夢中
アイリスがクロイドに連れてこられたのはフレシオン公国でお菓子の修行をしてきた人が経営しているクレープの専門店だった。
名物はクレープを何枚も重ねたミルクレープで、これがぺろりと食べられてしまうほどに生クリームが重くないため、ユアンいわくいくらでも食べられたと言っていたらしい。
生地を一枚一枚、丁寧に焼いたものを生クリームと挟んで重ねていったものは最早、芸術と言っていいほどに、作られた層はとても美しく、また甘ったるくはない優しい匂いが鼻を掠める。
ミルクレープと東の国で作られた茶葉を淹れた紅茶を注文して、アイリス達は席へと移動した。今日はそれほど混んでいないため、店の外の道が見える大きな窓ガラスがある席へと座った。
店内はレコードがかけられているのか、静かな雰囲気に合ったピアノの曲が流れている。
「まさか、路地裏にこんなに良い店があるなんて知らなかったわ」
店内をぐるりと見渡しながらアイリスは感嘆の溜息を吐く。
店の壁は赤煉瓦で、天井からつり下がっているランプはどれも形が違うので、見ていて面白い。テーブルと椅子も年代ものだが傷が一つもないため、とても大切に使われているのだろう。
自分は店に入ってすぐにこの場所を気に入ってしまったようだ。これは次に来る時、ミレットにも教えてあげようと小さく笑っていると、店員の女性が注文したミルクレープと紅茶を運んできてくれた。
目の前に置かれたミルクレープにアイリスは表情を輝かせる。クロイドもアイリスの嬉しそうな表情を見て、小さく笑った。そういえば、ミルクレープを食べるのは初めてかもしれない。
「それじゃあ、さっそく一口いただきます……」
フォークでミルクレープの端の方に切り込みを入れて、その一欠けらを刺して口の中へと入れた。
想像していなかったふんわりとした柔らかさと、程よい甘味に思わず頬が落ちそうになる。
「ん~っ! すっごく美味しいわ!」
力説するように力強くアイリスがそう言うと、クロイドは噴き出すように小さく笑った。
「君は美味しいものを食べている時が一番幸せそうだ」
「だって、美味しいものは美味しいもの。……ユアン先輩の言っていることが分かるわ。これなら私、あと二つ分はお腹に入るもの」
それくらいに生クリームが甘ったるくないため、おかわり出来そうな気がした。
クロイドもフォークに一欠けらを刺して、口の中へと放り込んだ。瞬間、彼の表情も柔らかいものになる。
「……美味しいな」
「そうでしょう? この甘すぎない生クリームと薄い生地が見事に合い過ぎて怖いくらいに美味しいでしょう!」
そう言いつつ、アイリスはもう一口ぱくりと食べる。一口食べるごとに、幸せの瞬間が訪れているようなそんな感覚だ。
無心になってもおかしくない程に、美味しいミルクレープに夢中になっていると、クロイドが小さく呟いたような気がした。
すっと、自分の頬に彼の右手が添えられ、何事かと思った時には彼の親指がアイリスの口の端をなぞって、その手は離れていく。
石のように固まっているとクロイドはまた笑った。
「夢中になり過ぎだ」
そう言うと、彼はアイリスの口元に付いていた生クリームを掬った指を軽く舐めとったのだ。その行動にアイリスの顔は一瞬で茹で上がった蛸のように真っ赤になる。
「っ……。……どうして、あなたはそういうことを平然として出来るのよ」
恨み事を吐くようにアイリスがクロイドを小さく睨むと、彼は首を傾げる。
「……ハンカチで拭いた方が良かったのか?」
「もうっ……。そういうことじゃないわ!」
どうやら、まるで分かっていないようなので、これ以上言うのは止めておいた方がいいだろう。自分で墓穴を掘りに行くようなものだ。
今度は口元に気を付けつつ、アイリスはミルクレープの切れ端を口の中へと運ぶ。
クロイドが無自覚でやっているのは承知しているので、こっちが気を付ければいいだけだが、それでもやはり反応してしまうものは反応してしまうのだ。
ちらりと、クロイドを見ると紅茶に口を付けているところだった。湯気が少しだけ伏せがちのまつ毛を小さく震わせている。
紅茶を飲む仕草も、座っている姿勢も、店内に流れている音楽を聴く姿も、その全てに反応してしまう。
愛おしいと呼ぶには大げさ過ぎるかもしれないが、それでもやはり彼の一つ一つに自分は視線を向けてしまうのだ。
