花の名前
アイリスとセリフィアが一緒に出掛けてから数日経った。
先日話していた通り、彼女はブリティオンへと帰国することになり、短い留学期間に彼女と親しく話していた生徒達はセリフィアとの別れを惜しんでいるようだった。
セリフィアは学校を終えた後すぐに帰国に向けて出立するらしく、アイリスとクロイドは駅まで彼女の見送りに来ていた。
汽車に乗った後は港の最寄り駅で降りて、そこから船に乗って帰国するらしく、ブリティオンに着くのは明日の朝らしい。
「まさか、あれほど寂しがられるなんて思っていなかったよ」
セリフィアはどこか嬉しそうな表情で苦笑した。その手元にはクラスの女生徒によって渡された小さな花束が握られている。
「それほどあなたと別れ難いと思っているのよ。……またイグノラントに来た時に女の子達に顔を見せに行くといいわ。きっと喜ぶから」
セリフィアの人懐っこい性格が親しみやすかったのか、アイリス達が知らないうちに彼女は多くのクラスメイトと仲良くしていたようだ。
「うん……。そうだね、そうするよ」
彼女の手荷物は小さな花束と鞄一つだけだ。ホテルで生活をしていた際に使っていた衣服や小物は後日配達してもらうらしい。
「はい、これ良かったら帰り道で食べて」
アイリスは少し重みのある紙袋をすっとセリフィアに渡した。
「あ、もしかして……」
「アップルパイよ。いつも午後には売り切れになっているんだけれど、今日は珍しく店頭に残っていたから、手土産にと思って買っちゃった」
目を輝かせながらセリフィアはその紙袋を受け取る。よほど、嬉しかったのか今すぐにでも食べてしまいそうな緩んだ表情のままアイリスに笑顔を向けた。
「ありがとう、アイリスっ! 荷物の整理とかしていたら、買いに行く時間がなくなっちゃって……」
「別に急いで今日帰らずに、ゆっくりと明日帰れば良かったんじゃないか?」
それまで黙っていたクロイドがどこか呆れたようにぽつりと呟く。
「うーん、僕もそうしようと思っていたんだけれど、用が済んだならすぐに帰ってこいって兄様から連絡が来たんだ。明日は向こうで大事な用があるから、僕も同席しないといけないみたいだし」
「そうだったの……」
駅構内は慌ただしく人が行き来しており、汽笛の音に身体が思わず反応してしまう。
「……ねぇ、アイリス。手を出して?」
「え?」
セリフィアに言われた通りにアイリスは右手の掌を彼女に見せるように向けた。彼女はその手を取って、自分の手を重ねるようにしながら掌に何かを置いた。
掌で転がったのは青く小さな石が付いた一つの耳飾りだった。どこにでもあるようなその装飾品は光が当たると反射してさらに輝かしく見える。
「えっとね、クラスの女の子達に聞いたんだ。この国では自分の瞳と同じ色の石をお守りとして相手に贈る風習があるんだよね?」
「えぇ……」
「アイリスには凄くお世話になったからそのお礼というか、何というか……」
セリフィアは急に口籠り、言葉をどう続けようか選んでいるようだった。
「あのね? それで……僕と……」
ほんの少し頬が赤らんでいるように見える。そして何かを決意したのか、ぱっと顔を上げてアイリスを真っすぐ見た。
「僕と……。僕と友達になってくれないかな……」
セリフィアは訴えかけるようにそう言ったのだ。その声はちゃんと聴いていなければ、消えてしまいそうなほどに小さかった。
「……どう、かな?」
身体を小さく縮めながら、セリフィアはアイリスの顔を窺ってくる。
まさかそのような事を訊ねてくるとは思っていなかったアイリスは一瞬だけ呆けたように固まったが、すぐに小さく笑い声を上げた。
「えっ、やっぱり駄目?」
途端に焦るような表情へと変わるセリフィアにアイリスは首を振った。
「駄目じゃないわ。……まさか友達になって欲しいと言ってくるなんて思っていなかっただけよ」
隣のクロイドもどこか呆れたようにセリフィアを見ていた。
「あのね、セリフィア。……私はもうあなたのことを友達の一人だと思っていたのよ」
「えっ……」
「確かにあなたの家と仲良くすることは出来ないわ。この先、何が起きるか分からないし。でも、個人的にはあなたとこれからも友達でいたいと思っているの。……それじゃあ駄目かしら?」
「だ、駄目じゃないよっ!」
必死の表情でセリフィアは首を横に振った。
「駄目じゃない。……僕、君と友達になりたい。家とか魔法使いとか、関係なく……アイリスと友達になりたいんだ」
「それなら、問題ないわね」
アイリスがにこりと笑うとセリフィアは自分の伝えた言葉が現実になったのだとやっと認識出来たのか安心したように溜息を吐きつつはにかんで見せた。
「……クロイドは僕の友達にはなってくれる?」
上目遣いでセリフィアはクロイドを見上げるが、彼はしかめっ面で小さく唸っていた。
「……状況と場合による友人なら」
彼なりに気を遣ったのか、かなり言葉を選んだ方なのだろう。だが、その言葉さえも嬉しいのかセリフィアは満足そうに笑っている。
「あ、言い忘れるところだった」
セリフィアは周りに自分達の会話に聞き耳を立てている者がいないか確認してからアイリスに一歩だけ近づく。
「あのね、次に会うことがあっても、僕が今日の僕と違うものになっているかもしれないんだ」
「……どういうこと?」
