頼ること
アイリスとクロイドがいつもよりも早めに登校すると、ローラが校門のところに立っているのが目に入った。いつもは孤児院の皆と一緒に登校してきているローラだが、今日は珍しく一人だ。
ローラはアイリスを見つけるとぱっと表情を明るくして駆け寄ってくる。
「アイリスお姉ちゃん!」
「ローラ……!」
アイリスは手を広げて、そのままローラを包み込むように抱きしめる。見たところ、元気のようだ。
クロイドに聞いた話によると、屋敷から逃げる際に、右手に怪我を負ったと聞いていたので、大丈夫か心配だったのだ。
「ごめんね、ローラ。あなたまで巻き込んでしまって……」
「そんな……。私だって、不用心だっただけだよ」
アイリスの謝罪を否定するようにローラは首を横に振る。
「でも、ローラがあの屋敷から逃げてくれたおかげで、私も見つけてもらえたのよ。……怖い思いだってしたでしょうに……。ありがとう、ローラ」
ローラは照れたように頬を赤らめて、再び首を横に振る。
「アイリスお姉ちゃんが私に魔法を教えてくれたからだよ。だから、私……ちゃんと、正しく使うことが出来たんだもん」
アイリスはもう一度、ローラをぎゅっと抱きしめた。
この小さな身体で彼女は一人で知恵を絞って、魔の手から逃げてくれた。不安で怖かっただろうに、それでも彼女の持つ勇気は負けなかったのだ。
ローラはぱっと顔を上げて、クロイドの方に今度は身体を向ける。
「クロイドお兄ちゃん。ありがとう、アイリスお姉ちゃんを助けてくれて」
クロイドはふっと笑って、軽く頷き、ローラの頭を撫でた。
「あっ、それとね。今度の週末に、エリオスさんから魔法を実技指導してもらえるようになったの。……えっと、私を弟子にしてくれるんだって」
とても嬉しそうにローラは明るく笑う。
「でも……。それでもアイリスお姉ちゃんから、まだ魔法のこと、教えてもらいたいな」
遠慮がちに、こちらの様子を伺うようにローラは上目遣いでアイリスを見てくる。
「もちろん、いいわよ」
アイリスがそう答えるとローラの表情はさらに明るくなった。よほど、嬉しかったようだ。
「そういえば私、日直だったこと、忘れてたっ。それじゃあ、またね!」
ローラはぴょんっと飛ぶようにその場から離れ、アイリス達に手を振りながら校舎の中へと入っていく。
その姿を穏やかな表情で見送っているとクロイドがアイリスの肩に手を置いてきた。
「良かったな、ローラ。元気そうで」
「ええ、本当に……」
ブレアが子どもの成長を見ることは面白いと言っていたが、それが何となく分かる気がした。
ローラは自分の教えたことを、ものにして、そして知らない間に段数を飛び越えるように成長していく。その先がどうなるのか、それを見るのが楽しみなのだ。
その時、ふっと視線を感じたアイリスは周りを見渡す。
「どうしたんだ?」
「え? ……ううん。何でもないわ」
誰かに見られていた気がしたが、まだ朝早い時間なので、登校してくる生徒は少ない。ブルゴレッドの件があるので、過敏になり過ぎているのだろうか。
きっと気のせいだろう。もう、終わったのだ。言い聞かせるようにしながら、アイリスは昇降口に向かって歩を進めた。
・・・・・・・・・・・・
登校してくる生徒が多くなる時間、ミレットはにやにやと笑いながら、アイリスの隣の席へと座って、開口一番にこう言った。
「いやぁ、上手くいっているようで、何よりだわ」
「え? 何が?」
クロイドもこちらに少し振り返るような形で、身体を向けてくる。ミレットは周りに聞かれないように声量を抑える。
「ブルゴレッド家関連の話をいい具合に広めることが出来たわ。あ、もちろん、アイリスの情報は一切出ないわよ。それと……」
続きを話そうとしていたミレットが、すぐに口を閉ざす。気配を感じたアイリス達はミレットの後ろへと視線をやった。
「あの……」
そこには同じクラスの女生徒がいた。あまり話したことはなく、特に印象もない女生徒はどう切り出せばいいのか迷っているようだ。
よく見ると、女生徒の後ろにはこちらを気にするように窺っている生徒達の視線があった。
「何かしら」
「あの、ちょっと聞きたいことがあるんだけれど……。その、ローレンスさんとソルモンドさんって、御婚約されているって……」
