影の手
アイリスの質問にその男は一瞬考える素振りを見せる。
素振りというよりも実際はアイリスを凝視しているように見えたが、次の瞬間には再び口元を歪ませた。
「……君には関係ないことだよ」
「…………」
彼がそう呟いた瞬間、鋏を持つ手が微妙に後ろへと下がった隙をアイリスは見逃さなかった。
身体を刃先が届かない位置まで屈ませて、地面を転がりながら相手と距離を取りつつ腰に下げていた短剣を素早く抜いた。
「やはり君は只者じゃなさそうだね。魔力は無いみたいだけれど」
男は何か確信を持ったようにそう言ったように聞こえた。
「あなたの方こそ、何が目的なのかしら?」
距離を取りつつ、短剣の刃先を相手に向ける。
念のために靴の踵を三回鳴らしておいた。
「言っただろう? 金髪の君には関係ないって」
男が半月のように口元を歪めた瞬間、彼の足元から短冊状の黒い影のようなものがアイリスを覆うように伸びてくる。
「っ!」
アイリスは地面を強く蹴って自分に向けて伸びてくる異様な影の手から何とか逃れた。
自分が先程までいた場所には黒い水のような固まりが出来ており、それはやがて地面を這いずるようにしながら男の足元へと吸い込まれていく。
……影使い?
確か影を操る魔法が存在しているが自分の覚え違いなのか、以前見た事のある影魔法とは少し勝手が違うように思えた。
男の足元では影が細い鞭状の姿へと変えて波打つように動いている。
……影自体が生きているように見えるわね。
影自体が意思を持って動いているのかそれとも男の意思で動かしているのかは分からない。何しろ飛び道具のように影を使われるのは少々面倒だ。
クロイドがこちらの魔力に気付いているなら近付いてくる可能性もある。残念ながら今の場所からでは建物の陰になっているためクロイドがいる方向を見ることはできない。
「下ばかり見ているようだけど」
男がにやりと笑った。
距離はちゃんと取っている。間合いには入られていないはずなのに、彼の見えない剣先がすぐ傍まで来ている気がした。
「頭がお留守になっているよ」
よく見れば男の背後にある壁が他の壁の部分と比べると黒く見えた。
男から伸びている影が彼の背後の壁を這うようにしながら遥か上へと伸びていたのだ。
はっと気づいた時にはもう遅く、頭上には彼の影が大きな布のように自分へと被せられる。
「おやすみ、お嬢さん」
「っ……」
黒い視界に阻まれる瞬間、最後に見えたのは微笑を浮かべる男の表情だった。
「…………」
ふっと何かの視線を感じたクロイドは顔を上げる。だが、建物の壁に囲まれたこの場所は街灯が一つあるだけで他には何もない。
アイリスが自分の方を見ているのだろうかと思ったがその瞬間、誰かの魔力反応を感知した。
近くに魔力反応を感じたならば合図をすることになっている。
クロイドは立ち上がり、靴の踵を三回鳴らした。
軽い音がその場に響く。
魔力反応があった方向がどちらからなのか探ろうと意識を集中させてみる。
……アイリスのものではない匂いが一つ。
香水のような匂いが鼻を掠める。まるで女のような匂いだ。
もちろん、アイリスは香水など付けない。
しかし、匂いの方向を辿った先にアイリスが身を潜めている場所があることにすぐに気付いた。
「っ、アイリス……!」
嫌な予感がしたと同時に大量の魔力の放出が感じられる。その方向は確かめなくても分かっている。
だが、足を動かそうとしているのに何故か身体は動けずにいた。
「なっ……」
身体が動かないわけではなく、足が地面に張り付いたように動けないのだ。
「くっ……」
はっとして足元を見ると黒い布のようなものが自分の足に巻き付いて離れない。まるで影のように見えるその黒い布は長く暗闇に向かって伸びていた。
何とか動こうと上半身でもがいても意味はないようだ。
