守る手
ふっと息を漏らした瞬間、本棚から一冊の本が飛び出してきた。
「うわっ……」
ぎりぎりのところで避けたミカは本の突撃を免れる。本は表紙を羽代わりにしながら、宙に浮いていた。だが、ナシルの結界のおかげで、本が動ける範囲は狭いようだ。
こちらが思っているよりも本の動きは素早く、手で捕えるのは難しそうだ。すっと、ミカが万年筆を構えると、本はそれ目掛けて飛んできた。
「えっ……」
「ミカ先輩っ!」
ミカが右手に持っていた万年筆は本の攻撃によって、手元から弾かれるように跳んだ。黒の万年筆はころころと床を転がっていく。
「あぁっ……!」
それを拾いに行こうとミカが背を向けると、更に本はミカの背中を目掛けて勢いよく突っ込んだ。
「……!」
「っ!」
瞬間、クロイドがミカを守るように立ちふさがり、本の攻撃は彼の右腕へと強い衝撃を与える。
「クロイド!」
一瞬だけ、クロイドの表情が歪んだ。それもそうだろう。本の角が当たれば、痛いに決まっている。想像しただけで、痛そうだとアイリスの表情まで苦いものを食べたように歪んだ。
だが、クロイドのおかげで、本の速度は落ちたため、そこをすかさずアイリスが両手を広げて、ふさぎ込むように本を抱きかかえる。
「んっ……。……ナシル先輩!」
両手の中で逃げようともがいている本を離さないように押さえ込みながらアイリスは叫んだ。
「了解っ! 『記憶の瞳』! ――記録、静止の魔法、発動!!」
先程よりも小さな魔法陣が床に出現し、吸い込むように本の中へと入っていく。暴れていた本はしっかり魔法がかかったのか、すぐに動かなくなった。
アイリスは確認するように、押さえ込んでいた手を放し、本を持ったまま立ち上がる。茶色の表紙には「隻眼の鷹」と他の本と同じように金色の文字で、書かれていた。
「ふあー……。何とか終わったねぇ」
無事に万年筆を取り戻したミカは安心したのか、軽く欠伸をしている。
「クロイド、さっきはありがとう。助かったよー。あ、怪我とかしてない? 凄く痛そうだったけど」
「いえ、角が当たった時は痛かったですが、今はそれほど……」
クロイドは自分の右手辺りを軽くさすっている。さっきよりは痛がっているようには見えないが、念のために医務室に連れて行った方がいいだろうか。
「ミカ! あんたねぇ……。目標の目の前で背中を見せるってどういう事だい?」
ナシルは再び拳を二つ作り、ミカのこめかみに押し付け始める。
「痛っ……。ちょ……痛いって!」
「しかも、クロイドを盾にするなんて、先輩のやることじゃないよ!? あんた、一応先輩なんだから、それくらいの自覚くらい持てといつも言っているだろう!?」
「痛い、痛いっ! ナシル、本気は止めて……」
「あの、ナシル先輩……。俺が勝手にやったことなので、気にするほどじゃ……」
クロイドが戸惑った表情で、ナシルを止めようとするが、ナシルは大きく首を横に振った。
「ほら、聞いたかい、ミカ! クロイドはこんなにも謙虚なんだぞ!」
「ナシルももう少し、謙虚になれば……痛いっ! あっ……そこは止めてっ……」
今まで一番強く、こめかみをぐりぐりと拳で押し付けたのか、ミカは小さく叫んだ。さすがに、これは止めた方がいいのではとアイリスはクロイドに目配せする。
「ナシル先輩、もう任務も無事に済んだので、そろそろ図書館の館長に報告をしに行った方が良くないですか?」
アイリスは持っていた本をすっとナシルに差し出す。ナシルはぴたりと、拳の動きを止めて、その本を受け取ってくれた。
「まぁ、それもそうだね。館長に早く済んだと伝えたら、安心するだろうし」
受け取った本をナシルはそのままミカが持っている鞄へと突っ込んだ。
「うぐ、重い……」
本が一冊、増えただけだが、よほど筋力がないのか、ミカは背中の鞄の重みによって、身体を背中側へと反らせながらふらついた。
「そのくらい、持てるだろう? ミカは筋肉ないんだから、鍛えるんだね」
「……だから何で、所々、筋肉を鍛えさせようとするのさー」
「その言葉はあんたが本を一度に五冊持てるようになってから言うんだね」
やはり、ミカは力がないようだ。
「本、五冊……」
