出来ること
自分から一メートル程、離れた場所の床の上には、お盆の上にパン一つとスープらしきものが入った皿、そして水が入ったコップが置かれている。
手足を縛っているのに、この状態で食えとは横暴な人達だとローラは溜息を深く吐く。
……ローレンス嬢って、アイリスお姉ちゃんのこと、なのかな。
自分の知っている名前はアイリス・ローレンスしか知らない。
何か自分の知らないところで、彼女が関わっていることが起きているのだろうか。
「……」
ローラは男達が話していた内容を思い出す。
……明日、何かがあるってことだよね。その間に自分がここにいるのを見張らなきゃいけないって言っていたし。
明日は学校が休みだ。世間的な行事が何かあるわけでもない。自分がここにいて、どういう意味があるのだろうか。
自分はただの子どもだ。孤児院に住んでいて、他の子と違うといえば、魔力があることを自覚していることくらいだ。何か、得することでもあるのか。
……もし、言っている人がアイリスお姉ちゃんのことなら、この場所にアイリスお姉ちゃんもいるんだよね。でも、人を蹴り倒したって言っていたし、何かあったのかも。
出された食事の匂いが鼻をかすめるが、それでも食べる気にはなれなかった。何か薬でも入っている可能性があるので、手を出さない方がいいだろう。
寝たままの状態から、ローラは出来るだけ音を立てないようにゆっくりと身体を起こし、木箱に背をもたれるように座った。少しずつなら、思っているよりも動けるようだ。
自分は見た目よりも子どもではないと昔は思っていた。それはアイリス達に会うまでのことだが、孤児院の中では年長組で、よくシスター達から、大人びていると言われていた。
正直に言えば、子どもでいることが怖かったのかもしれない。子どもは自分の好きに生きることは出来ない。自分の思う通りに物事を進める力もない。一人ぼっちになってしまったあの日から、早く大人になりたいと願っていた。
自分に魔法が使えると知った日からは、何でも思い通りになれる力がこの身にあるのだと嬉しかった。これで自分の「一人ぼっちではない」という願いが叶うのだと信じていた。
だが、それは全てまやかしで、自分は結局、何の力も持たない非力な子どもなのだと実感した。
だけど、そう思うことは違っていたのだ。そうやって、勝手に悟ってしまっていただけなのだと、アイリス達に教わった。
甘えてもいいのだと、教えてもらった。それは子どもだからという意味ではなく、単純に人は寂しい時や悲しい時には、我慢しないで泣いてもいいよ、という意味だった。
非力だからと言って、何も力を与えてもらえないわけではない。自分で努力して掴み取るものだと知った。
……いつも優しく、教えてくれていたなぁ。
アイリスの時間がある時には他の子達には内緒でこっそりと魔法の本を貸してくれて、どういう魔法があるかを一対一で教えてくれた。
いつか自分が教団に入って、魔法使いになりたいと言ったら、それを尊重してくれたのだ。今はまだ、魔法使用許可がおりない年齢で、教団に入れるのは15歳になってからなので、それまでに勉強を頑張ろうねとアイリスは笑っていた。
あまり子どもらしくない実感はある。それでも、いつも読んでいる本は魔法使いやお姫様が出てくる物語ばかり。アイリスはそれを笑わずに、自分も読んでいたと懐かしそうな表情をしていた。
自分はアイリスが好きだ。姉がいれば、あんな感じの姉が欲しい。もちろん、クロイドだって、いいお兄ちゃんだと思うし、孤児院の子ども達もシスター達も自分にとっては大事な家族だ。
……今頃、心配しているだろうな。
孤児院では、夕方の六時までに帰ってこなければならない約束になっている。食事を作る当番の人間はさらに早い時間に帰る約束だ。
「……帰らないと」
何かを決意するようにローラの瞳に力が込められる。
自分は泣き出すだけの子どもではない。嫌なものは嫌だとはっきり言える子どもだ。
今、なにをしなければならないのかを考える。
……さっきの男の人達は、私がここにいれば、アイリスお姉ちゃんは逃げないって言っていたわ。ということは……何かアイリスお姉ちゃんに問題が起きていて、私が人質にされているってこと?
