解放
ペンを動かしてしまう手を必死に抑えようとしていても、目を瞑っていても、ペンは勝手に次の文字を書き始めてしまう。
「っ……」
もう、抑えきれない。そう思った時だ。
微かに何かが倒れるような音が聞こえた気がしたのだ。
「アイリス?」
ジーニスがまた急かすように声をかけてくる。中々、名前を書かないアイリスに焦りを感じたのか、ブルゴレッドは後ろに控えているシザールを振り返っていた。
「……」
今、音が聞こえた。こんな屋敷内では聞きなれることはないだろう、音が。それは例えるなら、誰かが床に張り倒されるような鈍い音だったのだ。
だが次の瞬間、雷が落ちたような音が部屋中に突如、響き渡り、天井を飾っているシャンデリアの灯りがふっと消える。
目の前が見えなくなる瞬間に見えたシザールの表情が大きく歪んでいるように見えたのは気のせいではないはずだ。
「何だっ!? 何が起こった!?」
突然の暗闇に、その場にいた者達は騒ぎ始める。アイリスはそんな中でいち早く、夜目を利かせていた。この部屋に窓はあるが、それでも外は曇っているのか月の光が入って来ることはなく、真っ暗なままだ。
……こういう時、夜の任務に慣れていると便利でいいわね。
部屋の中では、ブルゴレッドが立ち上がろうとして、椅子に躓いたのか前のめりになっていた。
こういう状況に慣れていない貴族の方々には新鮮は体験なのだろう。令嬢であるレミシアは身体を震わせながら、自分の母親に泣きついている。
「おい、ジョゼフ! 早く、何とかしろ! 何も見えんではないか!」
「分かっております! ……おい、シザール!」
シザールが大きく頷き、部屋の外に様子を見に行こうと大きな扉に手をかけた時だった。窓の外は曇っているはずなのに、さらに影が差したように感じたアイリスはそちらへと視線を向ける。
視線を向けた瞬間に、その窓は大きな音を立てて砕け散った。だが、窓が割れたのは一枚ではなかった。続くように奥の窓が一瞬で砕けていったのだ。
「きゃぁあっ!」
窓側に座っていたリベスブルク家の婦人が悲鳴を上げる。怒号がさらに響き、泣き叫ぶ声が聞こえる。
それでもアイリスはその一点をじっと見ていた。今、窓が割れた瞬間に、紛れもなく見えた影をじっと凝らすように見ていた。
自分が見逃すはずがない。その気配を感じないわけがない。
窓の下に転がり込むように足を付けていた影はすっと立ち上がった。
「誰だっ!? 誰かそこにいるのか!?」
ブルゴレッドが窓の方向に向かって叫んでも、その影は答えない。アイリスの手からペンが、ゆっくりと落ちた。
今は、涙は流せない。それでも泣きたいくらいに、嬉しかった。
……来てくれたのね。
自分がどこにいるかも知られていないと思っていた。それでも彼は、来てくれた。
もう一つ奥の窓から、割って入って来た影が、テーブルの真ん中に向かって何かを放り投げる。小さな物体からは、もくもくと煙が上がり始め、それはこの場にいるそれぞれの姿を覆い隠す程だった。
そして、遠くでは再び人が倒れるような音が次々と聞こえる。
もしかすると、この部屋に入って来た以外に、誰か部屋の外にいるのかもしれない。自分を助けに来てくれた、誰かが。
「ごほっ……! アイリス、動くなよ!」
隣にいたジーニスが何かを察してなのか、煙たそうに咳をしながらも、アイリスの腕をぐっと掴んでくる。
……このっ!
