凪の心
鼻を掠めた風が何となく湿気を帯びているように感じたクロイドは空を見上げる。月がそこで輝いていたが、それが道を照らしてくれているわけではない。
自分の道を照らしてくれた唯一人の人の顔だけが、心に浮かぶ。
「……緊張しているのか?」
式魔の準備をしていたエリオスがこちらを振り返る。今、クロイド達は教団の屋上にいた。
そこからエリオスの式魔を二体使って、アイリスが監禁されている屋敷まで飛ぶ算段である。もちろん、見られないように魔法をかけたものだ。
「いえ。ただ、いい夜だと思って」
「そうだな。……式魔は雨が降ると使い物にならないからな」
「そうなんですね」
クロイドはもう一度、自分の装備を確認する。薄手の黒い上着の中には、念のためにとユアンに持たされた煙幕が張れる筒を入れている。
履いている靴は「青嵐の靴」だ。しっかりと靴紐が結ばれているか再度、確認する。
「――ちょっと、レイク。この荷物、あんたが持ってよ」
「お前、どれだけ煙幕持って行く気なんだよ……」
声がした方を振り返るとユアンとレイクも準備が出来たのかこちらに向かって歩いてきていた。
いつもは、緩い感じの服装をしている二人だが、任務の際には黒に近い色の服で揃えているようで、それは動きやすいもののように見える。
ユアンは普段よりもきっちりと髪を結い、そこに髪飾りに見えるように杖を挿しており、肌を外に触れさせないような長袖を着ていた。
レイクの方もローブを纏い、腰には魔法書がいつでも使えるように装備されている。
「皆、準備出来たようだな」
エリオスの声に振り返るとそこには二体の鳥型の式魔がいた。どちらも大きく、大人二人が余裕で乗れるほどの大きさだ。
「屋敷の敷地に入った途端に、魔力を感知される可能性があるため、それぞれこれを身に着けていてくれ」
「これは……?」
エリオスに手渡されたのは黒く光る石が連なった腕輪のようなものだった。
「これは体内にある魔力を感知されにくくする魔具だ。ただし、魔法を使えばもちろん、意味はないが……」
「え? これって、もしかして魔的審査課の……」
ユアンの驚くような言葉にエリオスは軽く頷く。
「借りて来た。上にも申告しているから、問題はない」
「そういえば、この前の合同任務の時にも、魔的審査課の奴らが同じようなもの付けていたな」
「つまり、これを付けておけば、居てもいないのと同じになるってことね」
クロイドも早速、その腕輪を付けてみる。思ったよりも付けた違和感はないようだ。
「ただし、失くしたり、傷を付けた場合は弁償だ」
「なっ……!」
「一つ、10万ディールだ」
「高っ!」
驚きの表情でユアンとレイクがエリオスの顔を仰ぎ見る。そして、彼は表情を崩さずに言い放った。
「冗談だ」
「……」
その場が、静まり返る。
「……び、びっくりしたぁ~」
「エリオスさんが言うと、本気に聞えるぜ……」
どうやら、緊張している場を和ませようと冗談を言ったのかもしれないが、これは別の意味で緊張してしまうので逆効果のように思える。それでも気遣ってくれたエリオスには感謝しなければいけないだろう。
確かに自分は緊張していたのかもしれない。だが、今はもう、その緊張が抜けきっているように思えた。
出発前に先輩二人は、それぞれの装備に不備がないかもう一度確認し始める。だが、普段の様子とは違って、二人の表情は鋭いものになっているように見えた。
……皆、思っていることは一緒か。
アイリスを取り戻す。
目的はただ一つだ。
「屋敷に着いてからは、二手に分かれて行動することになるが、状況に応じて判断してほしい。アイリスを無事、救出した際には小型の式魔をそれぞれに飛ばすから、そのつもりでいてくれ。あと……」
エリオスはすっとユアンとレイクに鳥型に折られた紙を渡した。
「もしもの時のための予備だ。……脱出する時に、指笛を吹けば呼べば、空中で待機させた式魔がすぐに来るように魔法式を組み込んでいるが、何が起きるか分からないからな。非常時にはこの式魔を使ってくれ。俺の魔力を込めているから、それを掌に載せて息を吐くだけでいい」
