恋話
結局、その日は全ての授業が終わってもセリフィアが教室へと戻って来ることはなかった。アイリスはセリフィアの荷物をまとめてから、保健室へと向かう。
最初はクロイドも付き添う予定だったが、ミレットに止められたため保健室に入らずに、廊下で待つことにしたらしい。
「……」
保健室のベッドの上に横になっているセリフィアに視線を向ける。まだ一度も起きていないのか、寝かせた時と体勢は変っていなかった。
……夜更かししているのかしら。それとも……
アイリスが身近にあった椅子に腰かけて様子を見ていると、セリフィアの口元が少し動いたように見えた。
「ん……」
小さな呻きとともに、瞼が薄っすらと開かれる。起きたのだろうか。
「……ん」
「セリフィア?」
アイリスの声に反応したのか、セリフィアはぱっちりと目を開く。
「……あれー? ここ、どこだ……」
まだ寝ぼけているのか、呂律が回っていないようだ。瞼をこすりながら、ゆっくりと自分で身体を起こしたセリフィアは周りをゆっくりと見渡して、最後にアイリスへと視線を向ける。
「ここは保健室よ。あなた、急に寝ちゃったんだもの。びっくりしたわ」
「え? 僕、寝ちゃったの?」
おかしいなぁと呟きながらセリフィアは自分の身体に何か異常がないか調べ始める。
「寝不足なの?」
「ううん。そんなことないはずだけれどなぁ……」
突然、無意識に寝てしまったらしい。
「まだ身体がふらつくようなら、もう少し眠ってから帰るといいわ。あ、荷物も持ってきているから」
「わざわざありがとう。……でも、もう眠くないから大丈夫だよ」
曖昧に笑みを浮かべるセリフィアだが、まだ帰る気にはなれないのかベッドに座ったままである。
その様子は先程、貰った手紙を読んでいた時と同じような表情をしていた。
ふっとお互いの言葉が途切れ、静寂が訪れる。保健室には自分達以外に誰もおらず、その静寂さが余計に目立った。
「……ねぇ、アイリス」
ぽつりとセリフィアが言葉を発した。
「何かしら」
「あのね……。さっきの手紙の話をしてもいい?」
昼休みにセリフィアが読んでいた手紙のことだろう。アイリスはすぐに頷いた。
「あの手紙にね……。僕のことが好きだって書いてあったんだ」
「……」
やはりユアンの言う通り恋文だったらしい。だが、セリフィアの様子は困ったような表情のままである。
「でもね……。僕、恋愛においての好きって感情や恋とかよく分からないんだよね」
そういえば手紙を読んだあとに、自分には分からないと言っていたがそう言う事だったのかとアイリスは納得した。
「どうしてあの男の子は僕のことが好きだなんて思ったのかなぁ」
子どもが不思議に思ったことを口に出したような物言いだった。
「……でも、セリフィアは誰かに好かれたいって言っていたじゃない。それとは違うの?」
「うーん。同じなのかなぁ。何というか僕にとっての好きは、誰かに必要とされたいって意味なんだよね。僕がまだ子どもで恋愛においての好きって感情が理解出来ていないだけかもしれないけど……」
腕を組んで悩み始めるセリフィアに対して、アイリスはふっと心の中に浮かんだ言葉を呟いた。
「……好きという感情にも色々あるわ。そしてそれらの中の一つが形を変えて、恋愛においての好きと呼ぶものに変わるんじゃない? 好きという気持ちはいつか愛情にだってなりえるもの」
「愛情?」
「私だって恋をしたのは初めてだから、分かったような物言いは出来ないけれど……。私が思うに好きという感情は誰に対しても持てるものだと思うの。世の中には色んな好きという感情が存在しているでしょう? 好きな友達、家族、知り合い……」
特別なことを言っているわけではないのに、セリフィアは身を乗り出すようにアイリスの言葉に耳を傾けてくる。
「でも、愛情というのはその人が特別に好きだってことだと思うの」
「特別? 他にもたくさんいる好きな人の中で一番好きってこと?」
「まぁ、そういう意味にもとれると思うわ。セリフィアは思ったことないかしら。……自分に好きな人がいてその人が一番好きなのが自分だったらいいのにって」
