風船
新規開店した紅茶の専門店で、いくつかの産地の紅茶を吟味してから、魔具調査課に置く用の紅茶と個人的に飲む用の紅茶を買ったアイリスは紅茶の缶が入った紙袋を大事そうに抱えつつクロイドの隣を歩いた。
「良かったな、好みの紅茶が見つかって」
「ええ。……ちょうど、魔具調査課に置いている茶葉が切れそうだったから、新しいのを買えて良かったわ」
「……あれ、いつもアイリスが用意していたのか?」
魔具調査課には自由に飲める紅茶の茶葉やコーヒーの豆が置かれていた。飲む時は個人で好きなように飲めるので、使うのは誰でも自由なのだ。
「まぁ、紅茶の茶葉はね。あとはユアン先輩やセルディ先輩がお土産で買ってきた紅茶が置かれているわよ」
「そうだったのか……」
感心したようにクロイドは小さく呟いている。
だが、はっきりと言えば、クロイドが紅茶を飲んだ時に見せる笑顔が見たいがために、自分は紅茶の茶葉を買っているようなものだ。
そこは言わないでおこうとアイリスは言葉を飲み込んだ。
次はどこに行こうかとクロイドに訊ねようとしていた時だった。前方の街路樹の前で泣いている女の子がいたのだ。
アイリスはクロイドと顔を見合わせて、その女の子のもとへと駆け寄った。
「どうしたの?」
アイリスはその女の子の目線に合わせて膝を折った。見た目は7、8歳くらいの栗色の髪を二つに分けている。女の子は優しげに微笑むアイリスの顔を見ると、さらに涙をぽろぽろと零した。
「うぐっ……。あの、あのね……」
「うん?」
女の子は自分の頭上をゆっくりと見上げて、指をさした。アイリスとクロイドもそれに合わせて、顔を上げる。
そこには街路樹に引っかかった赤い風船が動けずにいた。手を離してしまったが、運良く街路樹に引っかかったのだろう。
「あら……。風船が木に引っかかっちゃったのね」
アイリスの問いかけに女の子はこくりと頷く。この中で一番背が高いクロイドが試しに風船へと手を伸ばしてみるが、やはり風船に繋がれている紐には届かないようだ。
「……この風船は、大事なものなの?」
「うん……。あのね、おばあちゃんのお見舞いにね、行くの……。おばあちゃん、赤が好きなの。でもね、病院は一人で寂しいって……だから……」
赤い風船をよく見てみると、絵が描いてあった。とても可愛らしい女の子の絵は、この目の前にいる女の子に似せて描かれているようだ。
つまり、自分に似せた絵を描いた風船を祖母に贈ろうとしていたのだろう。
アイリスは周りを確認する。ここが大通りから一本だけ外れた通りに位置しているからか、人はいるがこちらを見ている者はいない。遠くを歩いている人ばかりだ。
「……クロイド、この荷物を少しだけ持っていてくれる?」
「……何となく予想は出来るけどな」
溜息を吐きつつ、クロイドはアイリスが持っていた荷物を受け取った。アイリスはクロイドの感心するような、呆れたような表情に小さく肩を竦めて、再び女の子の前にしゃがみ込む。
「ねえ、目を瞑っていてくれる?」
「目を?」
「そう。そして、十まで数えて。そうすれば、きっといいことが起きるわ」
女の子は首を傾げながら、目を閉じた。
「えっと、いーち……」
アイリスは素早く立ち上がり、街路樹の丈夫そうな枝へと腕を伸ばす。しっかりと枝を握った腕に力を入れて、アイリスは身体を引き上げた。
「さーん、よーん……」
枝の上へと身体を引き上げ、すぐ近くにあった丈夫そうな別の枝へと足を掛けてから、体勢を整える。 クロイドが下から何とも言えないような表情でこちらを見ていた。それもそうだろう。スカートで、しかも女性が木の上に登ることの方が珍しいのだから。
「ろーく、しーち……」
アイリスはクロイドの視線を気にせずに、枝に上手いこと引っかかってくれた風船の紐を手に取ると、スカートがはだけないように気を遣いつつ、枝から飛びおりて、見事に何事もなく道の上に舞い降りた。
「もう、目を開けてもいいわよ」
アイリスの言葉に従うように女の子はゆっくりと目を開く。
「……わぁ! 私の風船だっ!」
先程まで零していた涙を拭って、女の子は抱きつくように風船に手を伸ばす。
「お姉ちゃん、ありがとうっ! すごいね! 魔法みたいっ!」
女の子は花が開いたように明るく笑って、渡された風船の紐をしっかりと手にぐるぐると巻いた。
「今度は離したら駄目よ?」
「うんっ! ありがとうー!」
風船を持っていない方の手で、女の子は腕が取れんばかりにアイリスに手を振りながら、駆けて行った。
それを見送り、クロイドの方をアイリスがちらりと振りかえると彼は大きく溜息を吐く。
「確かにアイリスが困っている人を見て動かない人間じゃないと知ってはいるが……そういうことは俺に任せてくれてもいいと思うけどな」
「うっ……」
言い返せないアイリスは苦い表情をした。だが、すぐにクロイドはどこか困ったような笑みを浮かべて、アイリスの頭に荷物を持っていない方の手を載せてくる。
「まぁ、そういうところもアイリスらしくて、好きなんだけれどな」
そう言って彼はアイリスの頭を優しく撫でる。アイリスは口元が緩まないように歯を食いしばってから、彼を小さく睨んだ。
「……今日のクロイド、何だか変よ」
「そうか?」
「だって……その、すっ……好き、という言葉はそう簡単に言えるものじゃないわ」
出来るだけ自然にそう言ったつもりなのだが、つい言葉が詰まってしまい逆に恥ずかしい思いをしてしまう。
クロイドはアイリスの頭から手を引いて少しだけ、考え込むような仕草をした。
「……だが、言える時に言わないと伝わらないだろう?」
至極、真面目に彼は首を傾げつつそう言ったのだ。
「そっ……」
それは確かにそうかもしれないが、と言葉を続けようとしたアイリスはその先を綴ることを止めた。
彼が言った言葉が、彼自身に言っているものだと気付いたからだ。
──言える時に言わないと、伝わらない。
胸に浮かんだのは亡くなったマーレに対するクロイドの思い。彼はそんな風に思っていたのだ。
「……」
アイリスは彼に持たせていた荷物をひょいっと取り上げる。
「あ……」
「荷物くらい、自分で持つわ。男性に持たせるのは好きじゃないの」
アイリスが唇を尖らせながらそう言うと彼は苦笑して頷いた。
「それで? 次はどこに連れて行ってくれるの?」
上目遣いでそう訊ねるとクロイドは少しだけ思案して、何か閃いたように人差し指を立てた。
「ロディアート美術館に行ってみないか? この前は任務で、美術品をゆっくり見られなかったからな」
「あら、いいわね」
アイリスの了承に合わせて、歩幅を揃えて歩き出した。
すっと目の前に自然と差し出される左手に、アイリスも同じように手を重ねた。今度は先程よりは緊張はしていないようだ。
それでも恐らく、自分はこの手の温度を感じるたびに、様々なことを思い出すのだろうと密かに思っていた。