「僕はこれから今持っている感情を記憶の奥底に封印する魔法を使う。君達と一緒に居て感じた『楽しい』とか『嬉しい』って感情を忘れようと思うんだ」
「何でわざわざそんな面倒なことを……」
クロイドの言葉にセリフィアはどこか寂しげな笑みを浮かべる。
「……兄様に見られたくないんだ。多分、兄様のことだから僕に魔法を使って、僕がイグノラントで見たものや聞いたもの、感じたものを一瞬で感じ取って理解しようとするだろうね。その時に……僕が感じたことをあまり見られたくないんだ」
「良い感情なのに?」
「うん。……兄様の気分を悪くさせてしまうかもしれないし、何より……」
しかし、セリフィアはその先の言葉を噤み、黙ってしまう。
「とにかく、次に会った時に君達に対する僕の態度が悪くなっているかもしれない。それでちょっと怒らせたり、困らせたりするかもしれないけど……」
「……そう」
彼女がそう決めているのなら何も言えないが、次会った時と今日の様子が違うものだったとすれば、それはやはり寂しいものだ。
だがセリフィアも本当はイグノラントで感じた感情を忘れたくはないのだろう。それは表情を見ていれば分かる。
「感情は忘れちゃうけど、記憶までは忘れないから。……だからね、感情を思い出して欲しいと感じた瞬間に僕が封印した感情の蓋の鍵を君に開けて欲しいんだ」
「えぇ?」
驚きの声を上げるアイリスに対して、セリフィアは何でもなさそうに笑ってアイリスの手を掴んだ。
「僕が君に贈ったこの耳飾りに僕の魔力を少しだけ込めた。……僕のことを強く思って、名前を呼んで欲しいんだ」
「……それだけであなたが施した封印が解けるの?」
「ただ名前を呼ぶだけじゃ、もちろん封印の蓋は開かないよ。だから、君に今から僕の真名を教えてあげる」
秘密を共有するようにセリフィアは唇に人差し指を当てながらそう言った。
「あなたの真名?」
「うん。……僕と兄様だけが知っている、本当の名前。意味が込められた名前を君に教えてあげる。この後、真名を教えたことも忘れるつもりだから、きっと次に会った時に真名で呼ばれたら僕は凄く驚くかもしれないけどね」
セリフィアはすっとアイリスに近づいて、耳元でそっと囁いた。
「僕の真名はセリシィフィオーレ。セリシィフィオーレ・ローレンス。――『花の意志』という意味なんだ」
柔らかい声が耳の奥へと響き、余韻のように残る。その名前を聞いたら二度と忘れることはないような気がした。
セリフィアは一歩、後ろへと下がって穏やかに微笑む。
「思い出して欲しい時に、その名前で呼んで? アイリスと一緒に居て、楽しかったことや嬉しかったこと……きっと思い出してみせるから」
「セリフィア……」
「さて、もう汽車の時間だ。そろそろお別れしないと」
荷物を抱え直したセリフィアはアイリスに手を差しだす。別れの握手なのだろう。アイリスはその手を取った。とても細くて白い手は相変わらず冷たいままだ。
「君さえ良ければ、手紙を書いてもいいかい? もちろん、教会宛に個人的に送るよ」
「えぇ。……帰り道、気を付けてね」
「うん」
そして今度はクロイドの方へとその手を差しだした。クロイドは一つ溜息を吐いてその手を掴む。
「最初、会った時に気分が悪いことを言ってごめんね? もう、二度と言わないよ」
「……あぁ」
「それと……確か、別れの挨拶の一つでこう言うんだよね? ――アイリスとお幸せに?」
「っ……」
瞬間、クロイドの表情が固まった気がした。言葉の意味を理解しているのか、それとも誰かに教えてもらったのかは分からないが悪気のなさそうなセリフィアの様子にクロイドは何とも言えずにいるようだ。
二人の対照的な様子を見てアイリスも小さく噴き出した。
「えぇ、そうさせてもらうわ」
何でもなさそうにアイリスは笑顔でクロイドの代わりに返事をする。
「兄様には君達のこと、上手い事言って躱しておくよ。あ、これだけはしっかり覚えておかないとね。忘れたら面倒で大変だし」
セリフィアはクロイドから手を離す。
「それじゃあ、またね」
「気を付けて」
「……じゃあな」
アイリス達に手を振りつつセリフィアは最後に花が咲いたような笑顔を見せたあと、こちら側に背中を向けて改札を目指して歩き始める。
その背中は小さいが真っすぐと伸びている。先日、アイリスが贈ったリボンは彼女の髪に飾られており、陽の光よって金色の刺繍が光って見えた。
「……本当に嵐のような奴だったな……」
疲れ切ったようにクロイドが溜息を吐きながらそう言った。
「さっき、セリフィアに何を言われていたんだ?」
「え? ……うーん、秘密かな」
アイリスが唇に指を当てつつそう言うとクロイドは肩をわざとらしく竦めていた。
人の真名はそう易々と他の人に言っていいものではないだろう。出来るなら、セリフィアの真名で彼女を呼ぶことがない日を願いたい。
「それじゃあ、私達も帰りましょうか」
「そうだな。ブレアさんに報告しないと……」
クロイドと会話をしつつアイリスはセリフィアが去った方向へと目をやった。
人込みに紛れてしまった小さな背中は一度もこちらを振り返ることはなかった。
……セリシィフィオーレ。
華やかで強い意味を持ったその名前がいつまでもアイリスの耳に張り付き、響いていた。




