釣り
広い横幅の川の流れは緩やかに水を運んで行き、せせらぎの音を作っていく。風が吹けばすぐ近くの木々が大きく揺れて水面も穏やかに揺らしていった。
「…………」
これほどまでに静かだと感じるのはいつぶりだろうか。そう思える程に自然の音に囲まれているというのに、とても静かに思えたのだ。
そんな静けさの中でクロイドはふっと短めの息を吐く。
自分の身体よりも大きめの岩の上に腰を下ろし、クロイドは釣り竿の糸の先をじっと見つめていた。
こうやって、釣り用の餌を針に付けてからずっと糸が揺れる瞬間を待っているが全く反応はない。
正直、釣りということ自体をしたことがなかったので、キロルの説明通りにやってはいるがあまりにも釣り糸の反応の無さにこのやり方でいいのかと不安になってきてしまう。
他の先輩達の方を見るとセルディは真面目に立って釣りをしているようだが、ミカはというと釣り竿を抱えるように握りしめたまま、眠りこんでいる。
ここは日差しが木々よってある程度遮られている上に水際なのでかなり涼しく、眠りやすいのだろうとクロイドは密かに苦笑した。
「だぁっー! もう、無理だっ!!」
そう言って音を上げたのはレイクだった。釣り竿を持ったまま大きい石の上に身体を投げ出すように転がり込む。
「まぁ、忍耐との勝負だってキロルさんも言っていたからね」
セルディが苦笑しながらそう答えるがレイクはもう我慢出来ないのかとうとう釣り竿を水面から回収して釣り針の先を確認した。
その針先には餌がそのまま残っていた。
「もう、二時間くらいやってこれですよ? 一匹も釣れないなんておかしくないですか!?」
「時間をこなせば釣れるというわけではないけれどね……」
「レイク、うるさいよー。俺が眠れなくなるじゃん」
「って、そこは魚が逃げる心配じゃないんですね!?」
レイクのこぼした愚痴によって静まっていた空気は賑やかなものへと変わる。
確かにレイクの性格だと静かに待つのは苦手なような気がしてクロイドはつい苦笑してしまった。
「あ、クロイド、笑ったな~?」
「……笑ってないです」
口を一文字に結び直してクロイドは首を横へ振る。
「随分と余裕そうじゃねぇか。……そりゃっ!」
レイクはにやりと笑い、両手で掬った水を思いっ切りクロイドに向けて投げかけてくる。
「わっ……」
掬うように投げられた水が顔へとかかり、クロイド思わず驚いた声を上げてしまう。
「……レイク先輩」
すっかり髪が濡れてしまったクロイドが困ったような声色で呟くとレイクは腹を抱えて笑い始めた。
「ははっ……! 水も滴る何とやら……ぶっあ!?」
レイクと話している最中、突如彼の顔が水浸しとなり、レイクは何が起きたか分からないといった表情で目を丸くした。
その表情の変わりようにクロイドは申しわけないと思いつつもつい噴き出してしまう。
「ふむ。意外と面白いかも」
そう言って頷くのは「記憶の筆」を右手に持って、指で回しているミカだった。釣りはもう止めたのかその傍らには釣り竿が引き上げられている。
「ちょっと、ミカ先輩~」
「だって、暇じゃん。……『水の玉』」
ミカが記憶の筆で宙に文字を綴っていく。魔法によって生み出された水の塊をミカが掌で思いっきり叩くと空中に浮かんでいた水の塊は勢いを付けて再びレイクの顔を直撃した。
「ぶはっ! 冷たっ……」
「うん。これは面白い」
今度はミカがにやりと笑った。
「やりましたね~?」
レイクは腕まくりをしてミカの方に向かって水を掬い上げる。
「『水の壁』」
ミカがすらすらと空中に魔具で文字を綴っていくと、彼の目の前に薄っすらと川の水によって作られた壁が形成され、レイクからの攻撃をぎりぎりで防ぐ。
「ふっふーん。そんな簡単には濡らさせないよ」
「ミカ先輩ずるいですよ! 俺、魔具は部屋に置いてきたのに……!」
丸腰のレイクに対してミカは余裕の表情で魔具を指先でくるくると回す。
「俺の魔具は濡れても平気なやつだからね。……『水の玉』!」
再び宙に書かれた文字が水の玉へと変化し、ミカはそれを思いっ切り掌で叩く。
しかし、やられっぱなしのレイクではないようで、こちらに向かってくる水の玉の軌道を読み切ったのか自分に触れる直前で攻撃を避けていた。
「中々やるじゃん、レイク」
「ミカ先輩こそ……」
白熱し始める二人の戦いを眺めていたセルディは盛大に肩を竦めつつ溜息を吐く。
「二人とも……暴れたら魚が逃げるって……」
水の打ち合いをしている二人によって川の水面は激しく揺れており、これでは魚が驚いて逃げていくのは明白だった。
「少し休憩しませんか。ずっと同じ体勢だと疲れますし」
クロイドが暴れ始める二人を横目で見つつセルディに提案すると、その案に賛成なのか彼も軽く頷いて、釣り糸を水の中から引き上げて、傍らへと置いた。
