すり
大量のお土産を一度、荷馬車を置いて貰っているところで預かってもらい、少しだけ時間は早いがキロルが指定している酒場へと先に入ることにした。
「それでですね、私は絶対にチーズの方が美味しいって言ったのに、レイクはトマトの味を頼んで渡してきたんですよ!? 酷くないですか!?」
「あの店、色んな種類の味があって面白いよね」
「まぁ、美味しかったならいいじゃないか」
「それはそうですけど~」
四人は他愛もない会話をしつつ、酒場に向けて歩いている時だった。
前方から黒い上着を着た体格のいい男性がこちらに向けて歩いてきたので一番前を歩いていたアイリスはすっと身体を避けた。
「――おっと、悪いね」
しかし、咄嗟に反応出来なかったのかアイリスの後ろを歩いていたナシルはその男と肩が当たってしまったようだ。
「…………」
ナシルは謝ったというのに、その男はナシルに対して一言いうどころか一瞥することなく去っていく。
「っ……」
だが、何かの異変に気付いたのかナシルの眉がぎゅっと寄せられて、去っていた男の方へと鋭い視線が向けられる。
「待ちな。……あんた今、私の財布を盗っただろう」
ナシルの言葉にアイリス達は足を止めて男の方へと振り返った。
男は一瞬だけ足を止めたが、ナシルの言ったことが正しいと言わんばかりに突然走り出し始める。
「っ、くそ……」
「私、行きます」
ナシルの肩を軽く叩いて、ロサリアが風のように颯爽と財布を盗んだ男を追いかける。
「あー……。これは見なくても結果が分かるな」
ロサリアの素早い動きに拍子抜けしたのかそれまで怒っていた表情をしていたナシルはふっと噴き出した。
ナシルの言った通り、ロサリアはあっという間に男に追いついてしまう。
男の背中に手を伸ばすと服を掴んでから右足を男の足へと引っかけて、一瞬で男をうつ伏せの状態へと持ち込んだ。その痛みによってなのか男が呻き声のようなものを上げる。
「ロサリア先輩、すごーいっ」
今の動きはどこの国の武術だろうか。状況に応じた早業にアイリスはどのような動きをしていたのかそちらばかりが気になってしまう。
「……財布、返してもらうよ」
男の左手にはナシルの長財布がしっかりと握られており、ロサリアは男を片手と片足で押さえながら財布をひょいっと奪い取った。
やっとロサリアに追いついたナシルは財布を受け取り、ほっと息を吐く。
「すまないな、ロサリア。助かったよ。……それで私の財布を盗んだこの男はどうしようかな」
恐らく観光客を狙ったすりだ。こういう場合は警官に突き出せばいいだろうが、知らない町であるためすぐに交番がどこにあるのかは分からない。
「全く、私から財布を掏ろうなんて怖いものがないようだな」
にやりと笑ったナシルの瞳は男をじっと見据えているがその瞳の奥は笑ってはいなかった。
「ナシル先輩、とりあえず……」
ロサリアが何かを言おうとした瞬間、足元でうつ伏せになっていた男が最後の力を振り絞ったのかロサリアから踏まれていた身体を大きく跳ね返るように起き上らせる。
「あっ!」
気付いた時には男はすでに走り始めていた。
「……追いかけます?」
すでに数十メートルの距離が空いているというのに追いつける自信があるのかロサリアはナシル問いかける。
「いや、良い。財布は返してもらったからな」
そうは言っても納得は出来ないのかナシルはどこか複雑そうな表情で逃げていく男の背中を見ている。
「皆、顔は覚えたな?」
「はい、一応は……」
確か、丸顔で一度見れば忘れないくらいに厳つい表情をしていた気がする。よくあの印象深い顔ですりをやろうと思ったものだ。
「……とにかく自衛するしかないな」
ナシルの溜息交じりの呟きにアイリス達は静かに頷くしかなかった。
キロルが指定したのは「紅の水鳥」という酒場だった。この店で男性陣とブレアと待ち合わせになっているがさすがに時間が早すぎるのかどちらも来ていないようだ。
