氷の下
アイリスは軋む音を立てる結界の向こう側にいる髪切りジャックを小さく睨む。
「私が飛び出て囮になるから、あなたには……」
考えた作戦についての言葉を続けようとした瞬間、結界に亀裂が入った音が響く。時間がないことを告げる音にクロイドは顔を顰めた。
「彼の足元からしか影は出ていないから、それを上手く封じ込めて欲しいの」
アイリスからの早口の提案にクロイドは苦渋の顔のままで振り返る。
「……分かった。何とかやってみる」
クロイドが軽く頷いた次の一瞬で結界が壊れた音がその場に響き、攻撃をしていた影がこちらに向かってその手を伸ばしてくる。
アイリスは咄嗟にクロイドの前へと飛び出て、短剣で目の前へと襲い掛かってくる影を軽く薙いだ。
風が巻きついている短剣は影の攻撃を斬らないまま跳ね返し、影はアイリス達とは別方向へと波打つように弾き返った。
「何だと……」
さすがの髪切りジャックも眉を潜めてアイリスの持つ短剣を凝視する。
「……どうやら予想が当たったみたいね」
少し冷や汗をかきながらアイリスはにやりと笑う。
「光が当たる場所で影の威力は大きいものになるけれど防げないわけじゃない。切り落とすことは出来ないけれど、魔法を使えば跳ね返すことも防ぐことも出来るわ」
でなければ、クロイドの結界も簡単にすり抜けていただろう。
一種の賭けだったが思ったよりも効果があったので安堵しているが出来るだけ余裕の笑みを相手に見せつけた。
「っ……、この……!」
太い縄のように鞭状の影の姿が変わっていく。その一本に力を集約させているのだろう。先程の影よりも随分と大きくなったものだ。
月はまだ雲に隠れないらしく、その場をずっと照らしたままである。
「さぁ、来なさい。私が相手してあげるわ」
こっそりと靴の踵を三回叩き、アイリスは自らに向かってくる影の攻撃を寸分だけ右に避けつつ短剣で下から上へと突き上げるように薙ぐ。
しかし、攻撃してきた影の裏側に隠れるように髪切りジャックが鋏をこちらへと突き刺そうとしてきていた。
「…………」
それさえアイリスは軽く飛び跳ねて躱していく。
「何なんだ、君のその動きは!」
アイリスの予測不可能な動きに腹を立てたのか髪切りジャックは顔を真っ赤にしながら不満を吐き出した。
相手を挑発しながらアイリスはクロイドの魔力が溜まるのを待っていた。
どのタイミングで魔法を放つのかは彼に任せている。自分はそれまで時間を稼ぎ、彼の魔法に合わせて動くだけだ。
「あら、そんなことあなたに教える筋合いないわ。大人しくその魔具を渡してくれるなら、これ以上私に弄ばれなくて済むわよ」
だが男にそんな気は全くないのか地面を覆うように影を広げて、アイリスに向けて影の波が一斉に押し寄せてくる。
地面一面が黒く染まり、埋め尽くしていく光景にアイリスは溜息を吐いた。
ぽんっと地面を軽く蹴って、空中を舞うように跳びながら避けているとその瞬間を狙っていたかのように細い一本の影がアイリスへと矢の如く向かっていた。
空中なら逃げ場がないと思ったのだろう。
だが、こちらには風斬りの魔法がかけられている短剣がある。アイリスは空中で体勢を綺麗に整えながら、細い影の横っ腹を叩くように短剣で振り切った。
「何故だ……何故なんだ!!」
地団駄するように髪切りジャックは地面を強く足で叩いた。
アイリスは影で埋め尽くされていない地面へと一寸の隙がないまま着地する。
「いい加減にしてくれ! 僕の邪魔をするな!」
「こっちだって仕事だもの。生半可な気持ちであなたの相手をしているわけじゃないわ」
その時、髪切りジャックの後方にいるクロイドを視線が重なった。
「――跳べ!」
クロイドの言葉がはっきりと聞こえ、アイリスは再び空中へとその身を投げた。
額に汗が浮いたままのクロイドが髪切りジャックの足元に向けて両手をかざした。
「氷の女神、グラシスに乞う。今ここに汝が力、顕現したまえ! 凍る鉄の盾!」
クロイドの足元から襲い来るように広がっていく氷の波は一瞬で髪切りジャックの足元を隙間なく覆っていく。
空中を舞うように跳びながら、アイリスは自分の真下で地面が一瞬で氷漬けになっていく様を眺めていた。
「なに、を……」
氷の波は地面を覆いつくしていた影に被さるようにしながら、限りなく広がり続ける。
そして地面を埋め尽くしていた黒い影を逃がすまいと覆いかぶせるように広がっていき、そして完全に影の動きを捉えた。
「くそっ……。僕の影が……!」
髪切りジャックの足元は完全にクロイドによって生み出された氷によって防がれているため、隙間がないのか影が氷上に出せないようだ。
今や髪切りジャックの影は氷と地面によって板挟みされている。氷が溶かされない限りそう簡単には動けないだろう。
アイリスは巻き込まれないようにと設置されていた長椅子の上へと着地した。
「……さすがね」
「…………」
アイリスの労うような瞳にクロイドは少しだけ苦しそうに息をしながら彼は口元を緩める。
呼吸すると白い息がふっと出ては消えて行った。氷の季節ではないというのにここら一帯を氷上へと変えてしまうクロイドの魔法の威力には脱帽するばかりだ。
「どうして邪魔をするんだ……! 僕はただ……自分の好きなことをしているだけだろうっ。君には関係ないじゃないか!?」
心の中からそれだけしか思っていないと言っているような言葉にアイリスは表情を深く歪ませる。
長椅子の上から氷上へと下りて、迷うことなく髪切りジャックの前へと立った。
「それ、本気で言っているのなら私はあなたを今から一発だけ殴るわ」
地を這うような低い声でアイリスは言葉を吐く。
「好きなことややりたいことを主張するのは大事だけれど、あなたが言っているその言葉と行動はただの脅迫混じりの押し付けと一緒よ。関係ないですって? ……残念、大有りだわ」
「押し付けだと言うなら君のその言葉だって僕にとっては押し付けだ!」
「あなたの趣味と比べてこっちは秘密裏に認められた『仕事』をしに来ただけだもの。あなたの持つ魔具を回収するために私達はここにいるの」
『奇跡狩り』は誰かに止められるものではない。止められないものだ。
アイリスは右手に持っている短剣で髪切りジャックが握っていた鋏を叩かんばかりに弾いた。
金属が擦れた音とともに男の手から勢いよく鋏が離れて、氷上の地面へと刃を立てるように突き刺さる。
「…………」
アイリスの表情が暗く、瞳が鋭いものへと変わっていることに気付いたのか髪切りジャックは喉を鳴らすように唾を飲み込んでいた。
月明りがアイリスの表情を照らす。氷よりも冷たい表情でアイリスは自分よりも背の高い髪切りジャックを見下ろすように見ていた。




