料理
休みだというのに、体内時計はしっかりと機能しているのかいつもと同じくらいの時間に目が覚めたアイリスは身体を起き上がらせた。
「…………」
昨夜、温泉でのぼせてクロイドに介抱して貰っていたが結局そのまま寝てしまったらしく、自分の身体にはブランケットがかけられていた。
すっかり気分も良くなっているので、もう動いても大丈夫だろうとアイリスは立ち上がり、閉め切られているカーテンと窓を開いた。
空は少しずつ白んできており、朝だということを告げる鳥が遠くで鳴いている。息をすっと吸い込むと森から伝わって来る爽やかな空気がここまで届いている気がした。
「……よしっ」
何となく気合を入れ直してからアイリスは自分の荷物の中に入れてあった普段着を取り出して着替え始める。
水色のブラウスに袖を通してから、動きやすい素材で出来ているスカートを穿いた。
鏡を見ないまま髪を櫛で梳いていき、後頭部辺りに赤いリボンを結わえれば、いつもと同じ流し結びの完成だ。
「……もう誰か起きているかしら」
普段と同じくらいの時間に起きたが、今は休暇中だ。特に早起きをしなければならないと決まっているわけではない。
アイリスはそっと扉を開けてから、長い廊下に首だけ出してみる。
やはり、話し声は聞こえないようだ。
「…………」
まだ皆、寝ているのかもしれない。足音を立てないようにそっと廊下側へと出て、扉をゆっくりと閉めた。
確か、洗面台は一階にあったのでそこで顔を洗ってその後は――。
そんなことを考えながら階段を静かに降りていると一定の間隔を刻んでいる音がどこから聞こえた気がしてアイリスは耳を澄ませた。
とんとんとん、と安定した音はどこかで聞いたことがある。
階段を降り切って、音の正体を確認する前に洗面台で顔を洗ってから音がする方へと足を進めた。こっちは確か台所と居間がある部屋だ。
……キロルさんかしら。
朝食を作っているのだろうか。それならこの一定の音の正体は包丁によって材料が刻まれている音だと想像が付いた。
廊下から台所へ続く扉にそっと手をかけて開いていき、アイリスは包丁を扱っている人物を見て小さく声をもらした。
「あ……」
アイリスの声に気付いたのか後ろ姿を見せていたその人物はこちらへと振り返った。
「あぁ、おはよう」
「おはよう……」
台所には青色の前掛けをしたクロイドがいた。しかもその右手には包丁が握られている。
「……朝食を作っているの?」
扉を閉めつつ、アイリスはクロイドへと近付き、彼の手元を見た。まな板の上には半月切りにされた人参が横幅を空けることなく綺麗に並んでいた。
「俺とセルディ先輩、キロルさんの三人で朝食は交代で作ることにしたんだ。ずっとキロルさんにお世話になるのも申し訳ないし。それで今朝は俺の番なんだ」
昨夜のうちに話していたのだろう。
クロイドが再び包丁で人参を切り刻んでいくのを隣で何となく眺めていたら、彼は突然小さく噴き出した。
「……見られていると緊張するな」
「あら、前もリンター孤児院で料理していたじゃない。減るものじゃないし、いいでしょう?」
そう答えつつも本当はクロイドの横顔を見ているのが好きだということは秘密である。
「何を作っているの?」
「野菜のスープとプレーンオムレツ。あぁ、パンは昨日キロルさんが買っておいてくれたものを薄切りにして、味付けしたものをオーブンで焼き直すつもりだ」
全ての作業を効率良く行うためにクロイドの頭の中には作業手順が綺麗に並んでいるようだ。
料理が全く出来ない自分はただ感心するしかないが、興味がないわけではない。
「……何か手伝うことはあるかしら?」
自分がそう聞くことをあらかじめ予想していたのか、クロイドは小さく笑って頷いた。
「切るのは得意だったな」
懐かしそうに彼は目を細めて、包丁を置いた。
「野菜を切ってくれるか? 俺はパンの方の下ごしらえをするから」
「分かったわ」