本当にこの男は目敏くて、仕方がない。だが、アイリスにはその腕を振りほどく力さえなかった。
「……アイリスに触るな」
低く、聞きなれた声がすぐ傍で聞こえたかと思うと、一瞬でジーニスが壁際へと吹き飛び、その身体は半分に折れるように倒れた。
「おいっ、どうした! 何が起きている! 早くどうにかしろ、シザール」
ジーニスが壁にぶつかった鈍い音が聞こえたブルゴレッドは白い煙が充満する中、叫んでいるようだが、やはり上手く身動きがとれないのか、こちらの席まで来る気配はないようだ。
「――この声、届くものに……束縛せよ!」
知っている声がもう一つ響く。間違いなく、エリオスの声だ。それならば、部屋の外にいるのは魔具調査課の先輩達かもしれない。
「ぐ、あ……」
煙のせいでよく見えないが、エリオスによってかけられた束縛魔法によって、ブルゴレッド達は動けないでいるようだ。
「――アイリス」
耳元でそっと響く穏やかな声に、強張りが自然と解けていく気がした。名前を呼びたい。でも、呼べない。
「……君は何もしなくていい。ただ、俺の言葉だけを聞いてくれ」
クロイドがアイリスの身体にそっと手を触れつつ、耳元で囁いた。
「――この囁きは、汝の身を解き放つもの。その声は、汝を包み、瀬となる響きは汝を揺るがす」
喧騒の中なのに、それでもクロイドの声だけがはっきりと聞こえた。震えることなく、紡がれる言葉をアイリスは縋るように聞いていた。
「呪われの言の葉は崩れ、その心は汝に戻される。縛るものは飛沫となり、消え失せる」
クロイドの手がアイリスの背中をそっと上から下までなぞっていく。
「――今、汝が身、解放せよ」
背中から熱いものが染み込むように伝わって来る。込められる熱の温かさが、身体だけでなく、心の奥にまで沁みていく。
鉄の塊のような人形になっていた身体に、再び熱が内側からこもってくるように感じた。
それまで動けなかった身体に突然、重さが圧し掛かるような、そんな感覚に驚きつつも、アイリスはクロイドの方へと久しぶりに動く身体を向けた。
「……効いたみたいだな」
暗闇でも分かる。そこには穏やかに笑うクロイドがいた。
「ク……」
名前を呼ぼうとした瞬間に、アイリスはクロイドに強く抱きしめられる。それは今まで一番強い、力だった。
震えているようにも思える彼の身体をアイリスは手をゆっくりと動かしながら、包み込むように抱いた。
この温かさを再び感じることが出来たことで、やっとこの状況が現実なのだと理解した。これは夢ではないのだ。
だが次の瞬間、クロイドはアイリスの身体を掬うように両腕で抱えて立ち上がり、窓の方に向かって素早く進み始めた。
「ひゃ……」
「静かに。――先に行きます。後は頼みました」
クロイドは先程、自分で割った窓のふちに足をかけつつ、その場にいる者を全員、束縛させていたエリオスの方へと振り返った。
エリオスはこちらを見て、こくりと強く頷く。アイリスの無事を確認出来たからなのか、エリオスの目元は穏やかさを携えていた。
「分かった。気をつけろよ」
「はい」
クロイドは靴の踵を三回叩き、そしてそのまま夜の空へと飛び込むように足を蹴った。
大きく飛躍した身体はそのまま、屋敷から別の屋敷の屋根へと音を立てずに着地して、クロイドはそれを繰り返すように再び屋根瓦を蹴った。
アイリスは身体が落ちないように彼の首に腕を回す。ふわりと、浮かんでいる身体は、夜空を散歩しているかのように思えた。
「……クロイド……?」
「何だ?」
「本当に、クロイド……なのよね? これは……夢、じゃなくって……」
しどろもどろに、アイリスはクロイドに訊ねる。彼が小さく笑った気配がした。
「夢じゃない。助けに来たんだ、アイリスを。ローラもちゃんと無事だ。……もう、大丈夫なんだ」
大丈夫、その言葉がどれほど聞きたかったか。
「く……クロイド……っ。クロイド……!」
名前を何度も呼びながらアイリスはクロイドの肩口に顔を埋めながら涙を流した。我慢していた涙、流せなかった涙。それが同時に零れて溢れ出てしまう。
不安と焦り、そして諦めが心の中にあったのに、彼の言葉一つで、全てが消え去ってしまった。
「大丈夫だ。――もう、二度と離さないから」
確信を持ったその力強い言葉にアイリスは頷き、彼に回した手に力を込めていた。
この温かさが夢ではないことを改めて実感するように、ただ強く抱きしめていた。




