたがどうやら予想が外れることはなかったようだ。
男は自分達が絶対に勝てると思っていたからこそ、「負けた」という事実を素直に受け止めることが出来ないのだろう。そして、負けたとしてもどうにかなると思っていたのかもしれない。
しかし、負けを認めないこの男は暴力で思い通りにできると思っていたようだがこちらは荒事を専門としている集まりだ。そう簡単にひれ伏すわけがない。
男とセルディが睨みあって、お互いの出方を探っている時だった。
場違いな程にのんびりとした声がその場に響く。
「――おや、これは一体何の騒ぎかな」
聞き覚えのある声にアイリスは後ろを振り返った。いつのまにか店の中に入ってきていたのはキロルだった。
荷馬車に一度荷物を置いてくると聞いていたので今、酒場に着いたのだろう。
「キロルさん……」
キロルは壁のように立っている人々の間を器用に抜けて、こちらへとやって来る。
「何だ、ブレアもナシルももう飲んでいたのか? 気が早い奴らだ」
キロルはにこにこと笑いながら視線をロサリア、セルディへと移し、最後に飲み比べをしていた男へと移した。
「なるほど。君が彼女達と飲み比べをしていた、ということかな」
誰も説明していないというのに、状況を見ただけでそう判断したらしい。
「君なら納得だな、ヴァルク君。どうやら先日の件からまだ懲りていないようだね」
キロルは大柄の男の名前を知っていたらしく、親しい知り合いにあったように笑みを浮かべながら一歩前へと出る。
大柄の男の表情はそこで初めて、青白いものへと変わっていった。
剥き出しにされた歯が上手く合わさっていない音を立てている。大柄の身体からは想像出来ないほどに震えていた。
「この前、君は私と飲み比べした際に約束したことを忘れているようだね? ……次はないよって言ったはずだけれど、お酒で脳が正常に働いていなかったのかな?」
キロルの表情は変らず笑ったままで、声色も明るいものだ。
だが、座っているロサリアが気まずそうに視線を逸らしているし、ミカもセルディも何かに怯えるように一歩、後ろへと下がっている。
つまり、この笑顔の状態のキロルがいかに通常の笑顔とは違うものだと言っているようなものだ。
キロルの穏やかな声色が流れる緊迫した雰囲気にアイリスも思わず、喉を鳴らした。
「どうやらもう一度、同じ目に遭いたいようだねぇ。店には迷惑をかけたくないから外へと出ようか? もちろん、そこで寝ているお仲間も連れてね」
「ひっ……」
大柄の男が引き攣った声を上げて、首をゆっくりと横に振った。
酔っているが、こういう場合でも脳は正常に働いているらしい。もしくは、キロルの声に酔いが一瞬で醒めてしまったのかもしれない。
後ずさりした男は怯えた表情でキロルから離れようとしたが、キロルは再び歩を進めて間合いを詰めていく。
「それで? 君がかけた迷惑をどうやって収拾つける気かな? ちなみに選択肢は潔く負けを認めてお代を払うか、私に力ずくで叩きのめされるか……」
キロルの人差し指が男の顎を支えるように添えられる。男がごくりと唾を飲み込んだのが見えた。
「し、支払う……」
「うむ。宜しい。それでは早速、お代を払ってそこに寝ているお仲間連れて出て行ってもらおうか? あぁ、もちろん、迷惑をかけたんだからこの店には出禁だ。いいね?」
追い打ちをかけるようなキロルの言葉に男はぎこちなく首を縦に振った。
「それでお代はいくらかな?」
キロルは店主の男性へと振り返って値段を尋ねる。
「ほう、35万ディール?」
見た事のない金額にアイリスは思わず声が出てしまいそうになり、口を押えた。この空になった酒瓶は一本、どれくらいの値段なのだろうか。
男は取り出した財布からありったけのお金を机の上へと置いた。
「おや、まだ足りないようだ。……支払いはつけでもいいなら、後から持ってきなさい」
キロルの言葉に店主も同意するように何度も頷く。店側としては絶対に支払ってもらわないと困るだろう。
「もし、近いうちに支払わず、この店に迷惑をかけるようなら……その時は、どうなるか分かっているね?」
脅しとも言えるキロルの笑みに男は首が取れそうな程、激しく頷く。
そして、逃げるように人々を掻き分けながら外へと走っていった。身体は酔っているため、その足取りはふらふらと揺れていた。
「おぉい、お仲間も連れて行ってくれ」
床の上に寝ている者もいれば、机に伏している男もいる。机の上に置かれたお金を回収した店主は困り顔で他の従業員と協力しつつ、彼らを外へと運び始めた。
「……まぁ、寒い時期じゃないから、外で寝かせておいても大丈夫だろうね。その方が酔いは醒めるかもしれないし」
呆れた瞳でセルディは運ばれていく男達を見送っていた。
他の客達も勝負がついたことに安堵しているのかそれぞれの席に戻っていき、先程と同じように飲み始める。耳を澄ますと、話の話題は飲み比べについてばかりだった。
「……キロルさん、あの男達と知り合いだったんだ」
すっかり寝落ちしているナシルの隣に立っていたミカが首を傾げながらそう尋ねた。
「別の店で飲み比べを吹っ掛けられたんだ。私がどれ程、飲んでも酔わないから怪しく思ったんだろうねぇ。痛い目に合わせてやるつもりだったらしいけど、返り討ちにしたんだ」
さらりとそう言って、席に座ったキロルは空いているグラスに先程の飲み比べで使われた度数の高いお酒を手馴れたように飲んでいく。
「人様に迷惑をかけないようにと言い含めていたんだが、調べたところこの辺りでよく悪さをしている連中だって分かってね。まぁ、そこは警官の仕事だから私が出る幕じゃないし。……ほら、皆も座りなさい。ナシルとブレアは……まぁ、寝かせておいてあげよう」
アイリスとクロイドは顏を見合わせて、隣同士の席へと座った。
「お腹は空いているんだけどねぇ。お酒の匂いが充満しているから、酔いそう」
ミカは口元を袖で押さえつつ、近くにあった椅子を引きずってからナシルの隣へと座った。
「でも、ロサリア先輩、本当に清々しく飲んでいて恰好良かったです」
「飲み比べって見ているだけで酔いそうになるんだな……」
レイクは早速、料理の品目が書かれた品書きを覗き込んでいた。
「しばらくお酒はいいかな。それよりお腹が空いたから、美味しいものを食べたい」
「ロサリア……。体調は大丈夫なのかい? 具合とかは……」
まるで先程の緊迫した飲み比べはなかったかのようにいつも通りの先輩達の会話を聞いてアイリスは緊張がほぐれたように溜息を吐いた。
「大丈夫か?」
クロイドが顔色を窺ってくる。
「平気よ。……少し緊張していただけだから」
この件で飲み比べに負けた男達が今後、大人しくしておいてくれることを願うばかりだ。それは恐らくこの店の誰もが思っていることだろう。
「ほら、遠慮しないで、どんどん注文しなさい。今日は私の驕りだからな」
「やったー! よっし、一番高くて美味しいやつを……」
「ちょっと、レイク! 少しは遠慮しなさいよっ! あ、それならレイク専用に牛乳でも注文してあげましょうか?」
レイク達だけではなく、店の雰囲気は大柄の男達が来る前と同じで賑やかなものへと変わっていた。
ふっと、料理の品書きから頭を上げると目の前に座っているキロルと目が合った。
「――せっかくの楽しい時間が台無しになってしまっては勿体ないからな。仕切り直しだ」
にこりと再び笑ったキロルは先程とは違って、優しいものだった。




