白紙
「それ、水宮堂のヴィルさんから聞きました。明らかに魔的審査課の担当内容ですよね」
口出しするのさえ今は恐れ多いが、アイリスはブレアの顔色を窺いながら訊ねてみる。
「そうだ。私だってそう思っている。なのに……あの男は……」
ブレアはぐっと拳を作ったがすぐにそれを解いた。
山積みになっている書類から二人分の資料を取り出して、こちらへ渡してきた。そこには乱雑に書かれたミレットの文字が並べられていた。よほど、急いでこの書類を仕上げたのだろう。
学校から帰る途中までは一緒だったというのに、1時間ほどでこれ程の情報を集めてまとめてしまうとは本当に恐れ入った。
「……早急にミレットに調べさせたところ、『髪切りジャック』と呼ばれている奴が魔具を持って行動していることが判明した。まだどのような魔具なのかははっきりと分かっていないが、奴を見つけ次第魔具を没収。そしてその甘い汁を吸うように魔的審査課があとは処理してくれるらしい」
言い終わったあとにブレアの舌打ちが聞こえた気がしたが、そこはあえて触れないことにした。
「その男、夜な夜なこの街で獲物を探しているんですよね? この広い街からそんな簡単に奴が見つかるでしょうか」
「魔力探知結晶でも、範囲が広いと探しにくいわね……」
「それは心配しなくてもいい。奴が出没しそうな場所をあらかじめミレットに絞り込んでもらっている」
さすがはミレットだと思ったが、もしかすると彼女も多くの仕事を任されている可能性があるので素直に喜ぶことは出来なかった。
今度、課内旅行前に休日が被っている日があるので、その時に甘いものでもご馳走して労おう。
……その日までに任務がある程度落ち着いていなければ、休み返上という可能性もなくはないが。
「あと時間は深夜、狙う獲物は黒髪の女性。……教団の女性ばかりを狙っている」
アイリスとクロイドは同時に資料を捲っていく。
「魔力のある黒髪の女性を狙っているということでしょうか」
「その可能性はあるな。ただ何の目的を持って、人の髪を無理矢理切る所業をしているのかさっぱりだけれどな。それでも今日中にこの任務を終わらせなければ、大量に待っている任務は片付くことはない。……そこで私は一つの良策を考えてみた」
疲れ切った表情が歪む程に黒い笑みへと変わる。
嫌な予感がしたのだろう。隣にクロイドが身震いしていた。
ブレアの細められた瞳は真っすぐとクロイドを捉えている。
「髪切りジャックは黒髪で魔力のある女性を狙っている。だが、この課に黒髪の女性はいない」
確かに自分もユアンも金髪だし、ナシルは金色に近い小麦色だ。唯一、黒色に近い髪色を持っているロサリアはただいま短期出張中である。ミカは男性にしては小柄で髪色も黒に近い茶色だが、恐らくこの任務には向いていないため除外されている。
アイリスは何となくブレアの言いたいことを察してしまい、クロイドに同情的な視線を送った。
彼の表情はまるで希望が持てない未来を見据えているように見えた。
「そして黒髪の奴と言えば……お前しかいないんだよ、クロイド」
クロイドは右手で自分の額を押さえ始める。彼もすでに分かっているのだ。ブレアからこの後、何と言われるのかを。
「クロイド・ソルモンドに『黒髪の女性』として髪切りジャックをおびき寄せる囮となることを命じる! 以上!」
言い切ったブレアは満足そうに鼻をならす。
そして女装命令という大仕事を一つ終わらせたからなのか、机の上に置いてある書類の山に手を伸ばし、万年筆を手に取ると高速とも呼べる速さで書きなぐるように書類に署名し始めた。
ブレアには彼女にしか出来ない仕事が山ほど残っているようだ。
その一方でクロイドは失意のどん底にいるようなそんな深い溜息を吐きながら、ぽつりと呟いた。
「……アイリス。すまないが、君の服を貸してくれないか」
「……えぇ」
出来るだけ、女性の体格に見えるような服を選んであげよう。だが、自分の服のサイズがクロイドと同じくらいなのは少し微妙な心境である。
課長室からそっと出ると、レイクとユアンが気になっていると言わんばかりの瞳をこちらに向けて来た。
暗い表情のままクロイドが首を横に振るとレイクは立ち上がり、そしてそっと肩に手を置いてくる。
「大丈夫だ。俺も明日に控えている任務で女装するから」
レイクはそう言ってクロイドを励ましているが彼の瞳も光が見えないほどに暗かった。
この課では潜入したりする際に変装することはあるが、これほどまでに女装が多い課だと思っていなかった。
もしかするとソファで寝ているミカや出張でいないセルディも半強制的に女装による任務を任されたことがあったのだろうか。
「…………」
いや、そのような古傷をえぐることは自分には出来ないとアイリスは首を横に振った。
「ふふふ……。クロイド君用の付け毛もすでに用意してあるわ。今夜の任務のために私があなたを可愛らしい女性にしてあげるからね!」
「おい、ユアン。俺達は今夜、二件の任務が控えているんだぞ……」
「分かっているわよ……。でも、私だって……私だって癒されたい……!」
疲れてきているのだろう。ユアンが両手で顔を覆い、それを慰めるようにレイクが肩を軽く叩いていた。
「んがっ……! はっ……寝ていただと……? あれ、終わったはずの書類はどこだ……」
座ったまま寝ていたナシルが飛び上がるように起きると同時に周りを見渡す。
「嘘だろ……。夢だったのか?」
「んー……。ナシル、うるさい。俺はまだ……カスタードプティングを……」
寝言で返事をするミカに対して、ナシルは両手で作った拳をこめかみに押し付ける。
「起きろ、ミカ! 全部、夢だったんだよ! せっかく、書類が終わったと思っていたのに……!」
「痛いっ! ちょっと……痛いってば! 分かったから、起きるから止めて!」
そんなナシル達の姿を見ながらレイクがぽつりと呟く。
「……なぁ、ユアン。クラリスのところでさ、眠らなくても一日過ごせるように魔法をかけてもらおうぜ。そうすれば残りの任務の山もすぐ終わる気がするんだ」
「不眠の魔法は駄目だってずっと前に黒い笑顔で言われたことあるわ。それよりも時間を停止させる魔法はないかしら。そうすれば私、10時間くらい寝るのに……」
行き交う言葉に付いてくるのは溜息ばかりだ。この課でずっと仕事をしてきた先輩達でさえ、軽く絶望したくなるほどの任務の量らしい。
「……クロイド、今夜の任務の作戦でも練りましょう」
「そうだな」
ついさっきまでの暗い表情から、諦めと覚悟が混じったような表情へと変わっていた。女装は嫌だが、この現状を見て我儘を言っている場合ではないと悟ったのだろう。
……多分、ミレットと出掛ける予定は白紙になるわね。
後で時間がある時にでもヴィルに謝っておいた方がいいだろう。もしかすると水宮堂に寄る時間もないかもしれない。
それほど今の魔具調査課は修羅場なのだと先輩達の姿を見て実感していた。




