求婚
ふっと目を開けると自分の足元には微かな灯りで煌めく町が流れるように見えた。寝ていたわけではないのに、随分と時間が経ったように思えて、アイリスは身じろぎする。
「……大丈夫か?」
「……えぇ」
従順魔法の後遺症があるわけではないが、何となく身体が気だるい感じがした。
屋根から屋根へと飛ぶように移動していたクロイドが、今までで一番大きく跳躍した。短期間でここまで「青嵐の靴」を使いこなせているとは恐れ入った。
自分が誕生日に貰ったものとは違って、クロイドの靴は試作品だと言っていたが、本当に試作品の出来なのかと疑えるほどだ。
風を切るようにクロイドは飛び上がり、そしてとある場所へと着地する。欄干のふちに足をかけて、ゆっくりと内側へと舞い降りた。
「……ここは……」
抱えられていたアイリスはそっと、その場所に降ろされる。教団ではない、高い場所のどこか。
「ロディアート時計台?」
アイリスが尋ねるとクロイドはその通りだと言うように頷いた。だが、彼はどうしてこの場所に自分を連れて来たのだろうか。
夜にこの場所に来たのは初めてだ。普通なら、階段下の入口が夜になると閉められてしまうので、入られないはずだが、欄干部分は柵がしてあるわけでも、窓が備えられているわけでもないので外からなら入り放題ということだろうか。
足に力を入れて歩いてみようとしたが上手く力が入らず、身体が前のめりになってしまう。
「っ……」
だが、すぐにクロイドの腕が目の前に出されて、アイリスの身体はその中にすっぽりと収まった。
「……ありがとう。でも、まだ力が入らないわね」
苦笑しながら顔を上げて、クロイドの顔を見る。そこで、アイリスははっとした。
悲しみを含めたような、穏やかな表情がそこにあったからだ。
「……クロイド?」
何故、そんな表情をするのか。そう思っている時だった。
すっと視界が突然暗くなる。優しく、背中に回された腕は自分を包み込み、彼の心臓がすぐ傍で、一定の鼓動を奏でていた。
柔らかい匂いが鼻先をかすめ、アイリスは思わずほっと息を吐きつつ、そのまま身体を委ねるようにクロイドの胸に頬を当てる。
一日会っていないだけなのに、とても長い時間、彼と顔を合わせていない気がして、何となく寂しさが込み上げてくる。
……駄目ね。まるで依存しているみたいだわ。
そう自嘲しても、つい甘えてしまうのは何故だろうか。
「アイリス」
頭上で声がして、アイリスはそのまま顔を上げる。
「前に、ここで一緒に夕日を見た時のこと、覚えているか?」
「えぇ」
あれをデートと言っていいのか分からないが、その時に一緒にこの時計台に登ったことははっきりと覚えている。
「……あの時は秘密にしてしまったが、その石に込めた願い、今、言葉にしてもいいか?」
アイリスは自分の胸元の黒い雫型の石に目を移す。そうだった。この石をクロイドから贈られた時、自分はどんな願いを込めたのか聞いたことを彼はどうやら覚えていたらしい。
アイリスは石に手を触れつつ、軽く頷いた。クロイドの表情がまた柔らかいものへと変わる。
「……アイリスをずっと、守ってくれますようにと願ったんだ」
「……」
月明りの下の、彼の瞳は波打つように揺れているように見えた。彼と同じ願いを自分も、クロイドの胸元に光る空色の石に込めた。
「だが、やはりそれじゃあ、駄目だと思った」
「え?」
「何かに……誰か他の人に、縋ったり、頼るんじゃなくって……。俺は自分の力で、アイリスを守りたい」
クロイドがアイリスの右手に手を添えてくる。
「君の盾になりたいんだ」
こつりと額と額が重なり、近距離でクロイドの吐息が見えた気がした。握られた手には強く力がこもる。
「確かに俺は中途半端な人間だ。まだ、魔犬の呪いだって解けるかどうかの目途さえ立っていない。そんな奴が、こんなことを言っていいのか分からないが……それでも、もう言わずにはいられなかった」
喘ぐようにクロイドは息をする。
「アイリス……。君を他の奴には渡したくはない。自分だけのものにしたい。そう思うのは俺の勝手だって分かっている」
指と指が絡められ、二度と離せないようにさえ思えた。魔法は使われていないはずなのに、身体は動けなくなってしまった。懇願するような表情は自分の知らないクロイドに見える。
「相棒として、だけじゃない。この先を一緒に歩いていく唯一として、君を守りたい。――アイリスの本物の、婚約者になりたいんだ」
