筋肉
足先から指先まで温かなものが包み込んでいく。
腰に水浴び用の布を巻きつつ、初めて入る温泉にクロイドは少し戸惑いながらもどこか懐かしい感覚を思い出していた。
……王宮にいた時以来だな。
肩までゆっくりとお湯に浸かるのはかなり久しぶりな気がする。教会に居た時は沸かしたお湯だったし、教団だといつもシャワーだ。
「はぁ……。身体の芯まで温まるね……」
セルディが深い息を吐きながら薄く目を瞑っている。
「キロルさんも贅沢なことしているなぁ……。二つも温泉があるなんて貴族の家よりも贅沢だよ」
「まぁ、管理が大変だって言っていましたよ。それに雨の日に温泉は使わないらしいです」
ミカののんびりとした呟きにセルディが答える。
湯気が濃いので離れているとお互いの顔が見えづらいがその方が緊張しにくいため好都合だった。
誰かと一緒に風呂に入ること自体ないので、本当は少し緊張していたのだが温泉に浸かったあとはもうどうでも良くなっていた。
そう思えるくらいに気持ち良いのだ。
「……意外とクロイドって筋肉質なんだな」
いつのまにか隣に来ていたレイクが眉を寄せながら複雑そうな表情でこちらを見てきたため、クロイドは自分の身体を何となく見てみた。
もちろん、魔犬に噛まれた左肩には皆から探りを入れられないように湿布を貼って隠している。
「何か鍛えたりしているのか?」
「鍛えるというほどまでじゃないですけど、腕立て伏せとかくらいは……」
数はこなしていないが、これでも毎日腕立て伏せはしていた。昔、マーレに鍛えられた時の名残がいまも習慣として続いている。
……そういえば、健全な身体こそが最良の魂を作るってマーレさんも言っていたな。
何となく思い出した言葉にクロイドは周りに気付かれないように薄く笑った。
「嘘だぁ……。腕立て伏せだけでそんなに筋肉付くわけないよ……」
温泉の中に顔を半分沈めながらどこか羨ましそうな声でミカが反論してくる。
「筋肉は一日にしてならずだって、ナシルが言っていたよ。昔から色々と鍛えていたんじゃないの」
探るような問いかけにクロイドは苦笑した。
「確かに昔は色々とやっていました」
「ほう、色々と?」
ミカがすいっと水面を泳ぐようにこちらへと近付いてくる。
身体を動かすことは嫌だが、ナシルに日々言われているが故に身体の鍛え方には興味があるのだろうか。
「……ちょっと前まで剣術も武術も習っていました。多分、それのおかげもあると思います」
王宮にいた際にはどんな物事も普通以上に出来なければならなかったので、それなりの努力はしていた。
もちろん、王子だということは魔具調査課ではアイリスとブレア以外知らない話だ。あまり身の上話をするつもりはないがそれくらいは話しても大丈夫だろう。
「あぁ、だから任務の時の動きとか結構、洗練された感じがしていたんだな」
納得するようにレイクが深く頷いた。
アイリスがレイクはよく人のことを観察している人物だと言っていたが自分の知らないうちに自分のことをよく見ていたらしい。
「……ねぇ、クロイド。ちょっと聞いてもいい?」
ミカはふと思いついたように顔を上げる。
「何ですか?」
「どうして呪われた男だなんて言われているの?」
瞬間、セルディとレイクが息を短く吸い込んだ音が聞こえた気がした。クロイドもまさかその事を聞かれると思わずつい目を見張ってしまう。
「ミカ先輩……」
クロイドの事を気遣ってなのか、たしなめるようなセルディの視線さえもミカは無視してクロイドへとまた近づく。
「あんまり話したくないなら、いいけどさ。でも、俺……。この前ちょっと腹が立ったことがあったんだよね」
今度は短くミカが溜息を吐いた。
「他の課の奴からさ……。魔具調査課には呪われた奴がいるんだろう、犬を飼っているんだろうって言われたんだ」
視界の端に映るレイクが顰めた面をした。
「その時、自分の後輩を馬鹿にされて凄く腹が立ったんだよ。でも、俺はクロイドのことをよく知らないから反論する言葉を持っていなかったんだ。結局ナシルが言い返してくれたけどさ……」
「…………」
確かに自分の事情を知らない人から見れば、呪われた奴を置いている物好きな課だとしか思われないだろう。
「それは……何とも嫌な言い方をする奴らですね。……魔物討伐課ですか?」
「当たり」
セルディの問いかけにミカは渋い顔のまま答える。
「別に反論するための材料にするわけじゃないけど……。俺達くらいはクロイドのことをちゃんと知っておいた方が味方になりやすいし、何か悪口言われたら反撃しやすいし」
「反撃はするんですね……」
「やられたらやり返すのかうちの課の信条だよ」
きりっとした顔でミカがそう言ったのでクロイドはつい苦笑してしまった。
「……俺達はさー。頼りないところだってたくさんある先輩だけれど、それでもクロイド達の先輩なんだよね。だから可愛い後輩が嫌な思いするのは嫌なんだ」
