温度
着替え終わったアイリスは、クロイドが作った朝食を食べ終えた後に荷物を整理した。
さっそく様子見と帰りの挨拶をするために村長の家に行こうとしていると、ルオンが声をかけてくる。
「アイリス、もう身体の調子はいいのか?」
「えぇ、おかげさまで。知らないうちにお世話になっていたみたいね。部屋を貸してくれてありがとう」
「もう少し、休んでから出ればいいのに。クロイドもまだ本調子じゃないだろう」
「それ程、激しい動きはしないから大丈夫だ。あとは村長のところに行って、本部に帰るだけだし」
回収するはずだった魔具はアイリスが壊してしまった。ジュモリオンの死体はルオンが浄化の炎で燃やしておいてくれたらしい。持って帰るものは何もなくなってしまった状態である。
「……悪いな。うちの奴ら、お前らに恩があるってのに妙な矜持が許さないのか、お礼にも出て来なくて」
「そういえば……。支部の人達、身体は大丈夫なの?」
食堂にはいなかったので、自室にいるのだろうと思っていたが。
「おう。驚くくらいにピンピンしてるぜ。何だかんだで文句言いながら、クロイドが作ってくれた朝食もたらふく食っていたし、あれなら大丈夫だろう」
「そう、それならいいんだけれど……」
彼らが馬鹿にしていた魔具調査課に属する自分達とルオンだけで、支部の人間と村人を救ったようなものだ。恩があったとしても、そう思うのは不本意なのだろう。
「別に気にしていないから、ルオンもそんな顔しないで。……あと今回の件、凄く助かったわ。ありがとう」
「いや……それは……」
ルオンは何か言いかけて、口を閉じる。
「俺も……お前らのこと、甘く見て、悪かったよ」
「それは昨日、聞いたぞ」
クロイドが苦笑しながら、ルオンに手を差し出す。
「ルオンのおかげで、俺もアイリスも助かった。……本当にありがとう」
ルオンは一瞬、目を丸くし、そして軽く頷いてから、クロイドの手を取った。握手する二人を見て、アイリスは小さく笑う。
「いつ、本部の方に戻るか分からないが、その時は二人を訪ねに行くよ」
ルオンは次にアイリスに手を差し出してくる。それを軽く手に取り、アイリスは頷いた。
「それなら、美味しいアップルパイの店に連れて行ってあげるわ」
「そいつは楽しみだ。……今回のような事が今後も起きないためにも、結界の強度や性質についてもう少し勉強し直そうと思っている。次に会う時までに、無敵の結界魔法を生み出してみせるぜ」
そう言って笑うルオンの表情は、自信に満ち溢れたものだった。
「それじゃあ、俺は今回の報告書を書かなくちゃいけないから、見送りは出来ないけど、気を付けて帰れよ」
「あぁ、支部の方にも毎週提出の報告書があるものね」
「そうなんだよ。よりによって今日の夕方の便までに提出しなきゃいけないからさ」
情けなく声を上げるルオンを見て、アイリス達は小さく声を立てて笑った。
「……じゃあ、またな」
「ありがとう、ルオン。またね」
次はいつ会えるか分からないのにルオンは惜しむことなく、二人に向けて笑顔で手を振って見送ってくれた。
ルオンに背を向けて、二人は横に並びながら歩き出す。
その歩みはお互いの体調を気にしているのか、いつもよりもゆっくりだ。
「……クロイド」
「何だ」
話しかけたはいいが続きをどう話せばいいのか分からなくなってしまい、アイリスはつい黙り込んでしまう。
口を閉ざしていると、クロイドが小さく笑った気配がした。
「まぁ、言いたくなった時に聞くよ。それまで、ゆっくり待っているから」
「……うん」
まるで心の内を分かっていると言っているようだった。アイリスは静かに頷き、クロイドの背中を眺めていた瞳を一度、閉じた。
村長の家に行くと昨日、村長達が倒れていたことが嘘のように思えるほど、彼らは元気に見えた。
「いやぁ、今回のことは本当に助かりました。……まさか、鏡の魔具にあのような魔物が潜んでいたとは知らず……。うちのマティにはしっかりとお説教しておきましたよ」
そう言って、ハディは大げさに見えるほどに肩を竦める。
彼の後ろに隠れるように立っているマティは自分が無意識にジュモリオンに手を貸し、封印を解いてしまったことを理解しているのか、泣き腫らした表情で唇を噛み締めていた。
「……お身体の方はもう、大丈夫ですか?」