アイリスは髪を結っていたリボンでもう一度、一つ結びに結び直した。袖を腕まくりにしてから手を洗い、そして場所を譲られた包丁とまな板の前へと立つ。
その隣でクロイドはこちらの手元をちらりと気にかけつつも自分の作業を進めていた。
「よし……やるわよ……」
包丁をぐっと握りしめて、深く息を吐く。
クロイドの真似をして目の前にある人参を半月切りにすればいいだけだ。
だが、人参に刃を立てても上手く力が入らず、クロイドのように簡単には切れなかった。
「……まず、持ち方が剣の握り方と同じになっている」
「え?」
クロイドが一度、自分の作業を止めてからこちらへと向き直った。
「君の包丁の持ち方だと、野菜を正面にして切るのは難しいんだと思う。もっとこう……。親指を内側に入れる感じで持つと持ちやすいぞ」
「親指を内側?」
言われていることは難しいことではないはずだが、その通りに出来ないアイリスが首を傾げているとクロイドが一歩自分へと近付いてきた。
「少し、失礼する」
「え……」
すっとクロイドがアイリスの背後に立って、包丁を握っているアイリスの手に彼の右手を重ねて来た。
「君は剣の持ち方に慣れ過ぎているから、この場合だと野菜を切る時に逆に力が入れにくくなってしまうんだ。だから、こうやって親指を内側へと入れるように持って、野菜を切る時は少し後ろに引く感じで切るといい」
左耳から直接クロイドの声が入って来たアイリスは何となく気恥ずかしくなってしまう。しかし、彼は集中しているのかアイリスの様子に気付くことはない。
「それで左手は指を伸ばしたままの状態ではなく、少し指先を丸くするんだ」
手は重ねられたまま、クロイドの指示通りにアイリスは試しに人参に包丁の刃を入れて、ゆっくりと後ろへと引いた。
クロイドが切ったものよりも分厚いがそれでも綺麗に切れたことが嬉しくてアイリスは表情をぱっと明るくした。
「力を入れずに簡単に切れたわ……」
「あとは同じように切っていくだけだ。出来るだけ指を切らないように注意してくれ」
満足そうにクロイドは頷きながら、手を離していく。手の甲には彼の手の温もりが残っていたがそれはやがて冷めていってしまう。
「ありがとう、クロイド。……やっぱり、料理くらいは出来た方がいいわよね」
溜息交じりに呟きつつ、アイリスはクロイドに言われた通りにゆっくりだが丁寧に野菜を切っていく。
「まぁ、覚えておいて損なことはないと思うが無理に覚えなくてもいいと思うぞ」
ボウルにオリーブオイルやガーリックなどの調味料を入れつつ、その中に薄切りにしたパンをクロイドは浸していく。
「あら、どうして? 私の料理は食べたくないの?」
「そんなことはないが……。でも、俺が作ったものを美味しいって言ってくれる君を見るのが俺の楽しみでもあるからな。楽しみが減ると少し寂しいかもしれない」
作業を止めることなくクロイドはさらりとそう言った。アイリスは包丁を動かす手を止めて、目を見開いたままクロイドの方を見た。
「それにそのまま君が料理が出来なくても俺が君の隣に居るならそんなに問題ではないと思ってな。……こうやって一緒に出来るのもそれはそれで楽しいと思うし」
苦笑しながらクロイドはそう言っていたが、アイリスが顔を真っ赤にしながら固まっていることに気付くとすぐに口をつぐんだ。
彼の今の言葉の意味は深い意味として受け取れば、これからもクロイドが自分のために料理をしてくれるという風に受け取ることが出来る。
それはつまり――。
「と、とにかく……残りの野菜も手を注意しながら切ってくれ」
「わ、分かったわ」
気まずさが何となく漂ったため、二人同時に顔を背けて作業を続行する。
……今の言葉はこの先、結婚しても料理を作ってくれるという意味で捉えて良かったのかしら。
しかし、本人にその事を聞くに聞けなくなったアイリスは視線を合わせないまま人参を切ることに集中した。
結局、その日二人で作った朝食に砂糖は一切使われていないというのに、料理が全体的に甘い気がすると皆から評されてしまうのであった。




