外道
誰かに名前を呼ばれる不快感によって、アイリスは目が覚めた。自分が眠る前と変わらない天井が一番最初に目に入って来て、やはり夢ではないのかと、静かに溜息を吐く。
アイリスが身じろぎしたのが分かったのだろう。傍に控えているメイドの女が、寝たままにされているアイリスの顔を覗いてくる。
「あら、やっとお目覚めですか」
不気味さが変わらない笑顔でメイドは微笑んでいた。
「……今、何時なの」
「もうすぐ、本家の方が来られる時間ですよ。中々、起きられないのでこちらで、ドレスの準備をさせて頂きました」
「何ですって……」
それはつまり、今の時間がすっかり夜になっているということだろうか。だが、メイドの言葉で気になった点がもう一つある。
自分の身体を覆うもの質が、今まで着ていた服と違うように思えて、アイリスは顔を身体の下へと向ける。
「なっ……」
いつの間にか、白いドレスのようなものへと着替えさせられていたのだ。
「何よ、これ……」
「正式な婚約の場ですもの。正装でご出席しなければならないでしょう?」
「あなたが着替えさせたの……?」
怒気を含めた声色で訊ねると彼女はころころと笑った。
「ええ。あなたの世話を任せられているのは私ですもの。大丈夫ですわ。男性には着替えるところは見られていませんから」
「だからって、そんな勝手に……!」
身体からは何となく、作られた花のような香りがする。もしかすると、眠っているうちに風呂にでも入れられたのだとしたら、羞恥心や怒りを通り越して、呆れるほどだ。
「これからはお世話される側なんですから、これくらいで動揺してもらっては困りますわ」
「私は自分のことは自分でやれるわ。お嬢様じゃないもの」
中々、面倒な服装に着替えさせられたものだ。ドレスだと普段着に比べたら、かなり動きにくいだろう。
その時、部屋の扉を叩く音が聞こえ、メイドがすぐに返事をする。そこに入って来たのは、自分が最も嫌悪する存在、ブルゴレッド男爵だった。その後ろにはシザールも付いてきている。
「っ……!」
アイリスは目をかっと開き、身体を本能に従うまま上体を起こそうとするが、手が鎖に繋がれているため、すぐにベッドの上へと身体は戻される。
「このっ……! 外道が……!」
長い事、顔を合わせていなくても、たとえ思い出したくなくても、その顔も声も全て覚えている。
「ふん。相変わらず、じゃじゃ馬のようだな、お前は」
少ししわがれた声と、整えられた髪型、顔立ちはジーニスを40歳程、老けさせたような顔で、恰幅がいい身体は彼が着ているスーツをはち切れんばかりに圧迫させている。
「そうね。ブルゴレッド男爵もおかわりがなく、残念だわ。歳をとれば、少しはお金に対して寛容な方になって下さると思っていたのに」
もちろん、そんなこと心から思ったことなどない。だが、ブルゴレッドはアイリスの嫌味を鼻で笑っただけだった。
「威勢がいいのも今だけだ。すぐに借りて来た猫のように大人しくさせてやる」
「それなら、私は獅子のようにあなた達の喉を噛み切ってあげるわ」
アイリスはすっと目を細めて、ブルゴレッドを強く睨んだ。
「――私は絶対に、この家とは結婚しない。これは強がりじゃないわ。私の言葉は絶対となる」
強く、意志を持てば、叶うことだってあると聞いた。だから、これは願いなどではなく、現実とするための自分の意志だ。
「そして、あなた達は後悔することになるでしょうね。自分達がしてきたことに対して、泣いて詫びるといいわ」
「……その減らず口も変わらずだな」
自分よりも下だと思った相手には高圧的な態度をとるブルゴレッドの性格は嫌と言う程に知っている。彼は自分を睨んでいるつもりらしいが、今まで修羅場を抜けて来た自分にはそんなもの、効果はない。
「せっかく、結婚祝いの言葉でも言ってやろうかと思ったが、興が冷めたではないか」