……自分でも思っているよりも、クロイドのことが好きなのかしら。
改めてそう思うと、気恥ずかしさの方が先に感情として込み上げてくる。何とか通常の顔に戻そうとすればするほど、しかめっ面になっていく気がした。
「……そういえば、先輩達に聞いた話なんだが」
「え?」
話を聞いていなかったアイリスは慌てて顔を上げる。クロイドは周りに聞き耳を立てている人間がいないか確認してから口を開いた。
「最近、魔物討伐課の連中が辟易しているらしい」
「……どういうこと?」
「何でも魔物討伐の任務対象の魔物が、討伐隊が到着した頃にはすでに死んでいるという事がここ最近ずっと起きていて、迷惑していると言っていたな」
「……初めて聞く話ね」
自分が所属していた頃にそのような話は一度も聞いたことはなかった。
「今、その事についても調査しているらしく、もしかすると別の強い魔物が他の魔物を食い荒らしているんじゃないかと噂になっていると先輩達が話していた」
「ふーん……」
確かにそれなら有り得そうだ。魔物討伐課では通常の見回り隊とは別に、指定の魔物がどこに出るかを事前に予測してから討伐しに行く部隊がある。クロイドが言っているのは恐らく後者の方だろう。
任務である以上、仕事なのでこういう場合は勝手に仕事を別の奴に取られたとぼやく人間が多そうだとアイリスは溜息交じりに紅茶を一口飲んだ。
「まぁ、そういうことだから自分達も任務の際は気を付けるようにと言われたんだ。……アイリスだったら、そんな魔物に遭遇した時点で剣を握りそうだからな」
「なっ……。私はもう、魔物討伐課じゃないもの。人様の仕事は取らないわよ。……多分」
「でも、誰かに命の危険が迫っていたら君は動くだろう?」
「……それは、まぁ……」
そう言われると否定出来ない。優先すべきは教団の規律よりも人命の方だろう。
「そういう時、迷わず動けるアイリスは凄いと思うよ」
「……それ、私が規律をあまり守らない人間だって言いたいの?」
「違うって。……何と言えばいいのか……。そうだな、俺は多分、最善を尽くそうと自分の意志で行動を即決するアイリスが好きなんだ」
「……」
何も入っていない頬を膨らませると彼は穏やかに笑みを浮かべた。
「それに今日、突然出掛けることになったのは、俺のことを気遣ってくれているからだろう?」
「それは……」
どうやら、彼にはお見通しのようだ。
「同情とか、慰めの言葉じゃない、君自身の言葉が俺は一番優しく感じられるんだ」
黒い瞳に捕まってしまったのか、アイリスの視線は動けなくなってしまった。
「人の生死に達観することは出来ないが、それでも……悲しいものは悲しいからな。そういう時に、自分の事を想ってくれる人が隣に居たら、顔が上げられる気がするんだ」
「……あなたはもう、大丈夫なの? 無理していない?」
クロイドは一度目を伏せて、そして開いた。そこには、自分が知っている優しい表情があった。
「──大丈夫だ」
静かに告げられる言葉の強さははっきりとしていた。
「俺には君がいるし、ブレアさん達や先輩達がいる。……マーレさんに魔犬の呪いを解くという約束をした以上、いつまでも下ばかりを向いていられないからな」
弱々しくなっていた表情に力強さが戻っていた。
……本当に、大丈夫かしら。
無理はしないで欲しい。でも、クロイドは彼の意志で顔を上げ続けようとしているなら、自分はそれを見守るし、手助けだってしたい。
アイリスはクロイドの言葉にゆっくりと頷いた。
「……あと、全てが片付いて……」
「ん?」
クロイドの頬が突如、赤く染まり始めた気がした。彼は口元を隠しているつもりなのか、右手を当てつつ言葉を続ける。
「その、だな……。いつか、結婚する時が来たら……。一緒にマーレさんの所に挨拶に行ってくれないか」
「っ……」
心臓が止まったかと思ったアイリスは息を吹き返すように、大きく吸い込み、そして吐き出した。周りのお客の迷惑にならないくらいの声量で、真正面に座っているクロイドに向けて言い放つ。
「だから、そういう事は二人の時に言って頂戴っ!」
やはり、クロイドには一度状況と言葉を照らし合わせるべきだと言った方がいいだろうと思ったアイリスは頬を紅潮させながら、紅茶をあおるように飲んだのであった。