「……ある」
思い当りがあるのかセリフィアは真面目な顔でこくりと大きく頷いた。
「でも愛情にも色んな種類の形があるから、私の考え方だけじゃないと思うけれどね」
アイリスは苦笑したが、セリフィアは真面目な表情のままで何かを深く考えているようだ。そして、考えがまとまったのかばっと顔を上げて開口一番にこう言ったのだ。
「……アイリスはどうしてクロイドを好きだって思ったの? 恋ってどんなもの? それは愛情なの?」
「え……」
突然の質問にアイリスは石のように固まり、ゆっくりとセリフィアから視線を外す。まさかそのような事を直球で聞かれるとは思っておらず、つい頬が紅潮していくのが感じられた。
「ねぇ、どうして? その感情ってどういうものなの?」
自分の知らないことを一斉に聞いてくるセリフィアにアイリスはたじろぐ。
「……どうして気になるの」
「気になるよ! だって、僕にとっては未知なことだからね」
興味本位というよりも、本質に迫りたいといった表情をしている。茶化すために聞いてきているわけではないらしく、自分の知らないことを知りたいだけのようだ。
「……クロイドには秘密にしておいてね」
「うんっ!」
セリフィアは背を真っすぐと伸ばし、聞き洩らしがないようにアイリスの方へと身体を向けた。
「私も今まで恋なんてしたことなかったから、最初はそれが恋だなんて気づかなかったわ。……相棒として彼に抱いている感情の一つだと思っていたの」
「最初はどんな感情だったの?」
「そうね……。信頼や気掛かりといった感情かしら。もちろん、クロイドのことは好きだったわ。でもその好きは私が友達や信頼している人に対する好きと同じだったの」
「途中から、変わったってこと?」
「変わったというよりも……気付いたって言った方がいいかしら。クロイドの言葉や反応、仕草……。彼の全てに反応しては嬉しいとか楽しいとか思えるようになっていたの。不思議よね。今までそんなこと感じた事さえなかったのに」
恋とは無縁な殺伐とした日々を送っていたが、それでも人間として誰かに感情を向けることは備わっていたらしい。
「でもやっぱり、一番嬉しかったのは……自分を必要としてくれたことかしら」
「……」
「自分のために私が必要だって言ってくれたの。これから先も隣に居て欲しいって」
セリフィアが自分の手をぎゅっと握りしめたのが見えた。
「そんなことを言われたの、生まれて初めてだったわ。……誰かに必要とされるのって凄く嬉しいことなんだって気付いたの」
「だから、クロイドのことを好きになったの?」
「……そうかもしれないわ。でも、それだけじゃないかもしれない」
「どういうこと?」
意味が分からないと言うようにセリフィアは首を傾げている。
「クロイドが私のことを必要だって言ってくれたように、私もクロイドのことが必要だって思ったの。頼れる相棒でもあって、大切で特別な人。私の心を大きく揺れ動かす人はあの人しかいないわ」
「心が揺れ動く?」
「例えば……。クロイドの笑顔を見たら温かい気持ちになれるし、彼が傷付けば悲しい……。一つ一つに自分の心が反応してしまうの」
アイリスは息をもらすようにふっと笑った。
「多分、私は……この人がいないときっと生きてはいけないと思えるくらいに、いつのまにかクロイドのことが大好きになってしまったの」
本人には伝えきれない気持ちが本当はたくさんあった。でも、それを一度で全部は出さずに、少しずつ少しずつ伝えていきたいと思う。
愛と呼ぶにはくすぐったいが、それでもお互いを思い遣りながら気持ちを育んでいきたかった。
「……やっぱり、僕にはよく分からないや」
悲しみを含んだ声でセリフィアがぽつりと呟く。
「でも、いつか僕にもそういう感情が生まれたらいいなって思うよ。心の底からいつか愛したいって思える人に会えるといいなって」
「……世界は広いし、あなたはまだ若いもの。どこかにいるかもしれないわ」
「あ、もしかして運命の人って言うやつ? 休み時間に女の子達が話していたよ」