だが、キロルが予約しておいてくれたおかげで席だけは確保してあったらしく、アイリス達は先に席に着いて待つことにした。
酒場と言ってもお酒と料理を楽しんでいるのは若者から年寄りまで幅広い年代が見受けられ、気軽に入りやすいのかアイリス達以外にも女性客は多かった。
「良い匂い……」
ロサリアが表情を崩さないまま、近くを通っていく給仕が持った皿に盛られた料理を眺めていた。
「先に料理を頼んでいてもいいと思うが、どうせなら皆が揃ってから乾杯したいからな……」
そう言いつつもどんなお酒が置いてあるのか気になるらしく、お酒の名前がずらりと並んだ品書きをナシルは食い入るように見ている。
「……あら?」
何か気になることを見つけたのか隣の席に座っていたユアンが訝しげな表情でどこかを見ていた。
「どうしたんですか?」
アイリスもユアンが見ている方向へと視線を向ける。店の入り口には厳つい顔をした若い男達が数人立っており、何かを探すように忙しく視線を彷徨わせていた。
「っ……」
そのうちの一人とばっちり目が合ってしまい、嫌な予感がしたアイリスは急いで逸らした。
明らかに、口元が「見つけた」と言っていたのを見てしまったからだ。
「……ユアン先輩、あれって……」
「あ、アイリスちゃんもそう思う?」
料理の名前が書かれた品書きで顔を隠しつつユアンに目配せすると、アイリスの考えていることが分かったのか同意するように渋い顔で頷いた。
「何だ? どうしたんだ、二人とも」
「いえ、それが……」
ナシルに不審な男達がいると伝えようとした時だ。
「――よう、嬢ちゃん達。さっきはよくも俺の可愛い弟を痛い目に合わせてくれたなぁ?」
厳つい顔をした男達の中でも一番大柄な男がアイリス達の前で立ち止まり、店内の賑やかな雰囲気をわざと壊すような大声で唐突にそう言ってきたのである。
ちらりと視線を男の後ろへと向けると、先程ロサリアにねじ伏せられていた男がいた。
どうやら向こうも自分達の顔を覚えていたらしく自分達を付けて、この店に入るところを見ていたらしい。
男に話しかけられたナシルは隠す気もなく不機嫌な顔をした。
「あぁ、さっきの盗人の人? わざわざお詫びしに来たわけ? ご苦労だねぇ」
ナシルは先程盗られた財布をわざと取り出して、ゆらゆらと揺らしながら挑発するようにそう言った。
ロサリアに押さえつけられていた男が恨みがましいものを見るような瞳でナシルを睨んでいる。
「私の後輩にやられたからって仕返しをしにきたのなら、良い根性だ。こっちは財布が戻ったから、大人しく黙っていてあげようと思ったのに、そっちがその気ならあんたの後ろにいるその男を警官に突き出してもいいんだぞ?」
まだ怒りは抑えきれていないのか怒気の込められたナシルの言葉に隣のユアンがごくりと唾を飲み込んでいた。
明らかにナシルの方が男達よりも年下で、さらに男達は座ったままのナシルを見下しているというのにその立場は見ていて逆のようにさえ思えてくる。
いつものナシルを見ている自分達になら分かる。今のナシルの表情は完全に怒っているものだと。
「それで? わざわざこちらに顔を出しに来たというのなら、何か言いたいことの一つや二つあるんだろう? 言ってごらん」
ナシルの口調に腹が立ったのか、大柄の男の仲間の一人がナシルの胸倉を掴もうとしたがその瞬間にロサリアの右手によって叩き落される。
「っ……」
「女性の胸倉を掴もうだなんて、失礼な男。……叩き潰しますか」
指を鳴らしつつ、ロサリアはナシルに許可を求めるような視線を送る。
「いや、他の客の迷惑になる。それに怪我をするのは向こうだ。止めておいた方がいいだろう」
確かに傍から見れば、観光客の四人に絡む男達のように見られているかもしれない。
他の客からも心配そうにこちらの様子を窺う視線が向けられるが誰も間に入って来る勇気はないようだ。