「まぁ、この状態で釣りをしても意味ないだろうね。……キロルさんには悪いけど、少し休ませてもらうよ」
そう言うとセルディは自らの靴と靴下を脱ぎ始め、ズボンの裾を折り曲げてから素足を浅瀬へと浸け始める。
「……っはー……。冷たい……」
疲れ切ったような溜息にクロイドが穏やかに笑うとセルディも笑い返してきた。
クロイドも釣り糸を引き上げて、針を見失わないようにと糸ごと釣り竿に巻いていく。釣り竿を岩に立て掛けてから、履いていた靴と靴下を脱ぎ始めた。
「まぁ、あの二人みたいに心から楽しみたいとは思うけれど、身体と精神が追いついて来ないからね」
セルディは彼なりにゆっくりと楽しみたいらしく、川に足を浸けたまま近くにあった岩へと腰掛けた。
自分も全力で水の掛け合いが出来る程の性格ではないため、あの二人の間には入れないだろう。素足になったクロイドはゆっくりと確かめるように川の中へと足を入れる。
「っ……」
思っていたより冷たい温度に顔を顰めるとセルディが声を立てて笑った。
「自然の中の水って、僕らが普段生活で使っている水よりも凄く冷たいよね」
「そうですね……」
足に感じる冷たさをクロイドは少しずつ実感していく。
今まで川に入る機会なんてなかったし、そもそも森へと来ることさえなかった。
……これが自然か。
自分で改めて実感するのは少し恥ずかしいが、それでも実感せずにはいられない。
足の指の隙間を水が止まることなく流れていき、足裏を支えている石達が何故かよく足に馴染んでいる気がした。
「この季節だから丁度いい感じに気持ちいいけれど、冬場に釣りは辛いよね。でも、冬の魚も美味しいんだよなぁ」
セルディの言葉にクロイドはふと聞きたかったことを思い出す。
「そういえば、セルディ先輩って料理が得意なんですか?」
「僕かい? まぁ、それなりに出来るよ。料理人には敵わないけれどね。……出張先で外食ばかりだとお金がかかるから覚えたんだけれど、結構楽しいよ。それに自分を守るためでもあるからね」
「自分を守るため?」
急に話の雲行きが怪しくなったように思えてクロイドは訝しげに聞き返す。
「ほら、ロサリアって辛いものが好きだろう? 彼女に食べ物に関することを任せると、いつも辛いものを仕込まれるんだ……」
「…………」
つまりは自衛のために料理を覚えたらしい。彼も中々苦労しているらしいが、それでも嫌というわけではないらしく、困っているような笑みを浮かべていた。
「確かクロイドも料理が得意だって聞いたよ。特にお菓子が美味しいってユアンとレイクが言っていたけれど」
「たまに作ったものを食べて貰っているんです。……俺も料理は必要に応じて覚えただけなので」
最初はもちろん、料理なんて出来なかった。それでも王宮から追い出されて教会に入れられてからは料理も掃除も生活する上で必要なことだったので覚えただけだ。
それがまさか今はこうやって活かすことが出来ているのだから、覚えておいて損はなかったと思う。
……自分が思っているよりもちゃんと活かせているんだな。
自分の経験が全て、実を結んでいる。
それを目で見て分かる程に表しているのはアイリスの笑顔を見た時だろう。彼女の笑顔を見た時、作って良かった、頑張って良かったと思えるのだ。
透明な水面に自分の顔が揺らめきながら映る。思えば昔よりも性格も表情も柔らかくなってしまったものだ。
「おーい、セルディ先輩、クロイド! 2対2で勝負しようぜー!」
レイクに呼ばれた二人は同時に顔を上げる。
どうやら分かれて水の掛け合いの勝負をしたいらしいが、レイクはすでにびっしょりと濡れていた。恐らく魔具を使っているミカの方が上手だったのだろう。
「全く……怒られても知らないよ?」
セルディは渋々といった感じで立ち上がった。どうやら参戦するらしい。
クロイドもセルディの溜息交じりの言葉に苦笑しつつ立ち上がった。
「やるなら、浅瀬でやってくれよ……。深い所は危ないから」
「セルディはレイクと組んでー。俺はクロイドと組むから」
「……ミカ先輩、もしかして身長の平均でチーム分けしていないですか?」
レイクが眉を深く寄せつつそう訊ねるとミカはふいっと顔を背ける。
「よし、クロイド。俺がたくさん水の玉を作るから、クロイドはそれをあっちのチームに向けて叩きまくって」
「わ、分かりました……」
どういうルールによる勝ち負けなのかは分からないがとりあえず相手に水をかけまくった方が勝ちらしい。
「あ、無視しましたね!? 絶対負けないからなーっ! セルディ先輩、全力で行きますよ!」
「……水苔で滑らないように気を付けてね」
どうやら夕食の魚料理は諦めるしかないなとクロイドとセルディはそっと視線を交わしつつ苦笑しながら頷くしかなかった。