「えぇ、おかげ様で。……まぁ、昨日のことはマティだけではなく、我々にも落ち度はありますから。もっと自分達の村や言い伝え、倉庫、そして魔法に強く関心を持っていればこのような事にはならなかったと思います」
ハディは頭を掻きながら、小さく唸っている。
「どうやら、我々は支部のルオン達の魔法に頼り切っていたようです。この村は首都から遠く、教団から最も遠い地にある。それは人が最も足を運びにくい場所にあるということ」
「……」
つまり、いざという時に救援が到着するのは遅いと言いたいのだろう。
「ルオン達は二度とこのような事が起きないためにも結界の強化を目指すと言ってくれましたが……彼らに命の危険が迫った時、戦える者は他にいないと、改めて自覚したのです」
ハディの口調は穏やかだった。だが、言葉の一つ一つは震えているようにも思える。
下手をしたら、彼らもその命がなかった可能性だってあったのだ。
「……なので、教団の方に認められるかは分かりませんが、自分の身を守れるくらいの魔法を習得してもいいか要望を出してみようと思います」
「それは……」
この村の人達は魔力を持っていても魔法は普段から使ったりしないと聞いている。
「魔法と魔具を使うには様々な資格が必要だと聞いています。その辺りを村人達と共に教団側と相談しつつ、決めていきたいと思っています」
「……分かりました。私達の方からもブレア課長にそのようにお伝えしておきます」
「えぇ、宜しくお願いします」
ハディの話が終わったと判断したのか、マティがハディの背中から飛び出すように前へと出て来た。
「あの……」
「どうしたの、マティ?」
「あのね……。僕の……僕のせいで、皆を怖い目に合わせて、ごめんなさい……っ」
そう言って、彼は頭が膝につきそうな程、深く下げた。
「僕の我儘で、皆をあんな……怖い目に合わせてしまった……」
ぽろぽろと泣き腫らした瞳からはさらに涙が零れ落ちていく。
「ごめんなさいっ……。本当に、ごめんなさいっ……」
「マティ……」
アイリスとクロイドは顔を見合わせる。
「……大丈夫よ、マティ。ほら、皆、生きているじゃない」
過ぎたこととは言え、彼は自分で許されないことをしたと分かっているのだ。だから、何度も謝り続けるのだろう。
「でも……」
「……ねぇ、マティにはどんな風に怖いものがその目に映っていたの?」
アイリスはマティの視線に合わせるように膝を少し折る。
「……本に出てくる、とても怖い怪物。角と牙が鋭くて、悪い奴で……人を食べちゃうんだ。絵で見た通りの奴が僕の部屋にいたんだ。気付いたら、そいつが目の前にいて、僕は……」
ジュモリオンの幻影に、負けてしまったのだろう。
「でも、それは幻。偽物よ。現実にはいない怪物なの」
「……うん」
「だから、きっと今後はマティの前には出てこないわ。……もう、大丈夫なの」
アイリスはそっと頭を撫でる。マティはそれでも納得が出来ないのか、首を横に振った。
「……マティは、自分のことが許せないの?」
「だって、僕が約束を破ったから、あの魔物は出て来たんでしょう? それなら、悪いのは僕だもの」
「あの魔物がマティの心を操っていたとしても?」
「……うん」
マティは思っているよりも余程、頑固らしい。アイリスがちらりとハディの方を見ると彼も苦笑していた。
「……それじゃあ、一つ、私と約束しない?」
「約束?」
「そう。……もし、次に怖いことがあっても、あなたがその怖いものに負けないくらいに、たくさん強くなるの」
「僕が?」
「えぇ。怖いものがあっても、自分の方が強いなら、怖くないでしょう? あなたが自分のせいで皆を怖い目に合わせたって思うなら、今度はあなたが皆を怖い目から守ってあげるの」
「……僕に、できるのかな」
「きっと、出来るわ。……実はね、昨日の魔物、本当は私達も怖かったの」
アイリスがこっそりと秘密を打ち明けるように言うと、マティは驚いたのか瞳を大きく見開いた。
「魔法が使えるのに、怖いの?」
「魔法が使えても、怖いものは怖いのよ。……でも、それよりも怖いと思えるものに気付いたら、少しだけ怖くなくなったの」
「……それよりも、怖いものって、何?」
「そうね……。例えばだけれど、マティにとって、大好きな人や大切な人が目の前からいなくなっちゃうこと、かな」
「……」
