体温
冷たい風が頬を撫でるようにすり抜けていく。静かな空気の中、セリフィアが乾いた溜息を吐く音がすぐ傍で聞こえた。
セリフィアが立ち上がろうとした瞬間、あまり力が入らなかったのか前のめり身体が動く。
「っ!」
アイリスは揺れた身体を受け取るように両腕で抱きかかえた。布越しに感じる熱は自分と変わりないと思っていたのに、彼女の身体はやけに冷たく感じた。
「あ……。えへへ、ありがとう、アイリス」
セリフィアははにかみながら身体の体勢を整えなおし、真っすぐと立ち上がる。
「……今、僕が喋ったことは兄様には内緒にしておいてくれる?」
子どもが秘密をこっそりと教えてくれた時のようにセリフィアは人差し指を自分の唇に当てた。
「でないと、君達の記憶を少し消さなくちゃいけなくなるんだ」
彼女の抱えていた思いを人に話したのは初めてだったのだろう。だが、それさえもセリフィアの兄が許す事はないと言っているようなものだった。
「……私達はあなたのお兄さんに会う機会なんてないもの。大丈夫よ」
ブリティオンに行くことはないと思うし、ましてやエレディテル・ローレンスの嫁候補になる気さえ更々ない。
「……うん。ありがとう」
手をそっと離したが離す瞬間までセリフィアの身体の熱を感じることはなかった。
「……ねぇ、セリフィア」
「何だい?」
「その……」
つい名前を呼んでしまったがその先の言葉を考えていなかった。セリフィアは首を傾げながらアイリスの言葉の続きを待っている。
「えっと……。今度、仕事も学校もお休みの日があるの。良かったら、この町を案内してあげるから一緒に遊ばない?」
咄嗟に出て来た言葉はそれだった。だが、自分が思っていたよりもその誘いが嬉しかったのかセリフィアはぱっと大きな花が咲いたように笑ってくれた。
「いいのっ? アイリスが僕と遊んでくれるの?」
「え? えぇ。美味しいものを食べに連れて行ってあげるわ。あとは観光名所とかも……」
「――ありがとうっ!」
セリフィアはそのままアイリスに手を伸ばして抱きしめて来たのだ。突然の抱擁にアイリスは驚いたが拒絶することなく、彼女の背中に手を回した。
自分とはあまり変わらない身体つきだがやはり身体全体が冷たかった。
視界の端に映るクロイドが少しだけ慌てたような素振りをしたのが見えたが、セリフィアを止めることせずに複雑そうな表情でこちらを見つめている。
「えへへっ。嬉しいなっ!」
しかし、何かに気付いたようにセリフィアは抱きしめた腕をすぐに解いた。
「あ、でも……。僕、昨日君達に嫌なことをしたでしょう? ……もう怒っていないの?」
悪戯をしたことを怒られている子どものようにしゅんと項垂れるセリフィアに対して、アイリスとクロイドは顔を見合わせた。お互いの表情を確認してみるが、これは両方とも怒ってはいないらしい。
「……確かに嫌な気分にはなったけれど、もう怒ってはいないわ。だって、あなたは自分が悪かったって自覚しているでしょう? それなのに怒り続けても意味がないもの」
「……ありがとう、アイリス。あとクロイドも」
先程よりもぎこちなくセリフィアは笑った。本当によく表情が変わる子だと思う。それでも彼女はその小さな背中に大きすぎるものを背負い込んでいるのだ。
……でも、そのことに対して自分達が何か言える立場じゃないわ。
セリフィアの細い手にどれだけの人の命が奪われたのかは想像できない。本当に命を殺めたのかさえ疑わしいと思ってしまう。それほど彼女は無垢で朗らかで、脆いのだ。
「長話し過ぎちゃった。僕はそろそろ帰るよ」
「……一人で帰られるのか?」
「大丈夫さ。迷子になるような歳でもないからね」
クロイドの問いにセリフィアは明るく答える。
「……気を付けて帰ってね」
「心配性だなぁ、君達は。大丈夫だよ。僕は――」