「あなたの口から出るのは地獄への切符と同じような言葉ばかりだもの。貰えなくて嬉しいわ」
皮肉をたっぷり込めて返すと、彼の表情はほんの少し歪んだように見えた。
「……まぁ、いい。無事に結婚が済んだあとは、使い古した雑巾並みに大事にしてやるさ。おい、シザール。さっきの話のもの、頼んだぞ」
「かしこまりました」
シザールは恭しくブルゴレッドに頭を下げた。ブルゴレッドは部屋から出る前に、メイドに何かを手渡した。メイドはそれを両手で受け取り、シザールとアイリスをその場に残して、部屋から出て行く。
……きっと、鍵だわ。
直感で、それがこの枷専用の鍵だと気付いた。それならば、枷が外れた瞬間にこの部屋から飛び出し、どうにか逃げることが出来れば――。
「余計なことは考えない方がいいよ、お嬢さん」
フードの下でシザールが小さく笑った気配がした。
「あんたのことだから、逃げられれば勝ちだと思っているかもしれないが、そいつは無理だ」
「どうして無理だと思うの」
「もう、俺の仕事もこれで最後だからな。最後ついでに色々教えてやるよ」
彼はフードをすっと脱いだ。
「まず、あんたが助けたいと思っている娘はここにはいない」
「なっ……」
ローラはこの屋敷に一緒に監禁されていると思っていたが、違うのか。
「まぁ、そんな恐い顔しなさんな。……驚いたことに、昨日のうちに逃げちまったんだよ、自力で」
「え?」
「どうやったかは知らないが三階の窓が割れていて、見張りの奴が言うには、そこから飛びおりて逃げたらしい。その後も周辺を探したが、姿はなかったんだとよ。……一つ、聞くがもしかして魔法を使って逃げたんじゃないかね?」
「……」
ローラが逃げた。しかも自力で。魔法を使って。
「……無事、なのね」
ローラの身を最も心配していたが、自力で無事に逃げ切ったのだろう。安堵したアイリスはこの屋敷に来て、初めて穏やかな表情になった気がした。
「……あんた、お人よしだね」
呆れたようにシザールが笑う。
「まさか、魔法が使えるとは思っていなかったからな。俺もすっかり油断しちまった」
「あの子、とても頭が良いもの。……でも、そうなのね。……良かった」
安堵の溜息が何度も出てしまう。ローラが彼女の身に起きたことをクロイド達に伝えてくれているといいが、これでローラの身の安全は確保されたと言っていいだろう。
あとは、自分の心配だけすればいいようだ。
……それなら尚更、逃げなくちゃ。
一人なら、余裕はある。魔具も剣もなくても、この身に培ってきたものはそれだけではない。
「ちなみに、ここは三階だ。簡単に逃げられないように、雇われ者が配備されている。お嬢さんは少しくらい武術が出来るようだけど、さすがにあの人数相手は難しいだろうね」
「……ねぇ、どうしてそんなこと、教えてくれるの。あなた、私に味方する気なんてないんでしょう」
おかしく思ったアイリスは首を少し捻りながら問いかける。
「まぁ、それもそうだ。だが、俺は別にこの家に恩義を感じているわけでもないからな。……ただ、利用できるものは何でも利用するだけだ」
「……あなたの望みはお金ではないんだったわね」
「そうだ。……俺が欲しいのはたった一つ。……認められる、それだけだ」
「え?」
最後に告げた一言を何と言ったか聞こえなかったアイリスは聞き返すが、シザールは答えてはくれなかった。
「あんたには悪いけど、これも仕事なんでね。……従順魔法をかけさせてもらうよ」
「なっ……」
アイリスが思わず絶句するも、彼の表情は変わらない。いや、変わらないように見えるが、もう笑ってはいなかった。
「こうしないと君は自分の舌を噛み切って、迷わず死を選びそうだからね。それに……この後、結婚の署名をしなければならない時に、君は素直に自分の名前を書かないだろうから」
淡々と彼はそう話している。それが、鮮明に耳の奥へと残っている。