ぼそりとクロイドが呟く。彼も自分と同じことを思っているのか、どんな表情をすればいいのか分からない、そんな不思議な表情をしていた。
「それじゃあ、私とミカは館長に、無事に本を全て回収出来たって報告してくるから、君達は図書館の入口の外で待っていてくれるかい?」
「あ、はい。分かりました」
どうやら、これで本当に今日の任務は終わりのようだ。やはり、四人いると、二人で任務をこなす時と比べて、魔具の回収が早い。
ナシル達が館長室へと向かっていくのを見送り、アイリスとクロイドはゆっくりと歩きながら、図書館の入口を目指す。
「……やはり、自分専用の魔具を持った方がいいだろうか」
「え? どうしたの、急に」
「いや、俺が魔法を使う時、魔具を使わないままやっているだろう?」
クロイドが魔法を使う時、彼の腕は魔犬のもののように黒く、尖った鋼のようなものへと変化することは知っている。
それにより、魔力を媒体にするものがなくても魔法が使えるのだが、彼は何かを考えているのか、真剣な表情をしている。
「アイリスやブレアさん達は、俺の事情を知っているが、他の先輩達には俺が魔犬の呪いを受けていると伝えていないだろう? だから、魔具を持たずに魔法を使うことに違和感を持たれたりしないかと思ってな」
確かに彼が魔犬の呪いを受けていると知っているのは、自分とブレア、そしてミレット、彼に直接関わった人間だけだ。
あまり大っぴらに言うことではないので、人前では魔犬の話はしないようにしていた。
「それに魔法を使うと、手が変化するのも、不審に思われそうだし……」
彼なりに色々と気にしていることはあるのだろう。それよりも、人を不快にさせていないか、ということが気になっているようにも思える。
「……人の目を気にするのなら、何かいい魔具がないか、一緒に探すわよ?」
自分の両手を見つめていたクロイドの前にアイリスは立ちふさがるように立った。
「でも、その手が嫌いじゃないのなら……。私は無理に魔具を探す必要はないと思うわ」
「……魔犬の手なのにか?」
「ええ、だって、あなたの手だもの」
にこりと笑うとクロイドは少しだけたじろいだように見えた。
「あなたの手は奪うためにあるんじゃないもの。……守るため、でしょう?」
「……」
クロイドは再び、自分の手を見つめる。どこにも変わらない、アイリスよりも少し大きい、普通の少年が持つ手と同じだ。
「私はそのままでもいいと思うわ。でも、あなたが人の目を気にするのなら、あなたに合う魔具を探すし、そのまままで良いと思うのなら、見た目を擬装できるものを探すから」
「見た目を擬装するもの……」
「例えば、手袋とか? はめておけば、手が魔犬のものへと変化しても見られないでしょう?」
「……なるほど」
クロイドは小さく呟き、考え込むように黙った。
彼の手はあの魔犬と同じではない。魔犬が持っている手は、奪うものだ。クロイドとは違う。
例え、彼が魔犬の呪いにかかっているとしても、彼と魔犬とではその手の使い方が違うのだ。
アイリスはそっと、図書館の入口の扉を開ける。まだ、お昼と夕方の間くらいの時間だろう。外は十分に明るかった。
「アイリス」
名前を呼ばれ、振り返ると同時に、アイリスの左手がクロイドの右手によって、掴まれる。
指を絡めるように握られた手に、アイリスは動揺したが、気付かれないように平静の表情を保った。
「な、何?」
「いや。……何となく、握りたくなっただけだ」
「っ……」
そういうことをさらりと出来るクロイドは、本当にずるいと思う。
……ほら、やっぱり違うじゃない。
この手は自分を包み込むように優しく、触れている。思わず、強く握り返したくなる手だ。恐怖を抱くことなんて、ない。
「……もうっ、終わり! 先輩達に手を握っているところなんて見られたら、恥ずかしいでしょう!?」
我に返ったアイリスはクロイドから自分の手を剥がすように放した。それでも、触れられていたところはまだ、熱い。
「それもそうだな」
悪気はないと言わんばかりに、彼は穏やかに軽く笑う。クロイドが笑ってくれるのは嬉しいが、何だかいつも自分ばかり動揺している気がする。
アイリスは唇を小さく尖らせつつ、いつかクロイドを照れさせてみると静かに決意した。




