署名
歩いているこの足は、本当に自分のものなのだろうかと疑いたかった。
「そうそう、上手いね。そこの角を曲がって……」
シザールの声に導かれるようにアイリスの身体は自分の意志と反して動いてしまう。長い廊下、同じような扉が続いている。ここはどこの屋敷なのだろうか。本当にブルゴレッド達の屋敷なのか。
……今しか、逃げる機会がないのに。
どうしても、自分の力でこの足を止めることも、好きな方向へ動くことも出来ないのだ。ここまで従順魔法が強力なものだとは思っていなかった。少し舐めていた自分を殴ってやりたいくらいだが、それさえも出来ない。
唯一動かせる視線だけが、現状を捉えることが出来た。真っすぐ見た先には、大きな扉。他の部屋の扉とは違う、その扉には彫刻で花や葉の模様が装飾されていた。
自分の先頭を歩いていたメイドがその扉に手をかけて、そっと開く。
「――どうぞ、中へ」
メイドは自分に軽く頭を下げるだけで、扉を開けた部屋の中には入らないらしい。
「ほら、前へ進むんだ、お嬢さん」
従いたくないのに、身体が一歩、一歩と前へ進んでいく。大きな扉の部屋の中には、これまた大きなテーブルが置かれており、その上には煌びやかという言葉が似あいそうな料理が並んでいる。
扉から遠い席にはアイリスが知らない中年の男女が並んで座っており、扉に近い方の席にはブルゴレッド家の人間がずらりと肩を並べていた。
よく見ると、ジーニスの妹とその母親も座っている。ちらりと以前、見たことがあるが、何とも印象深い顔だったので、数年経った今でも覚えていたくらいだ。
取り澄ました顔は本当に親子揃ってそっくりだが、ここにエリオスが加わっても、半分ブルゴレッド家の血が流れているのか分からなくなりそうだ。
「よく似合っているよ、アイリス」
ジーニスが満面の笑みを浮かべて席から立ち上がり、そっとアイリスの右手を手に取った。その瞬間、ぶわりと背筋に悪寒が走る。
身体が動けなくても、それでも自分の反応は正直のようで少し安心したが、やはり嫌いな人に触られるのは身の毛がよだってしまう。
「まぁ、そちらの方が……」
「ふむ。ジーニスもジョゼフに似て、女の好みが良いようじゃないか」
奥の席に座っている中年の夫婦らしき男女がアイリスを上から下まで見つつ、鼻をならしながら笑っている。
身なりもそれなりに良さそうで、ブルゴレッドの知り合いなら、貴族達なのだろうか。彼らの自分を品定めするような視線が本当に気持ち悪く感じてしまう。
「ほら、こっちの席に座って。……シザール、ご苦労。君はそこに」
シザールは先程の怪しい恰好とは違い、今は普通の使用人が着るような服を着ている。確かにこれなら、魔法使いには見えないし、ただの使用人見えないだろう。
「アイリス、この席に座って」
ジーニスの言葉通りに身体が動いてしまうことが、本当に悔しくて堪らない。だが、涙を出すことも、舌を噛み切ることさえもままならない。アイリスはジーニスの言う通りに、勧められた席に座った。
視線だけ、動かすとブルゴレッドが満足そうな表情で口の端を上げている。それもそうだろう。会えば噛み付かんばかりの小娘が、シザールの魔法で借りて来た猫のように大人しくなっているのだから。
……こんなの、屈辱以上に惨めだわ。
この感情は何と言えばいいのか分からない。それくらいに、アイリスの心の内は激しく燃え上がっていた。
「リベスブルク家の皆さん、こちら、僕の婚約者であるアイリス・ローレンスです。……今はまだ緊張して、喋れないみたいで、そこは御勘弁下さい」
「ははっ……。緊張しているのか。中々、うぶな娘だな」
「仕方ありませんわ。今はこのくらいの歳で結婚する方が珍しいですもの」
リベスブルク家と呼ばれた夫婦の妻らしき方は、扇で口もとを隠しながらそう言った。
……リベスブルク家?
そういえば、ブルゴレッド家の本家はリベスブルク家だと聞いたことがある。つまり、彼らの方がブルゴレッド家よりも家格が上だということだ。
「しかし、思っていたよりも早く話をまとめたようじゃないか、ジョゼフ」
リベスブルク家の当主らしき男がワイングラスを傾けながら鼻を鳴らす。
「少々、手こずりましたが、何とか上手く行きましたよ。……あとは、そちらで手筈を整えてくれれば」
「そちらのレミシア嬢を養女としてうちに、そしていずれはラティアスに、だろう? 分かっている。向こうも了承してくれたからな。あとは、ただ金をばら撒いて、我々は動くのを待つだけでいい」
男達は汚らしく笑い合っているようだった。
……一体、何の話をしているの?