「……あなた、自分が何をしようとしているのか、分かっているの?」
「ああ、もちろんだ」
シザールはローブの下から杖を取り出した。
彼は飄々としていた態度から、静かな凪のような空気を纏い始める。さっきまでとはまるで別人だ。いや、もしかするとこっちが彼の本当の姿なのかもしれない。
シザールは悲しみと寂しさを同時に瞳の奥に映しているように見えた。
……それでも。
「あなたが何を望んでいるのかは分からないけれど、でも……。多分、それは他人を不幸にしてまで、その手に入るものではないと思うわ」
「……」
彼はそこで取り繕うように、軽く笑ったが、今ではその笑顔は似合わなくなってしまっている。
「残念だわ。私は……あなたはそのままでいいと思っているのに、それでも道を外そうとするなんて……」
「俺が君に抱えているものが分からないように、君も俺が抱えているものが分からないだろう? ……俺は君を地獄に追いやってでも、叶えたいことがある。誰かの上にのし上がらなければ、自分はそこに埋もれてしまう。……埋もれないために、俺はただ、泥の道を進むしかないんだよ」
笑っているのに、その声は悲しみで溢れている。シザールはアイリスに杖の先端を向ける。
「……これから君は口が利けなくなる。そして、あの男達の言いなりになる」
「……どうしてでも、その魔法を私にかける気なのね」
不気味な静けさがそこに漂う。
「そうだ。あの男が君を利用するように、俺もまた、自分の道のためにあの男を利用する。……結局、そうやって誰かを利用しながら生きるしかないんだ」
吐き捨てたようにも聞こえた言葉には、諦めが混じっているように思えた。
「……この魔法は、後遺症はないがそれでも他人から魔法を解かれない限り、持続的に続く」
「私に生きたまま地獄に落ちろと言っているみたいね」
「あぁ。これはそれほどに恐ろしい魔法だ。だから……」
ふっと、彼の表情が歪んだように見えた。
「先に、謝っておく。……ごめんな」
年相応の青年のようにも見えた彼から出た声は、驚くほど穏やかだった。
「……――契約者の命に基づき、その身、その声を縛る。震えぬ声はその身を動かす。凪の言葉は汝を求む」
シザールが杖を振り始めた。眠りの魔法よりも、重圧を強く感じ始めたアイリスは表情を歪ませる。
耳には入れたくないのに、その言葉が身体中を駆け巡っていく気がした。
「自由なき身となれ。声なき口となれ。映す視線は制されて……。いま、ここに汝が心……封を閉じよ」
言葉が熱風のように身体に吹き付ける。そして、少しずつ身に染みていったのを感じたアイリスは声にならぬ声で叫んだ。
「っ……」
途端に、身体が金縛りにあったように動かなくなる。瞬きさえも上手く出来ず、何より声を発しているはずなのに、言葉が出てこない。痺れているのか、身体の節々が痛くも感じる。
……何一つ、自分で出来ないなんて……!
これが従順魔法の力なのか。これでは舌を噛み切るどころか、逃げることさえも出来ない。
「悪いね。少し、強めに魔法をかけた。勝手に動いてもらっては困るからな。……さて、あんたにも地獄を付き合ってもらうよ」
視界に映ったシザールの表情はブルゴレッド達と似たようなものに変わっていた。
話に聞いていた、以前この魔法をかけられた女性は主がいない時に、自分の意志で動けたと言っていたため、もしかすると機会があれば逃げられるかもしれないと思っていた。
だが、魔法を直接受けて、実感した。
シザールは容赦なく、強めに魔法をかけてきている。本当に、声一つでしか自由に動けない身にさせたのだ。
……これじゃあ、もう……。
アイリスは泣きたくても泣けなかった。身体の一つ一つの仕草さえ、動けないため、涙が出ないのだ。
自分は何の抵抗も出来ない、ただの人形となってしまったのだから。




