確固
本部に着いたのは団員達が夕食を食べ終わる頃合いだった。陽はすっかり沈み、通常の出勤を終えた者達は自宅や自室へと帰っていく。
アイリスは念のためにとブレアに会う前にクロイドを医務室へと連れて行った。
クロイドの腹部の傷は塞がってはいるが、暫く安静にしていなければ傷が開くので、くれぐれも激しい運動はしないようにと医師から強く言い含められ、塗り薬を渡された。
魔具調査課に行くとユアン達はすでに自室へと戻っているのか、誰もいない。アイリスとクロイドは顔を見合わせて、課長室の扉を軽く叩いた。
中からすぐに返事が返って来る。唾を飲み込み、扉を開けた。
目に入ってきたのはいつも通りに、椅子にゆったりと腰かけているブレアの姿。
「おう、おかえり」
「ただいま戻りました」
「村長のハディから電話で連絡があってな。中々、大変だったらしいじゃないか」
ブレアがそこに座れと言うように目線で合図してきたので、アイリスとクロイドは向かい合うようにしながらソファに座った。
「……はい。実は……回収する予定の魔具を私が破壊してしまいまして」
アイリスが恐る恐るそう言って、魔具回収という任務を失敗させてしまったことを切り出した。
「あぁ、それも聞いている。……面倒な魔物だったんだろう? クロイドは怪我をしたと聞いた。大丈夫なのか?」
ブレアの表情が苦いものを噛んだように歪む。やはり彼女も心配らしい。
「傷は塞がっていますが、安静にしておくようにと言われました」
「そうか……。ミレットに『幻影を分かつ者』のことを調べてもらったんだが、随分と昔に封印された魔物だったらしい。記録が少ないから、支部の人間じゃなくて村人によって封印されたんだろうな……」
支部の人間によって討伐、または封印されたものなら、必ず報告書として本部に提出されるようになっている。
ジュモリオンもどちらかと言えば、村人を恨んでいるようなことを言っていた。
「それが今頃、封印が薄れて、解けたということですね」
「そうだ。……まぁ、相手は魔物だったし、自分の命の方が大事だからな。深刻な状況にならなくて良かったが下手したら、お前達だって危なかったんだぞ?」
「……」
ブレアの口調が少しだけ強いものとなる。
「そう思えば今回、お前達が下した判断は間違っていなかったということだ」
「それは……」
「もちろん、お咎めなしだ。そのまま魔物を魔具に封印し直して回収することも出来たかもしれないが、破壊しておいた方が確実に村人達を助けることが出来ていただろうな」
アイリスとクロイドは顔を見合わせる。怒られてはいない、ようだ。
「……ジュモリオンは相手に幻を見せて襲うと聞いた。お前達は……何に見えたんだ?」
確信しているにもかかわらず、ブレアはあえてそう訊ねてきているような気がした。
「……二人とも、魔犬に見えていました」
「……やはり、そうか」
「でも、負けませんでした」
アイリスの代わりにクロイドがはっきりとした声で答える。
「偽物でしたが……。ちゃんと、乗り越えられたんです」
誰かが聞いたら、幻ごときでと笑われるかもしれないが、これはお互いにとっての大きな一歩だった。
ブレアはふっと小さく笑って頷いた。彼女もまた、自分達が背負う恐怖を理解してくれているのだ。
「とりあえず、報告書は明日提出でいい。今日はゆっくりと休め」
「はい」
アイリス達は同時に立ち上がり、ブレアに向けて軽く頭を下げてから、扉へと向かう。
「……二人とも、本当に無事で良かった。よく、やった」
背後からブレアの労わる言葉が聞こえ、思わず振り返る。穏やかな笑みを浮かべたブレアが二人を見ていた。
ブレアも自分達が一歩ずつ前へと進み、壁を乗り越えていくことを信じてくれていたのかもしれない。
アイリスはブレアの笑みに穏やかさを含めた表情を返して、課長室から出た。
扉を閉めた途端に出たのは深い溜息だった。
「……怒られずに済んだわね」
「そうだな」
任務に失敗したので怒られると思っていたが、むしろ褒められたと言ってもいいだろう。それよりも、身を案じられていた気がする。
「……傷、早く治さないとね」
「アイリスだけじゃなくって、ブレアさんも心配しているからな。出来るだけ、安静にしているよ。……今後の任務次第だけどな」
「そこはきっと、ブレアさんが考慮してくれるんじゃない?」
二人は歩調を合わせながら歩き出す。
「今は栄養あるものをたくさん食べて、十分に休まないと」
「それじゃあ早速、夕食を食べに行くか」
魔具調査課を出て、二人は食堂へと向かう。本部の建物の中には残業をしている人や、これから夜に任務がある者しか残っていないのか、とても静かだった。
怪我はしたが二人とも無事にこの場所へと帰ってこられた。その実感がやっと湧いてくる。
……私も、もっと心を強く持たないと。
魔犬ではないが幻に打ち勝つことは出来た。だが、本物の魔犬の遭遇した時に、少しでも躊躇すればやられてしまうだろう。
自分はまだ弱い。成長したとは言え、心まで同じように成長するとは限らない。もっと、鍛え直さなければ。
「……また、難しい顔をしているぞ」
隣を歩いていたクロイドは困ったような表情で軽く溜息を吐く。
「……気のせいよ。お腹が空き過ぎて、限界を越えそうなの」
「汽車の中で昼食は一応、食べたじゃないか」
「それでも空くものは、空くのっ」
「はいはい……。それなら、大盛りでも頼んだらどうだ」
「あなたねぇ……。年頃の女の子が人前でそうそう大盛りなんて頼めるわけがないでしょう」
呆れたようにアイリスが肩を竦めると、クロイドは小さく噴き出した。
「大盛りが腹に入るのは確定なんだな」
「なっ……!」
からかわれていたとすぐに気付いたアイリスは右手で拳を作って、頭上へと上げる。
「ははっ……。別にアイリスが大盛りで夕食を食べていても引いたりしないぞ」
「……わざと答えさせるなんて、卑怯だわ」
右手を下ろして、頬を軽く膨らませると、クロイドはさらに声をあげて笑う。
「まぁ、いいじゃないか。今日くらいに好きに食べたらどうだ」
「えぇ、好きにそうさせてもらうわ」
そこまで言うならば、遠慮なく大盛りで夕食を頂こうじゃないか。
クロイドと顔を見合わせると彼は何かが余程面白かったのか、まだ口元が緩んでいる。
いつもなら軽く叩くところだが、彼は怪我をしているので今日くらいは大目に見てやろうとアイリスは盛大に溜息を吐いた。
笑えるのはいいことだ。クロイドの笑顔を見るのは好きなので、そこは否定しない。
……私がもっと強くならないと、クロイドにだって危険が及ぶかもしれないんだから。
今はいつか本物の魔犬に打ち勝つために、その日を目指して二人で少しずつ進むしかない。クロイドの笑う横顔を眺めながら、アイリスは静かに決意を固くしていた。
二幻鏡編 完