だがセリフィアはその先の言葉を続けることはなかった。何かを言おうとしていたはずなのに、彼女はその言葉を飲み込んだようだ。そして何事もなかったかのように置いていた鞄を手にする。
「明日は少しだけ遅い時間に教会へ迎えに行くよ。今日は早すぎたみたいだし」
「……是非、そうして頂戴」
もはや、迎えに来ることは決定事項らしいがアイリスの答えにセリフィアは軽く頷いて背を向ける。
「……えっと、それじゃあまた明日」
こちらに向けて手を振るセリフィアはどこにでもいるような女学生にしか見えなかった。アイリスは目を細めて手を振り返す。それだけで嬉しいのかセリフィアはまた笑った。
小さくなっていく背中を見送っているといつの間にか隣にクロイドが立っていた。
「クロイド……」
「セリフィアの話が事実なら、君をブリティオンのローレンス家と接触させたくはないのが本音だ。だが……君はどんな相手であれその人の身を案じてしまうお節介な癖があるからな」
彼なりに自分のことを心配してくれているのは分かるが、まだセリフィアの事を良くは思っていないらしい。
自分も昨日会ったばかりの彼女とどのように接すればいいのか分からないのが本音だが、あんな話を聞いてしまったら、無視することは出来なくなってしまった。
「それ癖じゃなくって、性格って言うんでしょ。言われなくても自覚はしているわ。……だけど、せめて私だけでもあの子を普通の女の子として見ていたいの。セリフィア自身がそう見ていなくても……」
最後に続けようとした言葉の先は何となく想像出来ていた。
――僕は普通じゃないから。
言葉を聞いていないのに、彼女がそう言おうと想像してしまった自分が少し憎くも思う。
「……セリフィアとエレディテル・ローレンスのことはブレアさんに話してみようと思う」
「え……」
それはセリフィアの兄が彼女に手を汚させていることをブレアの耳に入れておくということだろうか。
「セリフィアが個人的な判断によってこちらと接触してきたとしても、その裏に何が潜んでいるか分からないからな。もしエレディテル・ローレンスが何かを企んでいるならば、それに対する措置も考えておいた方がいいだろう」
「…………」
「俺が心配し過ぎているだけならいいんだ。ただ……自分にとって都合の悪い人間を簡単に消してしまうような奴だ。これから何か起きるにしても、しなくても用心しておくに越したことはない」
確かにクロイドの言葉も頷ける。
「……そうね」
それでもやはり心の奥でセリフィアに対して甘くなってしまう自分がいる。彼女は敵ではないと思い込ませようとしているのだ。
そんなアイリスの気持ちを知っているのかクロイドは穏やかに笑みを浮かべる。
「別にセリフィアを拒絶しろと言っているわけじゃない。君は君らしくセリフィアと接すればいい。……俺は君を守るだけだからな」
その言葉は恐らくセリフィアが敵の立場になった時だけ彼女と敵対するという意味なのだろう。
敵対する時がいつ来るかは分からない。もしかすると来ないかもしれない。
その日が来なければいいと思うのはセリフィアの感情に少しだけ感化されてしまったからだろうか。
「……私も随分と甘いものだわ」
アイリスが吐き出した言葉にクロイドが小さく苦笑した。
「でも、俺はその甘さに救われているよ。……君は俺が驚く程に優しすぎるからな」
「私、そんなに優しくした覚えなんてないわよ? お節介ならいくらでも焼いていたけれど」
そう言い返すとクロイドは更に声を立てて笑った。
「君のお節介は温かくて優しいものだ。……その優しさに直接ほだされた奴が言うんだから間違いない」
「……もうっ」
本当にそうなのかは自覚を持てないが、もし自分が優しいと言うならば自分の持てる熱でセリフィアの冷たくなってしまった身体を温めてあげたかった。
熱を教えてあげたいと思うのは身勝手だし、嫌がられるかもしれない。
それでもあの冷たい身体に触れてしまったら、二度とその温度を忘れることが出来なくなってしまった。