「っ……」
息が一瞬だけ、止まった気がした。冗談でも、気を遣っているわけでもないことは彼の表情を見れば分かる。
これほど縋るように、求めるように、そんな切ない表情を嘘で出来るわけがない。
それは偽りではない言葉。
まやかしでも、空っぽでもない、クロイドの心から出た言葉。
自分は今、どんな表情をしているのだろうか。身体中に熱がこもり、上手く呼吸が出来なくなってしまいそうだ。
嬉しいと素直に言えばいいのか。それとももっと何か、自分も言った方がいいのか。
でも、自分はもう分かっているはずだ。自分の心に響いて、大きく揺れ動いたのは、彼の言葉だけなのだと気付いているはずだ。
「わ……私は……」
左手を胸の辺りに置いて、深く呼吸する。視線を合わせることが出来なくなり、アイリスは俯いた。
「手放したくないんだ。ずっと、隣に居させて欲しい。……それでも、君が困るというなら、俺はただの相棒として振舞うし、この関係にこれ以上を求めたりはしない」
「……困ることなんて、ないわ」
ぼそりと、言葉が感情よりも早く出てしまう。
「あなたに求められて、困ることなんて、無い」
彼の熱い感情に当てられてしまったのだろうか。普段の自分なら、こんなこと言わないのに。ついつい、甘えてしまう。
「……嘘じゃない、婚約者なら、あなたがいい。……私、あなたしかいないの。クロイドしか――」
その言葉の続きは、クロイドの口付けによって塞がれてしまった。
突然のことにアイリスは目を見開き、クロイドを凝視する。閉じられた彼の瞼は微動しているのに、その向こう側から自分だけを見ているようだった。
右手はしっかりと握られ、腰にそっと手を回されていた。距離は測らなくても分かる。零しかない。
初めての口付けは柔らかく、そして優しいものだった。自分でも唇が震えるのを感じたが、彼も気付いたのか、ふっとクロイドが距離を作る。
「……すまない」
月の下で照らされる表情は、暗闇でも分かるほど赤いように見えた。きっと、自分も同じ顔をしているのだろう。
「……本当に、俺がアイリスの婚約者になってもいいのか?」
紅潮した表情のままで、彼は真剣な声色で聞いてくる。アイリスはこくり、と大きく頷いた。
「俺は呪われた身だし、まだ甲斐性だってない。頼りない所だってあるし、力だって中途半端だ。それでも――」
すっとクロイドがアイリスの左頬に右手を添えてくる。
「それでもいつか、約束を叶えられたら……。全てが終わったら、俺と結婚してくれないか」
約束、それは魔犬を一緒に倒して、彼の呪いを解くこと。
静かなその告白にアイリスは微笑を浮かべた。彼はずっと一緒に生きていこうと言っているのだ。
今まで、そんなことを誰かに言われたことはない。誰かを強く求めたことなどなかった。
自分の人生は魔犬を倒す、それだけに懸けていたはずなのに、いつの間にか少しずつ色が付くように変わっていった。
クロイドがいたから。彼が自分を変えてくれた。強く、生きていきたいと――彼と一緒に生きていきたいと思わせてくれた。
その願いが彼と同じなら、答えは一つだ。
「……約束、絶対に叶えて見せるから。だから……新しい約束、忘れないでね」
「もちろんだ」
クロイドが夜の月のように優しく微笑んだ。その一言がどれほど自分にとって生きる糧になっているか、彼は知っているだろうか。
その穏やかな笑みも優しい言葉も、彼の全てを自分が貰ってしまって本当にいいのだろうか。
だが、色々考えなくても、いいのだ。これほどまでに満たされているのに、余計なことを考えるのは無駄な気がする。
気付けば、再びクロイドの顔が自分に近づけられていた。アイリスはそっと目を閉じる。再び唇が重なり合った。
今度はもう震えることはない。きっと、これからは怯えて、一人で立たなくてもいいのだ。隣には彼がいると分かっている。それなら、迷わずに進んでいける。
たとえ、この先にどれほどの困難と不安があっても、クロイドが一緒なら、大丈夫だ。アイリスは握った手に力を込めて返す。
この手は二度と離れることはない。ずっと、ずっと離されることはないのだ。
もう、一人ではないと実感したのかアイリスはクロイドに気付かれないように一筋の涙を流していた。
互いの胸元にある石達は月の光を受けて、輝き合っていた。