ミカはこの中の誰よりも身長が低く、童顔であるというのにその一瞬だけは誰よりも大人に見えてしまった。つまり、自分はどうやら後輩として心配されているらしい。
クロイドは一つ息を静かに吐いてから、ゆっくりと視線を下へと向けた。
「……前までは俺自身もこの呪われた身が嫌いでした」
「…………」
温泉の水面に自分の顔が映る。
この黒髪で黒目という姿さえも昔は嫌いだった。
「でも、今はそれほどまで嫌いじゃないんです。だから、何か言われても前みたいに嫌な思いはしなくなりました」
「……それでも俺達はクロイドが悪く言われるのは嫌だよ?」
ミカの言葉に同意するようにセルディとレイクも頷いている。
三人のどこか心配するような表情にクロイドは小さく笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。……それじゃあ、少しだけお話しますね」
自分の正体を探りたいというわけではない。恐らく、自分のことを理解したいと思っているのだ。
何も知らないままなら、きっとそれは自分のことを悪く言ってきた奴らと変わりないと思っているのかもしれない。
「……この呪いは黒い犬に変化することが出来るんです」
「黒い犬?」
レイクが首を傾げる。
「詳しくは話せないのですが……。以前、魔物から呪いを受けてしまってその影響で犬に変化出来るんです」
「魔物から……」
セルディの視線が少しだけ同情的なものになった気がして、クロイドは気にしなくても良いと言うように小さく笑って見せた。
「呪いの解き方もまだ分からないままですが……。それでも先に進み続けて、いつか呪いを解くと約束しているんです」
その約束をしている相手が誰なのか、言わなくても分かったのか三人の視線は木製の仕切りの向こう側へと移っていた。
「……前向きなんだな」
右肩にぽんっとレイクが手を置いてくる。
「最初は呪われた奴がうちの課に来るなんて聞いたから、どんな奴だろうって思っていたが……。会ってみたら随分と優秀で良い奴だし、何より俺達にとって初めての後輩だからな。これでも色々と面倒見なきゃいけないなと思っていたんだぜ?」
「前から後輩欲しいって言っていたもんねー」
「レイクのことだから先輩風吹かせて嫌がられていないか心配だったんだけれどね……」
「先輩達がいない間も、俺はちゃんと先輩として格好良くやっていましたよ!」
二人に反論するようにレイクが唇を尖らせる。
「まぁ、つまりはもっと遠慮せずに自分達に頼って欲しいって言いたいんだろう?」
「そう、それです、セルディ先輩っ!」
同意するようにレイクが何度も頷く。
「……クロイドもアイリスも俺達にとっては大事な後輩だからさ……。呪いのことでも、魔法でも任務でも私事でも何でもいいから相談には乗るし、最善を尽くすことだって手伝える。……それだけは覚えておいてくれるといいな」
ミカにしては珍しく、表情を緩めて笑みを浮かべているように見えた。
「……はい。こちらこそ未熟者ですが宜しくお願いします」
軽く、だが静かにクロイドは頭を下げる。
思えば、頼るということは自分が苦手としていたものの一つなのかもしれない。それをもしかすると自分以外の人間は見抜いてしまっているのだろう。
だから、頼ってもいいのだと言ってくれるのだ。
……温かいな。
自分を包み込んでいるこの湯よりも心の奥まで沁み込んでいく。前までなら、人からの厚意を素直に受け取ることは出来なかっただろう。
自分は自分が思っている以上に色々と変わってしまったようだ。
「――わっ、大丈夫か!?」
突然、仕切りの向こう側からナシルの驚くような声が聞こえて、ミカがぱっと顔を上げた。
「……ナシルー。どうかしたのー?」
はっきりと大きな声で向こう側に伝わるように大声を張るとすぐに返事が返って来た。
「――いや、アイリスがのぼせたみたいなんだ。……とりあえず、湯の外へ運ぼう」
ナシルがその場にいる誰かに声をかけているようだ。恐らくだが、温泉に慣れていないアイリスがのぼせて倒れたという事だろう。
ナシル達が対処してくれているようだが、クロイドは気付いた時には立ち上がっていた。
「あの、俺……お先に失礼します」
出来るだけ慌てる素振りを見せずにそう言ったがセルディから引き止められる。
「のぼせた時の対処法は、まず手足を出した状態で首や脇の下を濡らした布で冷やすといいよ。それと足は木桶に水を張ったものに入れておくんだ。風を相手に送るのも効果的だし、何より水分の補給も忘れないように」
「……ありがとうございます」
適切な対処法を細かく教えてくれたセルディに軽く頷き、クロイドは三人に背を向ける。
「……一応、向こうにも伝えておきますか」
「そうだね。――ナシルー。今、クロイドが湯から上がったからー。アイリスはクロイドが介抱するってー」
「――おー、了解! ユアン、すまないが服を……」
背後から聞こえる声に感謝しつつもクロイドは倒れたアイリスを介抱するために急いで着替えをしに向かうのであった。