マティは眉をきゅっと寄せて、黙った。
「そう思えたら……。何としてでも、自分が怖いと思っているものに勝たなくちゃって思えたの」
視線だけクロイドの方に向けると彼は穏やかな笑みを浮かべて、軽く頷いてくれた。
「……僕はまだ、弱虫で……怖がりだけれど……。お姉ちゃん達やルオン兄ちゃん達みたいに強く、なれるかなぁ……」
「大丈夫よ。皆、最初は出来ないところから始まっているのよ? マティだって頑張れば、強くなれるわ」
アイリスがそう言うと彼はやっと、少しだけ顔を上げてくれた。
「……分かった。僕、頑張る。頑張って、魔法を勉強して……そして、この村を守れるくらいに強くなる!」
彼の表情は太陽の光が差し込んだように眩しく、そして力強かった。マティの力強いこの決意はきっと叶うだろうと、アイリスは確信を感じていた。
「それじゃあ、約束ね」
アイリスは笑って、右手の小指を彼に差し出す。マティは嬉しそうに笑って、小さな小指をアイリスの小指と絡めた。
「うん、約束!」
孫がやっと元気になったことに安堵したのか、ハディもどこか安堵したように笑っていた。
アイリスはすっと、真っすぐに立ち上がり、再びハディへと身体を向ける。
「それでは、私達はそろそろ出発しますので」
「助けて頂き、本当にありがとうございました。……どうか、お気をつけて」
顔を見合わせつつ、お互いに頭を下げ合う。
マティは自分達に向かって手を振ってくれたので、それに振り返してから、アイリス達は彼らに背を向けた。
最寄り駅がある町まで自分達を運ぶようにと、ルオンが荷馬車を動かしている人に頼んでおいてくれたらしいので、その待ち合わせ場所に向かって歩いた。
少しずつ村が遠くなっていく。アイリスはふっと、周りを見渡した。
農作地で桑を持って働く人達と牛が悠々と草を食む姿。晴れ渡った空と吹き抜けていく風。
長いようで短かった夜は明け、そしてまるで全てが幻だったのではと思えるほど、静か過ぎる光景だ。
「……終わったのね」
「終わったんだ」
それでも、この手にはジュモリオンの身体を貫いた感触がしっかりと残っている。あれは幻ではない。
「ねぇ、あとで医務室にちゃんと行ってくれる? 私も付いて行くから」
「……念のため、だろう? 分かったよ」
心配性だなと言わんばかりにクロイドは苦笑する。
それでも、心配なものは心配なのだ。
ルオンは応急処置だと言っていたが、治癒魔法の専門ではない。魔法だけではなく、薬もちゃんと使って治すべきだ。
「……なぁ、アイリス」
「何……?」
「俺も君に約束していいか?」
「約束?」
「……俺は絶対に君の前では死なないって、約束したいんだ」
「っ……」
アイリスは心臓が止まりそうな程に驚きつつ、立ち止まって、彼の顔を凝視する。
「君が昨日、ジュモリオンに対して行ったことを悔いているなら、その原因は俺だ。……だから、その引き金を引かせないために俺は絶対に君の前では死なない。それなら……君は君自身を恐れたりしないだろう?」
その口調はまるで、アイリスの心の内を全て知っているように聞こえた。
「……クロイドは……私が、あんな風に自制心がなくなるのは、嫌なの?」
「嫌ということじゃなくって、君が後から一人で泣くのが辛いんだ」
お見通し、ということか。
「……別に、泣いていないわ」
悍ましいものを見せてしまったことに対して、少し落ち込んだだけだ。
「アイリスは強がりだからな。いや、意地っ張りと言った方がいいのか?」
軽い口調になるクロイドを小さく睨むようにアイリスは見る。
「あなただって、強情なところがあるじゃない。似た者同士でしょ」
「そういえば、最初の頃にブレアさんから俺達は似た者同士って言われたことがあるな」
「ブレアさんってば……」
非難めいたようなアイリスの口調にクロイドは声を立てて笑った。
「……あー。今回は器物破損どころか、回収対象の魔具本体を破壊しちゃったから……怒られるだけで済むかしら……」
「その時は一緒だ」
「それも、そうね。それなら少しは怖くないかも」
クロイドが自分の方へとすっと手を伸ばす。アイリスは小さく笑ってから、そして自分の手をクロイドの手に重ねた。
荷馬車が待っている場所まで、二人は互いの温度を確認するようにしばらくの間、その手を繋いでいた。




