意志なき者
ふっと鼻先に潮の匂いがかすめて、セリフィアは目を覚ます。
「ん……」
目をそっと開けると、白んだ空が最初に視界全体に入ってきた。昨夜、甲板に出て設置されている長椅子に座って夜空を見ていたらいつの間にか寝てしまっていたらしい。
座ったままだったので、少し身体の節々が痛く感じたが、身体を慣らせばすぐにいつもの状態に戻るだろう。
「…………あれ?」
ぽとりと自分の膝の上に雫が落ちる。右手を頬へと触れさせると何故か瞳から涙が零れていた。
「どうして、僕……泣いているんだろう」
泣きたい理由も泣ける理由もないはずなのに、ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。
「おかしいな……」
魔法を使えば、このくらいすぐに制御できる。だが、そうはしなかった。何故かそうするべきではないと思ってしまったからだ。
セリフィアは涙を手の甲で拭って、立ち上がった。少し歩いて欄干へと手を伸ばす。船が浮かぶ海が続く先に見えた一つの陸地。
「……ブリティオン」
自分が生まれ、育った場所に数週間ぶりに帰って来た。それ程時間は経っていないはずなのに、随分昔にあの地を出発した気がする。
あと1時間もしないうちに到着するのだろう。
「…………」
ブリティオンの陸地を見つめつつ、溜息を小さくもらす。
自分がイグノラントで見たもの、聞いたものを兄であるエレディテルに渡さなければならない。彼はその後どのように判断していくかは分からないが自分はただ兄に付いて行くだけだ。
「……何か大事なこと……あったような気がする」
もしかすると、夢で見たことと現実が混合しているのかもしれない。自分はただ、兄の嫁候補を探して相応しいと思った人間の情報を集めてくるだけだ。
「アイリス・ローレンス……」
第一候補だった彼女は魔力無しであるため、候補から大きく外すことにした。
エレディテルは魔力を持たない一般人よりも、魔法使いの家系に生まれたにも関わらず、魔力無しである人間をかなり卑下している。
自分があれこれ言う前に彼女は嫁候補から外れるだろう。
「……何だっけ? もっと何か……」
情報を整理しようとしているのに、心の奥底で黒い靄が立ち込めている気がした。
「あの子に対して、どんな気持ちを持っていたんだっけ……」
アイリスという名前だけが響き、彼女の基本的な情報が脳内を行き来するだけで、感情が沸きあがってこない。
ここ数日は彼女と一緒にいて、色々話もしていた。それなのに、その時感じたはずの何かが欠落しているように思えて仕方がない。
感情が沸きあがってこないということはそれ程大事なものではないのかもしれない。
そう思った時、少し強めの潮風が自分の横を吹き通っていく。
ぶわりと揺れたのは自分の三つ編みと、それを飾る青いリボン。金色の糸で刺繍され花が朝日によって輝いて見えた。
「…………」
このリボンは確かアイリスから贈られたものだ。それはしっかりと覚えている。一緒に出掛けたことも頭に残っている。
それなのに――。
「どうして……何も……感じていないのだろう」
ぽつりと流れる涙が再び吹き通った
潮風によって舞うように散っていった。
大きな船から降り立ち、迎えに来ているはずの自家用車を見渡すように探した。
「セリフィア」
はっきりとした鋭い声にセリフィアは思いっきり振り返る。
「兄様っ!」
自分と同じ金髪を長い三つ編みにして垂らしている青年がそこには立っていた。藍色の瞳が自分と視線が重なるとすっと細められる。
涼やかな表情は目上である人間でさえひれ伏したくなるほどの威圧を放つらしいが、自分にとってはいつもと同じものにしか見えない。
「時間もぴったりだったね」
「迎えに来てくれたの?」
「今日の用事はこっちの地方だったからね」
同じ顔がそのまま成長したような顔をしているのに、それでもやはり醸し出される雰囲気と隠すことのない魔力の大きさが自分のものとは桁外れに違っていた。
「それでどうだったんだい? ……向こうのローレンス家は」
「調べた情報通りで、アイリス・ローレンスが最後の直系だったよ。でも彼女は魔力無しだったんだ」
「へぇ?」
エレディテルの表情がほんの少しだけ変わったように見えた。
「だから他にも薄いけどローレンス家の血を継いでいる者を探してきたんだ。数はそれなりにいたから一応……」
セリフィアが言葉を紡ぐ前にエレディテルは彼の額を自分の額へと合わせるように付けてくる。
「…………」
魔法を使って、直接自分が見たものを回収しているのだろう。そのことに抵抗することなくセリフィアはされるがままだ。
「ふぅん、なるほどね」
全て回収し終わったのかエレディテルは自分からすっと離れた。
「確かに血は薄いけど人数はいるようだ」
口元が小さく緩んだのが見えた。何か自分の考えが及ばないようなことを練っているのだろう。
「教団の方には入れなかったみたいだね」
「結界が何重にも張ってあったよ。下手に突いたらこっちがやられるくらいの強度のやつ。あと、外からは普通の教会にしか見えないように幻の魔法もかけられているみたいだ」
「そこは先祖の日記に書いてあったことと変わっていないみたいだな」
ローレンス家の当主は代々、日記を書いては次の世代へと受け継がせている。その内容は魔法に関することだけではなく政治、ローレンス家のこと、そしてイグノラントのことと様々だ。
「まぁ、いいさ。時間はまだある」
「……うん」
エレディテルが自家用車を待たせている方向へと歩いて行く。セリフィアはその背中を追いかけるように歩き始めた。
「そういえば……」
ふと何かを思い出したように目の前の彼が立ち止まる。
「そのリボン、持っていたか?」
「え?」
彼の視線が自分の三つ編みを彩る青いリボンへと向けられていた。
「あ……。貰ったんだ。アイリス・ローレンスに」
「あぁ、なるほどね」
エレディテルはそれ以上を気に掛けることなく、再び歩を進める。
セリフィアは歩を進める前に青いリボンに手を添えつつ、今自分が渡って来た海へと視線を向けた。
朝日によって煌めく海の向こう側にイグノラントはあり、そしてアイリス・ローレンスはそこにいる。
彼女に対して何かの気持ちを抱いていたはずなのに、やはり思い出すことは出来ない。
それでも、それが確かに大事なものだったという思いだけが奥底に残っているような気がした。
……ごめんね。やっぱり僕は……兄様だけなんだ。
それだけを心の中で呟き、海から目を背ける。
自分の意志は全て兄であるエレディテルのために。自分が持っている想いはそれだけだ。
それだけしか持っていないのだから。
花の意志編 完