自分の知らない所で何かが進んでいるのは分かるが、状況を上手く掴めない。知らない名前も出ているし、自分は関係ないように思えるが、それでも「金をばら撒く」という言葉にだけは強く耳に残った。
……もしかして、遺産が早急に必要だった理由って、このお金をばら撒くって事と関係があるの?
それを聞きたくても声に出す事は出来ない。
ブルゴレッドの真後ろに、執事のように立っているシザールと目が合ったが、彼はアイリスの視線を無視した。どうやら、シザールは何か知っているようだ。
それからはブルゴレッド家とリベスブルク家はアイリスの聞きなれない政治の話や、世間話をしていた。
その間にも、どうにか身体を動かすことが出来ないか、アイリスは必死に身体全体に力を入れて試みてみる。
だが、やはり、魔法の力には勝てないのか何度やっても、自分の身体が思い通りに動くことはなかった。
……これほど、もどかしいことがあるなんて。
かつて、この魔法をかけられた女性もこんな思いをしていたのだろうか。惨めで、辛くて、どうしようもなくて。
でも、抗うことは出来ない。だから――。
ボーンと、鐘がなった音がその場に響く。アイリスは動くことに集中していたので、思っていたよりも時間が経っていることに気が付かなかった。
「おや、もう12時か」
「では、そろそろ……」
ブルゴレッドは後ろで控えているシザールへと振り返る。シザールは軽く頷き、一枚の紙とペンをジーニスへと渡した。
「それでは今から、婚姻署名の儀を始めさせていただきます」
恭しくブルゴレッドは立ち上がり、目の前に座っているリベスブルク家へと頭を下げる。
……あぁ。
とうとう、始まってしまった。隣に座っているジーニスがペンを手に取り、空白の欄に名前をさらさらと書いていく。
その場は、先程とは違って驚くほどに静まり返っていた。
この紙切れ一枚が自分の人生を大きく変えてしまう。それは自覚している。だから、自分は逃げなければならない。それなのに、身体は動いてくれない。
「……はい、アイリス。ここに君の名前を書くんだよ」
その言葉が呪縛のようにさえ聞こえてしまう。従いたくないのに、アイリスの手はペンを掴んだ。
目の前に置かれた書類には「婚姻届け」と大きく目立つように書かれており、夫となる人物の項目にはジーニス・ブルゴレッドと書かれており、その名前の隣には親指で印が押されていた。
その紙をアイリスはじっと見据える。ここまで、来てしまった。書いてしまえば、始まるのは地獄の日々。それは想像しなくても、分かっている。
もし、名前を書いて、そのあと逃げることが出来るだろうか。逃げて、離婚することが出来ればいい。出来なければ自分も――。
ふっと、脳裏に浮かんだのはクロイドの寂しそうに笑う表情。自分は彼に、悲しい表情をさせたくはない。自分のことが好きだと言ってくれた彼をまた独りぼっちになど、させたくはない。
胸元に下げられているのはクロイドからもらった、黒い石の首飾り。以前、この身を守ろうと盾になってくれたことがあったが、それ以来、魔力は消えてしまったのか、光ることはない。それでも、自分は確かにこの石に絆を感じている。
クロイドがどんな思いで、この首飾りをくれたのかを。自分が贈った首飾りを見て、嬉しいと笑う顔を。
「――アイリス、早く書いて」
必死にペンを動かさないようにしていたアイリスを急かすようにジーニスがその言葉を吐く。
手は少しずつ婚姻届けへと近付いていった。
「……」
名前を書けば、お終いだ。きっとこの先、「アイリス・ローレンス」として生きていくことは叶わなくなる。
自分が何のために、ここまで生きて来たのか。それは自分の家族を喰い殺した魔犬を倒すためだ。だが、その願いは、今はもう自分だけのものじゃない。
「アイリス、名前を」
その呪いの言葉に従い、ペン先が書類に触れた。
インクが滲んで、黒く小さな水たまりを作る。
手が勝手に動く。震えながらも、自分の手は最初の名前の一文字を書いてしまった。
……ああ、もう――。
アイリスは吐き出したくなる感情を吐き出せないまま、目を一度瞑った。この現実が全て夢だといいのにと願うように。