「女の子はそういう話が好きよね……」
アイリスが苦笑するとそれにつられてセリフィアも笑った。
「でも、今の所は兄様以上に好きな人はいないなぁ」
「あなたのお兄さんが初恋の人?」
子どもの頃には年上に憧れることはよくある話だ。
「え、まさか。恋慕とかの意味じゃないよっ」
セリフィアは慌てたように手を横に振った。
「僕が兄様に恋慕を抱くなんて、ないよ。ありえない。……恋慕じゃないけれど僕は兄様が大好きなんだ。たとえ、兄様が僕の事を嫌っていてもね」
最後の一言にアイリスは曖昧な表情を浮かべる。
「それに僕は多分、恋愛結婚なんて夢のまた夢だからね」
「どうして?」
「ほら、一応僕の家は貴族でしょう? 家同士の結婚なんてよくある話じゃないか。……あとローレンス家の血の再結集のこともあるから、きっと僕の意に沿った結婚は出来ないと思うんだ。そのことに異存はないけれど、ただ……。好きな人と結婚するってどういう気持ちなのかが気になるだけなんだよ」
セリフィアは小さくはにかんで見せる。それが無理に笑顔を作っているように見えて、アイリスは何かを答えることが出来ずにいた。
「アイリスはやっぱり優しいね。君がそんな表情する必要なんてないのに」
「……」
「いいんだ。僕は今の自分に不満があるわけじゃないし。誰かを愛することに憧れはあっても、それを望んでいるわけじゃないから。自分のこと必要としてくれる人さえいれば、僕はそれ以上を望まないよ」
全ては敬愛するべき兄のためにと言っているようにも聞こえた。彼女の中心がエレディテル・ローレンスである以上、彼女から何かを望むことはないのだ。
家のことに何かを口出しすることは出来ないが、それでもセリフィアは動きにくい立ち位置にいるように見えた。
「でも、誰かを好きになるのは自由だもの。……それくらいはいいんじゃないかしら」
「恋愛じゃない、好きという感情を誰かに向けてもいいってことかい?」
「えぇ」
それなら、恋愛においての好きという感情が分からないセリフィアも理解出来るはずだ。
「それなら、僕……アイリスが好き! あと、クロイドも好きだし……ミレットとか、先輩達も好き。あっ、美味しいご飯作ってくれるホテルの人達も好きだし、クラスの子達も……」
次々と好きだと思う人間の名前を述べていくセリフィアに対してアイリスは噴き出すように笑った。
「……え、変? 僕、皆が好きなんだけれどなぁ」
「ううん。変なんかじゃないわ。むしろ良い事だと思う。嫌いなものを多く作るよりも好きなものを多く作る方が毎日楽しくなると思わない?」
「思う! よーし、じゃあ僕こっちにいる間にたくさんの好きなものを作るよ。……あ、でも手紙をくれた男の子はどうしようか……」
「そうねぇ……。とりあえず友達として好きになってみたらどうかしら。あまり相手に期待させても悪いから友達からで、と伝えるといいわ」
「なるほど……。さすが恋人がいる人の言うことは勉強になりますなぁ」
「……大したことを言った覚えはないわよ」
セリフィアの表情に明るさが戻ってきた気がして、アイリスは安堵の溜息を隠した。
複雑な家庭環境で育ったのなら、愛がどういうものか理解できないのは分からなくもない。ただ、どういうことを感じて彼女は今まで生きてきたのかが想像出来なかった。
「ねぇねぇ、アイリス! アイリスは僕のこと好き?」
無邪気に聞いてくるセリフィアは期待した瞳を自分に向けてくる。
「……まぁ、嫌いではないわね」
「本当っ!?」
直接的に好きと言ったわけではないのに、アイリスの言葉がよほど嬉しかったのかセリフィアは両手をあげて喜んでいた。
誰かに悪意のない好意を向けられることが少ないのかもしれない。
「あとで、クロイド達にも僕のことが好きかどうか聞いてみるっ!」
「それは……止めた方がいいと思うけれど」
恐らくクロイドの場合はあからさまに苦い表情をするに違いない。ユアン辺りはセリフィアを抱きしめて喜びそうだが。
楽しそうに誰が好きかを語り始めるセリフィアの話をアイリスは穏やかな表情で聞き入っていた。




