婚約事情
実際、ブルゴレッド家に関わりがないように日常を過ごしていても上手くいかないことはある。
それはアイリスが通っているセントリア学園にジョゼフ・ブルゴレッドの息子であるジーニス・ブルゴレッドが通っているため、こちらが関わりを避けようとしても、向こうが勝手に近付いてくるのだ。
歳が同じであるがクラスが違うだけでも、凄く助かっているのだが、ジーニスはご機嫌伺いと称して、月に1,2回くらいアイリスのもとへと話をしにやってくる。
その時間がアイリスにとっては最も嫌いな時間の一つだった。
「やぁ、アイリス。元気だったかい?」
まるで親しい仲であるような口調で彼は自席に座っていたアイリスに話しかけてくる。
まだ、一時間目が始まる前の時間、教室に来ている生徒達はまばらだが、それでも会話するのでさえ嫌だったアイリスは無視をした。
隣のミレットが気の毒に思っているような表情でこちらをちらりと見てくる。頬杖をつきながら、アイリスはわざとのように窓の外へと視線を動かした。
「……」
目の前に座っているクロイドは何か、不穏な空気を察知したのか、こちらの話に聞き耳を立てているようだ。
そういえばクロイドがいる手前で、ジーニスが来るのは初めてだ。お互いに初対面であるし、クロイドにはジーニスがアイリスの婚約者だと周りに吹聴していることを知らせていない。
「この前、誕生日だったんだろう? おめでとう。……近いうちに父上が君を家に招いて、誕生日パーティーと一緒に親戚に婚約発表をしたいって言っているんだけれど、いつがいいかな?」
「……」
アイリスは微動だにしなかったが、クロイドの肩が微かに揺れたのが見えた。
……聞かせたくなかったわ。
だが、自分でこの揉め事を治めきれなかったせいでもある。もう、喋るなと言っても、聞く耳はもたない家系だ。何を言っても無駄なので無視をしておきたいが、そうはいかない。
何も答えないアイリスに痺れを切らしたのか、ジーニスはわざとらしく溜息を吐く。
「……君があまり、言うことを聞いてくれないなら、こっちだって無理矢理に先に進めることは出来るんだ。そう例えば……先に既成事実を作ることだって、出来るんだから」
ジーニスの手がアイリスへと伸ばされる。
さすがに最後の一言には自分も黙ってはいられないと思ったアイリスは一発殴ろうかと立ち上がる。
だが、それよりも早かったのはジーニスの手を叩き落とすように払った、クロイドの手だった。
「痛っ……。何するんだ!」
「……」
クロイドは立ち上がり、ジーニスを鋭い視線で威嚇するように睨んだ。
「それをこちらの台詞だ。……自分の婚約者を辱めるような発言をした奴に情けなどかけると思うか?」
いつもよりも低い声がアイリス達だけに聞こえるようにその場に響く。
「何……?」
ジーニスはクロイドを不審なものでも見るような目で見る。
「何だ、君は……。僕は……」
「俺はクロイド・ソルモンド。……アイリスの本当の婚約者だ」
「っ!」
抑揚のない、地を這うような低い声ではっきりと彼は告げた。
そういえばこの前も、ミレットの提案でそんな設定を付けていたが、まだ覚えていたらしい。その証拠に隣のミレットがジーニスに気付かれないように笑いを堪えていた。
「何を言っているんだ、君は……。僕の事を知らないのか?」
「聞かなくても分かる。ブルゴレッド家の人間だろう? 政界でも有名だ。金遣いが荒く、金に対する執着力が粘着剤並みに面倒だと聞いている」
「なっ……」
クロイドは元王子なので、政治に発言力のある貴族の情報は一応、耳に入れているのだろう。
つまり彼が幼い頃から、ブルゴレッド家は変わらないのだ。
「残念だが、アイリスはそちらとの婚約の意志はないとはっきり言っている」
「婚約したのは僕の方が先だぞ!」
「アイリスが持っている、ローレンス家の遺産目当ての婚約だろう? アイリスはそれに対して頷いてもいないし、契約も交わしていない。口約束などが当てになるか」
アイリスの言いたいことを全て、分かっているようにクロイドは話を続ける。
「それなら君だって、口約束のようなものだろう。……ソルモンドだったか? そんな名前、貴族間どころか世間でさえ聞かない名前だ。……お前、何者だ?」
ジーニスが顔を歪めながらクロイドの顔をじっと睨むように見る。
「そんなに家名にこだわる必要があるのか?」
「何……?」
「大事なのはアイリスが何を選んだか、だ」
クロイドがちらりとアイリスの方へ視線を向ける。その一瞬だけは、とても穏やかなものに見えたが、ジーニスに視線を戻す時は鋭いものへと変わっていた。