他の客達の視線よりも気になるのはこの大柄の男の後ろにいる男達の視線だ。こちらを見る視線は何とも不躾で、気味が悪い。まるで品定めされているような気分だ。
誰にも迷惑がかからないならば、自分もロサリアの加勢するのにとさえ思う。
「聞き捨てならねぇ、言い方だな。俺達が嬢ちゃん達に拳で負けるって? おい、聞いたかお前ら」
大柄の男が後ろへと振り返り、汚い笑い声を上げる。
こんな声を聞けばせっかくお酒と食事を楽しんでいる客にとっては台無しになってしまうだろう。
「……はぁ。それであんた達は一体何の用で話しかけたんだ? 特に用がないなら邪魔だからあっちへ行ってくれ」
ナシルはわざとらしい溜息を吐きつつ、手で追い払う仕草をしたがそれに易々と従うような男達ではないようだ。
「そこの嬢ちゃんのせいで、うちの大事な弟が怪我しちまったんだよ。……治療費、もちろん払ってくれるよなぁ?」
ロサリアが押さえ込んでいた男の腕には包帯がぐるぐる巻きに巻かれている。
素人から見ても分かる程にその包帯はかなり大雑把に巻かれており、治療が施されたものではないことはすぐに気付いた。
自分以外の先輩達もそれに気付いているようで面倒そうにお互い視線を交わしつつ、溜息を吐く。
「……その人、さっき全力で腕を振って逃げていましたよ?」
ユアンが馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの男を指さしてそう言った。
「俺の弟が嘘をついているって言いたいのかぁ!?」
こちらを脅すつもりで大声をあげているのだろうが、そのような事に慣れているアイリス達はそれに反応するのさえ面倒だった。
脅かせば怖がって言うことを聞くとでも思っているのかもしれない。
そんな相手は二度と立ち上がれないように鼻を圧し折っておけといつもブレアが言っていたことを思い出してアイリスはふっと息を吐いた。
「つまり、そこの男が私の後輩に怪我させられたから治療費を払えと言いにきたわけだ。すりをしたことは棚に上げておいて」
恐らく、すりが失敗したら今の状況のように男達で取り囲んで脅して金を奪うことを日頃からやっている人間なのだろう。ただ、今日の場合は運悪く自分達に目を付けてしまったらしい。
女だからだと侮っているのかもしれない。
「……あまり調子に乗るなよ」
聞いたことがないナシルの低い声にアイリスとユアンは思わず肩をびくりと震わせる。ゆっくりと立ち上がって、ナシルは男へと一歩近づいた。
「私は理不尽な事を言われるのが嫌いなんだ。やってもいないことを自分のせいだと押し付けられ、嘲笑われると本当に心底腹が立つ性分でね……」
恐らく、他の課から回された仕事の事を言っているのだろうと瞬時に理解出来た。
「表に出な。今すぐ、あんた達全員まとめて地べたを舐めさせてやるから」
喧嘩をする気満々のようだが、ナシルに喧嘩出来るほどの武術が備わっているとは聞いていない。
もしや魔法を使うのかと思ったが、ここは何も知らない一般人しかいない町だ。そう簡単に使ってはいけないとナシルも承知しているはずだと思って見ていたら、すっとロサリアがナシルの横に立ち上がった。
「ナシル先輩。元はと言えば私があの男を軽々とねじ伏せたのが悪いんですから」
悪びれることなくさらりとそう言いつつもロサリアの瞳はいつもよりも鋭く細められていた。
「だから、ここは私が責任を取ります」
「ほぅ?」
面白いものを見るように大柄の男が右の眉を上げた。
「何だ、美人の姉ちゃんが相手してくれるって? そいつはいいや」
「治療費払ってくれるついでに俺達に酒でも注いでくれや」
「がははっ……」
男達の汚い視線がロサリアへと集中する。その視線さえも全て遮断してしまうような表情でロサリアは男達に言い放った。
「いいよ。何でも構わない。でも、あなた達が私とお酒の飲み比べをして勝つことが出来きればだけれど」
涼しげに発せられた言葉に驚いたのはアイリス達ではなく男達の方だった。