「こんばんは、お嬢さん」
場違いな程に軽やか声が影の伸びている方向から聞こえ、クロイドは咄嗟に身構えた。
暗闇からひょっこりと顔を出したのは赤毛の若い男だった。警官の服装をしている男の足元からその影はまっすぐと自分の方へと伸びていた。
「こんな遅い時間に暗い場所で何しているんだい?」
男が舌なめずりをした気がして、クロイドの背筋に悪寒が走る。
だが、目の前の男は油断しているのか完全に自分のことを女だと思っているようだ。
「……最近、黒髪の女子が無理矢理に髪を切られているという事案が発生しているがそのことを知っているか?」
確信を持った上でクロイドは聞いてみる。
「あ、もしかしてこの前の女の子達のお仲間かな?」
悪びれるような表情が一切ないまま、男はにこやかに近付いてくる。
「うん、いいね。遠目で見ていたけれど綺麗な黒髪だし、魔力もあるみたいだ」
男の手元には青と灰色が混ざったような色の鋏があった。この男が任務対象の髪切りジャックで間違いないだろう。
こちらへ駆けつけてこないアイリスの様子が気になるがその前にこの男を捕えるか気絶させた方がいいだろう。
……上半身が動くなら問題はない。
クロイドは男に向かって手袋をしている右手をかざした。
「束縛せよ!」
しかし、魔法を向けた先にいる男の動きが止まることはない。
「っ!」
事前にこの手袋で魔法を使う練習をした際は問題なく使えた。それなのに魔法が呪文通りに発動することはなかった。
「魔法かい? 他の女の子達も僕に使おうとしていたけどそれは無駄な行為だ」
余裕の笑みを浮かべる男に対してクロイドは眉を潜める。
おかしいのはこの手袋ではない。
自分の内側から上手く力が出ないのだ。
「まさか……」
足元で自分の動きを捉えている影を凝視する。
「その通り。この影は魔力を抑えることが出来る特別製のものでね。凄く便利なんだよ」
一歩、また一歩と男が近付いてくる。
クロイドはこの時、何故被害に遭った女子達が魔法を使って回避することが出来なかったのかを思い知った。
まず、相手が警官の服装ならばある程度の警戒心はあっても敵だという認識は低くなってしまうのだろう。
そして地面から一歩も足を動かすことの出来ないこの状況では逃げることさえできない上に、この影による影響なのか魔力の出力が抑えられ魔法が使えないのだ。
「……何のために髪を集めているんだ」
男だと覚られないように少し高めの声色で訊ねてみる。
まだ上半身が動くなら、相手が近づいてきた瞬間に顔面でも狙って即座に気絶させる機会を待つしかない。
「美しいもの集めることに理由なんているのかい?」
心の底から本当にそれだけしか思っていないと言っているようだった。
「文献で魔力は髪に宿ると読んだのさ。そしてその髪はどんな髪よりも美しく光るのだと……。僕はそれが見たいんだ」
それがいかに素晴らしいのかを語るように男は興奮気味にそう言った。
男の持つ鋏が街灯によって鈍く光り、彼の足元から伸びた影が少しずつ上半身へと上って来る。
「っ……」
自分の価値観で物事を全て測ることは正しくないと分かっているが、この男はどこかおかしい。
そしてはっきりと言って気味が悪い。
「さて、その美しい髪を頂こうか。何、眠っているうちに終わるよ。顔にも傷付けない。ただ大人しくその黒髪を渡してくれればいい」
とうとう影が自分の腕を縛り上げていき、身体全体の自由が利かなくなってしまう。
……こうなったら犬化する方法しかないか……。
あまり人前で犬化するべきではないと分かっている。しかしこの状況で手段は選べない。少しでも可能性があるならば一度犬化で影の手から逃げ延びて体勢を整えた方がいいだろう。
男の手があと数歩で自分に触れる前にクロイドは犬化することを静かに決意した。