アイリスは思わず、クロイドの方へと大きく振り返る。クロイドはアイリスの方に視線を向けずに、そのまま女生徒の質問に答えを返した。
「そうだが。それが何か?」
迷いのない自信たっぷりの返事に、驚きそうになるのはアイリスの方だった。
「そ……それなら、別にいいのっ。ただ、話に聞いて、そうなのかなって思っただけだから」
女生徒は早口で弁明するように返事をして、そそくさとその場から逃げるように去っていった。
そして、その女生徒はクロイドから確認できた話をそのまま別の生徒に話しているようだ。
「……どういうこと」
最初に口を開いたのはアイリスだった。
「どういうことって、そういうことよ。だって、二人は婚約しているんでしょう? 変な虫がお互いにつかないように予防線は早めに張っておいた方がいいと思って、広めておいたの」
「予防線って……」
「今度は偽物じゃなくて、本物だけどな」
クロイドがぼそりと呟いた言葉が、耳に残る。
本物の、婚約者。
ジーニスに言われても何とも思わなかった言葉だが、クロイドに言われるとむず痒く思ってしまう。
……つい、意識してしまうわ。
緩みそうになる頬をアイリスは必死に抑える。昨晩のクロイドから告げられた言葉は、求婚と受け取ってもいいはずなので、「婚約者」で間違いないはずなのだが、まだその実感がもてないのだ。
すると、遠くから地響きのような足音が聞こえた。教室の扉が大きな音を立てて、思いっきり放たれる。
入って来たのは昨日、我が物顔でアイリスに接していたジーニスだった。その表情は昨日とは違い、怒りに満ち溢れているように見えた。
顔を歪ませながら、教室に入って来るジーニスはその場にいた生徒を手で振り払うようにしながらこちらへと近付いてくる。
その常ではない様子にアイリスは思わず立ち上がったが、それよりも早かったのはクロイドだった。クロイドはすぐに立ち上がり、アイリスを守るようにジーニスの前へと立ちふさがる。
「――貴様だろう……!?」
ジーニスはそのまま、クロイドの胸倉を掴んだ。その場にいた生徒の誰かが小さな悲鳴を上げる。
「昨日、アイリスを……」
「それ以上は言わない方がいいんじゃないか?」
クロイドはジーニスとは違い、冷静な物腰のまま、返事をする。
「先にアイリスに手を出そうとしたのはそっちだ。それに……目が覚めたら、アイリスはいなかった。そうだろう?」
昨夜、エリオスが忘却の魔法を屋敷内にいる人間全てにかけたらしいので、目が覚めた時にはアイリスの姿はそこになく、その場での婚約は破談とされているようになっているはずだ。
「この……! どうやって、アイリスを……! いや、そんなことはどうでもいい。我が家の話を流したのは貴様だな!? おかげでブルゴレッド家の信用はがた落ちだ! どうしてくれる!?」
「何のことだ?」
クロイドは全て知っているが、わざととぼけるようにそう言った。それでも、ジーニスは食い下がるように、言葉を続ける。
「ブルゴレッド家とリベスブルク家が共謀して、オルティス公爵を担ごうとしていることだ。何故、その話を知っている!?」
ジーニスは気付いていないのだろう。今、自分で墓穴を掘ってしまったことを。
その場にいた生徒達は皆、目が点となっていた。彼らも流れているブルゴレッド家についての噂を知っているのだろう。その場にいる者達で、話をし始めた。
「え、じゃあ、あの話って本当なの……?」
「国王様を廃するって噂?」
「リベスブルク家って確か、名家の……」
「オルティス公爵と親戚だって聞いたことあるわ……」
生徒達のひそひそ話が耳に入ったのだろう。ジーニスはやっと自分の失言に気付いたようだった。
自分で、自分の首を絞めたのだ。ただの噂だともう言い逃れることは出来ないことを言ってしまったのだから。
「この……謀ったな!?」
「自分で言ったことだろう。俺は何もしていない」
ジーニスはそのままクロイドの胸倉を両手で掴むが、クロイドは特に反応することなく、そのままジーニスの腕をとり、そして背負うようにして投げ飛ばし、床へと押さえつける。
「ぐっ……」
痛みに慣れていないのか、ジーニスの表情はさらに歪んだ。
「結局、お前は金と権力しか目になかった。……アイリスの気持ちも考えずに、苦しめるだけ苦しめて、自分達の罪さえ人に押し付ける事しかできない、ただの能無しだろうが」