「ありがとうございます」
「随分と、慎重ですね」
「念のためだ。……あの後にもう一度、遠距離映写魔法で、屋敷内部を覗いてみたが顔を知っている違法魔法使いはシザールしかいなかった。その他は雇われ者ばかりしか見かけなかったが、それでも十分に気を付けるように」
「はい」
「では、今から出発する。ユアンとレイクはそっちの式魔に乗ってくれ」
「こ……これで、空を飛ぶってことですよね……?」
レイクが強張った表情でエリオスの方へとぎこちなく振り返った。
「そうだが?」
「あー……。レイク、高所恐怖症だもんねぇ」
からかうような口調でユアンが愉快そうに笑った。どうやらレイクは高い所が怖いらしい。
自分は高いところは怖くない方だが、昼間に式魔に乗って飛んだ際には、それなりの高さだったので、高所恐怖症の人にとっては恐怖の対象でしかないだろう。
「……行先を命令すれば、そこまで勝手に運んでくれるようになっている。目でも閉じているといい」
レイクは引き攣った表情のままで、式魔の背中に乗り込む。
「おい、ユアン! お前、絶対ふざけた事とかするなよ!? いいな、絶対だからな!?」
「はいはい~。到着するまで、何も言わないし、何もしないから、黙ってなさい」
レイクの背中をぽんぽん、撫でるように叩きながらユアンも彼の後ろに乗り込んだ。鳥型の式魔はそれなりに大きいので、二人乗ってもまだ余裕があるくらいだ。
「クロイド」
名前を呼ばれたクロイドははっと顔を上げて、エリオスに続いて式魔に乗る。
「準備、いいな? ――行先、リベスブルク家別荘」
式魔がエリオスの声に従うように両翼を広げる。
ちらりと見るとがたがた震えているレイクの様子を見ながら、必死に笑いを堪えているユアンがいた。レイクは余程、怖いのか目を瞑って、耳まで塞いでいる。
「――行け」
瞬間、二羽の式魔が同時に空中へと浮かび始め、そして舞うように進み始めた。
風はそれほど強くないため、飛びやすそうだ。
「……」
胸の奥が再び、早く鼓動を脈打ち始める。そこに緊張も焦りもない。ただ、鼓動とは反比例するように、心の中は凪のように静まっていた。
……必ず、取り戻す。
元々、夜凪のようだった自分の心を大きく波立ててくれたのはアイリスだった。彼女だけが、自分の心に響いた。
それは同じ境遇だからとか、彼女が魔力無しだからとか、そういう理由ではない。同情や気掛かりだからというわけではない。
ただ、惹かれた。
彼女の凛々しい姿に。優しい笑顔に。全てを堪えて立ち向かう背中に。アイリスが持つ、全ての表情と感情に強く惹かれたから。
彼女を例えるなら、それはきっと春に吹く、優しく温かい風のように思える。そして、その風は自分が持っていた凪の心をそっと揺らしてくれた。
揺らされた水面は波紋を作って、大きいものへと変わっていた。大げさだって笑われるかもしれない。それでも、生きる希望を与えてくれたのは間違いなく、アイリスなのだ。
「――クロイド!」
すでに離陸していた式魔が屋上から数十メートル程、飛行していた時だった。突然、名前を後ろから呼ばれたクロイドはその声の方向に振り返る。
そこには屋上の柵から乗り出すように手を振るミレットがいた。
「絶対に、アイリスを助けなさいよー! 待っているからっ!」
ミレットにしては珍しい大声を上げて、こちらに向かって必死に手を振っていた。
「……」
クロイドは何も答えずに、ただ同じように手を挙げる。それは絶対にアイリスを連れ戻すという意志を込めて、ミレットに返事をした。
式魔はぐいっと高度を上げ始める。夜の街が自分達の下に広がっていると思うと、何だか不思議な感じだ。
夜景に目を落としつつ、先程、ミレットが言っていた言葉をもう一度、思い出す。
アイリスをずっと離さないで、守って欲しい。それは、ミレットが願うまでもなく、自分がそうしたいと思っていることだ。
……会ったら二度と――。
その手を離したりなどしないのだ。