だから、アイリスは自分がここにいる以上、逃げられない状況にあるというのか。確かにアイリスの性格なら、子どもを放って、自分だけ助かるような道を選ぶ人間ではないだろう。
自分を捕らえている相手にアイリスの性格が知られているならば、自分は利用されたと考えれば納得できる。
……私が人質じゃなければ、アイリスお姉ちゃんは逃げられるのかな。
この場所がどこか分からないが話の内容からして、アイリスも無理矢理ここへと連れてこられたのだと思う。
自分にはアイリスを助けられるような力はない。だが、アイリスはそこらの女の子よりも強いから、自分が上手く逃げられれば、アイリスも自分で隙を見て逃げられるのではないだろうか。
……出来るかな。
窓の外を見てみると、もうすっかり月が昇っていた。それにここは空に浮かぶ月との距離感から二階以上の場所に位置していることが分かる。
逃げる場所は窓しかないだろうが、二階から飛び降りなんて芸当は自分には出来ない。だが、この物置部屋の中をよく探せば、長い縄などが見つかるかもしれない。
……その前には今、縛っている縄をどうにかしないと。
随分と太くて、切れにくそうな縄だ。子ども相手にこれ程、容赦なく縛ることが出来るのであれば優しい人間ではないだろう。
ローラは転がるように置かれている自分の鞄の中に何が入っていたかを思い出し始める。
……ノートと教科書、筆箱と……。お弁当箱、ハンカチ……。
鞄の中に入っているのは授業で必要なものばかりで、ナイフどころか鋏さえ入っていない。それが普通なのだが、やはりそうかとローラは少しがっかりした。
自分の足と目で、この場所に何か使えそうなものがあるか探したいが、この状態では立ち上がることさえ、ままならない。
……こんな時、アイリスお姉ちゃんならどうするんだろう。
不安や焦りはあっても、涙は自分でも驚くほど、出なかった。むしろ、他の子達が連れてこられなくて良かったとさえ思っている。
……私は、何もできない。でも、何かやらなくちゃいけない。
それなら自分にいま、出来ることとは何だろうか。自分が持てる力の全てをもってして、出来ることとは――。
「……」
ふっと、頭に一つのことが過ぎった。
「……魔法なら」
ぼそりと誰にも聞かれない程の小さな声で呟く。自分は大きな力も持たない子どもだ。だが、持っているものがあった。
身体をよじるように動かしながら、自分の鞄へと出来るかぎりの限界まで手を伸ばし、鞄を掴み取る。
アイリスに以前、魔法も人にとって合うものと合わないものがあると習った。自分の魔力の性質が上手くぴたりと合えば、他の人が同じ魔法を同じ魔力の容量を使ったとしても、性質が合っている人の方が魔法の効果や性能が大きいのだという。
……私はまだ、自分の魔法の性質が何と合うかは分からない。だけど……。
覚えていて、損はないからとたくさんの魔法を教わった。まだ、魔法が使える許可が下りてはいないから、実際に使ったことはない。
だが、今はどんな処罰もこの後に受けるから、魔法をこの瞬間、使う事を許してほしい。
……魔法、何か縄を切れるもの……。風の魔法だと、自分の身体も危ないし、コントロールだって上手く出来ないかも……。
教わった基礎魔法の中で、出来るだけ現状に使えそうなものをあげていく。
……でも、今は魔具がない。
魔法は普通、魔具を使用することによって、具現化されるものだ。魔具の使用許可も下りていない自分には当然扱える魔具も持っている魔具もない。
……あの石があれば、こんな縄、一瞬だったのに。
頭に過ぎったのは、数か月前に自分が初めて手に取った魔具『悪魔の紅い瞳』。だが、あれはメフィストフェレスという悪魔が中に封印されていて、自分を操っていたものだ。
……もう、私はあの頃とは違う。
結局、あれも他人の力によるまやかしの力だった。
今、必要なのは自分で、自分を救う力。
鞄の中の筆箱から、入学祝いとしてシスター達から貰った万年筆を取り出す。とても大事な宝物だ。万年筆だって、良い物はそれなりの値段がするはずなのに、シスター達は自分達が学校に行くなら、これをと言って、万年筆をそれぞれにくれた。
宝物の一つだ。大事な、大事な、家族からもらった宝物。
出来ることは何だ。使える魔法は何だ。いま、何が必要なのか。
魔具がないなら、どうやって魔法を使えばいいか――。
「……魔法陣なら」
魔具はないが、魔法陣なら自分にも書ける。魔法陣を媒体にすれば、魔具がなくても魔法が使えるとアイリスも言っていた。
ローラはノートを鞄から引っ張り出して、動きにくい手を必死に動かしながら、空白のページを探していく。