吐き捨てるようにクロイドは地を這うような声で、ジーニスに告げる。
「アイリスの婚約者は俺だ。……もう、二度とアイリスに顔を見せるな。今度、手を出そうとするなら、気絶だけじゃ済まなくなるぞ」
低い声はジーニスだけに聞こえるように言っていた。そして、クロイドはそのまま手を放し、ジーニスを拘束から解いた。
ジーニスは身体を痛めたのか、右腕を左腕でさするような仕草をしながら立ち上がり、クロイドを睨む。
「お前達はもう、終わった。自分達のやった事に対して、悔いながら生きるんだな」
「貴様っ……」
歯ぎしりしながら、ジーニスは威嚇するようにクロイドをずっと睨んでいる。その瞳にアイリスが映ることはもう、なかった。
あれだけ自分のことが好きだと抜かしていたが、やはり彼の頭の中は金しかなかったようだ。それも恐らく、もう二度と手に入ることはないだろう。
ブルゴレッド家は現国王を廃する動きをしていた。それだけでも十分過ぎるほどの醜聞だ。これから先は、へたに動くことは出来ないはずだ。
「せいぜい、今後は身の振り方を改めるんだな。――最も、どんな善意を尽くそうとも、俺はお前がアイリスに対してしてきたことを忘れたりはしないけどな」
クロイドは冷めた表情で、ジーニスを見下ろす。その視線は威嚇しているジーニスが子犬のようにも見える程、クロイドの視線は相手を怯ませ、動けないようにするものがあった。
考えてみれば、現国王は彼の実父のことだし、弟のアルティウス王子もこの件に巻き込まれる可能性があったので、クロイドは別の意味でもブルゴレッド家に対して怒っているのかもしれない。
そんな威厳のある佇まいのクロイドに怯んだのか、ジーニスが引き攣った声を出したのが聞こえた気がした。
「用がそれだけなら、さっさと帰って、後処理でもしたらどうだ? 貴族様は色々と大変なんだろう?」
クロイドに似合わぬ皮肉をたっぷり込めた言葉を言い放つと、ジーニスの表情が今度は朱に変わった。
だが、言い返す言葉が見つからなかったのか、ジーニスは舌打ちすると、その場から早足で背を向けて去っていった。
その場にいた生徒達も、驚いた様子のままでジーニスが去っていった方向を見ながら、噂に立っている「ブルゴレッド家」の話の続きをし始める。
「……これで、終わったのかしら?」
一部始終を見ていたミレットが、小さく首を傾げながら独り言のように呟く。
「またアイリスに手を出そうとするなら、あいつは原形を保つことは出来なくなるだろうな」
クロイドにしては恐ろしいことを言い放っている。
「……もう、私には関わってこないかしら」
アイリスはジーニスが出て行った方向を見ながら、呆けたように呟いた。これから、本当に気鬱のない日々が送れるだろうか。
「言っただろう、俺が盾になるって。……もう、二度とアイリスに嫌な思いはさせない」
目の前に座り直すクロイドはそう言いながら、不敵に笑った。
「……うん」
その無敵にも見える笑顔にアイリスは思わず、俯いてしまう。
「まぁ、しばらくはブルゴレッド家も大人しくしているでしょうね。今頃、世間に流れている話の火消しでもやっているんじゃない?」
ミレットは手帳で口元を隠しながら、悪戯っぽく笑う。
今回の件で改めて、自分は人に恵まれているのだと知った。自分のために動いてくれる人がいて、心配してくれる人がいる。それだけで、十分に幸せなことなのだろうと思う。
今までずっと復讐だけに囚われて生きて来た自分に、これほど充実した日々が送れるとは想像していなかった。
一つ一つの出会いが、自分を変えてくれる。頼ることに慣れていなかった自分に、頼ってもいいよと笑ってくれる人達がいる。
そんな時、自分は何と言えばいいのか、知っている。
「……ありがとう、二人とも。また迷惑かけちゃうかもしれないけど、宜しくね」
アイリスが少し照れたように言うと、二人は顔を見合わせて、そして苦笑した。
「いつものことよ」
ミレットが何でもないと言わんばかりにそう言った。
「もう少し、頼ってくれてもいいんだけどな」
クロイドは穏やかに笑みを浮かべている。
……もう、怯えなくていいのね。
一人でどうにかしなければならないと、抱え込んでいた時とはもう、違うのだ。それを改めて実感したアイリスは二人につられるように久しぶりに明るい笑顔を見せた。
「偽りの婚約編」完