「アイリスはお前を……ブルゴレッド家を選ばなかった。ただ、それだけだ。……アイリスは俺の婚約者だ。これ以上、彼女に干渉するようなら、法的処置も取らせてもらおう」
「この……!」
ジーニスの表情が初めて大きく歪んだ。恐らく、悔しがっているか妬ましく思っているかのどちらかだろう。
すっと、ジーニスによってクロイドの胸倉が掴まれる。
アイリスも思わず腰を浮かしかけるが、クロイドは慣れたような手つきで、彼の腕を掴み、そしてそのまま足を引っかけるようにしながら、ジーニスの体勢を崩した。
「っ……!」
「言っておくが、俺はお坊ちゃんとして育てられたお前より、弱くはない。今度は尻餅だけじゃ済まなくなるぞ」
教室内はジーニスが大きな音を立てて倒れたことで、一気に騒がしくなり、視線がこちらへと集まってくる。
ジーニスは舌打ちしつつ、立ち上がった。
「よくも僕に恥をかかせてくれたな……」
珍しく怒っているようにも見えるが、全く怖くはない。むしろ、子どもが不機嫌になったような顔でクロイドを見ている。
「覚えていろよ……。その無表情の面に泥を塗って、二度と僕の前に立てないようにしてやるからな……!」
それだけ吐き捨てるように言って、ジーニスはアイリス達に背を向けて去っていった。
大きい足音を立てながら自分の教室へと帰っていくジーニスを教室内にいるクラスメイト達は何事かと見ていたが、すぐに自分達のお喋りへと花を咲かせ始める。
「……さっきのって、負け犬の遠吠えって言うのよね」
重たくなった空気を最初に破ったのはミレットだった。もう、笑いを我慢しなくていいと思ったのか、肩を震わせながら、盛大に笑い始める。
「ちょっと、ミレット……。他人事だからって笑いすぎ」
それを見て、クロイドは少し安堵したような表情を浮かべて、自分の席へと座った。
「すまない、アイリス。……つい、頭に血が上ってしまった」
頭を下げるクロイドに対し、アイリスは慌てたように手を横に振る。
「謝らないで。……私だって、あなたにブルゴレッド家と無理矢理に婚約状態にされているって言わなかったもの。……でも、クロイド。助けてくれてありがとう」
クロイドがあそこで立ち上がっていなければ、ジーニスの顔を思いっ切りに殴っていただろう。そして、その損害賠償として、無理矢理に結婚の契約書を書かされたに違いない。
今、自分は自分の意志で結婚できる歳になっている。もう、守ってもらうばかりの存在ではなくなった。
この手が名前を書いただけでその意志に関係なく、不当な結婚をしなければならなくなる可能性だってあるのだ。
「あとはソルモンド家は凄く金持ちで、権力を持って家だっていう筋書きを仕立て上げれば、ブルゴレッド家も大きく出られないでしょうねぇ」
ミレットは何かを企むように黒い笑みを浮かべて笑っている。
「……ソルモンドなんて、元々実在しない、俺一人だけの家名だ」
「だから、外国から来たってことにすれば? 近隣で貴族制度が残っている国と言えば……フレシオンとか」
「その設定でいくつもりなの……? ミレットってば、余計なところで知恵が回るんだから……」
「だって、そのくらいしておかないと。ブルゴレッド家が簡単に口出し出来ないのは、彼らよりも位の高い貴族様だけなんだから」
「まぁ、俺のことはいいんだ。それよりもアイリスのことだ」
こちらへ視線を向けるクロイドは真剣な目をしていた。思わず、胸の奥が跳ねた気分になる。
「今後、アイリスに何か危害を加えてくるかもしれない。やはり、それなりに用心しておいた方がいいだろう」
その言葉にアイリスは深く頷く。
……出来れば、この不毛な争いに巻き込みたくなかったけれど。
それでもやはり、クロイドが自分の婚約者だと言い張ってくれたことが嬉しくも思ってしまう。
そして、いつか本当にそうなればいいのに、なんて思ったところでアイリスは首を振って、現実へと戻って来る。
……そう、これは全部、嘘。
偽りなのだ。身の毛がよだつ程に嫌なブルゴレッド家との婚約も、クロイドが真剣な表情で婚約者だと言い放ったことも。
今の自分には、全て偽りでしかない。
「アイリス? 大丈夫か?」
クロイドが顔色を窺ってくる。
「……うん、平気よ」
笑顔でそう返すが、それでもクロイドは何か言いたげな表情をしていた。
ふと気づけば、教室は登校してきた生徒達で溢れ始める。壁にかけられている時計を見ると、もう授業が始まる時間だった。
そろそろ授業の準備をした方がいいだろう。アイリスは浮かない心のまま、鞄へと手を伸ばした。




