無慈悲
「あはははっ! ほぉら、やっぱり人間は馬鹿だ!」
それなりの傷を負ったはずなのにジュモリオンは大声で笑っている。
氷漬けになっているジュモリオンの目の前を立ちふさがるように、魔犬がいた。
いや、これは違う。恐らくジュモリオンと同じだ。魔犬ではない彼もまた、愉快そうに笑っていた。
「僕たちは二人で、一人。『幻影を分かつ者』だからね」
そう言って、氷漬けになっている一人を庇うようにもう一人のジュモリオンが笑みを浮かべる。彼の手からはクロイドの血が滴っていた。
「僕たちが使えるのが、幻だけだと思っていたの? 人間なんて、この手一本で簡単に殺せるんだよ」
「あははっ! もう一人の僕の存在に気付いてなかったなんて、本当に呆れるくらいに間抜けだよねぇ」
彼は、いや彼らは二人で同じ声を上げながら笑っていた。
しっかりと考えれば気付くことが出来たかもしれない。一度、村長の家に行った時に会っていたマティはジュモリオンだった。
そして、その後すぐに見つけた、支部の人間を襲っていたのもジュモリオンだ。
自分達が移動するよりも早く、マティに姿を変えていたジュモリオンが移動したならば、現場に向かっていた自分達を追い越していたはずだ。だが、状況はそうではなかった。
それならば、敵は一人だけではないと気付くことだって出来ていたはずだ。
それなのに、最後の最後で油断してしまった。
ルオンが傷の手当てをしようと、治癒魔法をクロイドにかけはじめている。その言葉さえも耳の奥に微かに捉えるだけで、アイリスは必死にクロイドの呼吸の音がしないか、耳を傾けていた。
アイリスは唇を震わせながら、クロイドの頬をそっと触る。整った顔は目を覚まさない。
「……」
自分自身の血の気は引いていたが、それでも頭の中は妙に冴えていた。
今、最も恐れていたことが起きてしまった。クロイドを失うということが、自分の目の前で。
それは自分を庇ったからだ。他の誰でもない、自分のせいなのだ。
だが、込み上げてくるのは奴らに対する恐怖でも、クロイドの現状に対する悲しみでも、自分に対する後悔でもない。
自分に、この感情があったということさえ、忘れていた。
それは──怒り、だった。
まるで沸騰したことにより、蓋が落ちた鍋のように、その感情は急激にアイリスの中に生まれた。
いつの間にか、すっと立ち上がっていたアイリスの表情に色はない。
「おい、アイリス……?」
クロイドに治癒魔法を施していたルオンが声をかけてきたが、それでも反応はしなかった。
自分でも驚く程に、身体は軽く、そしてそれ以外には何も考えられないくらいに心の中は空っぽだった。
風が、吹く。
アイリスの身体はふっと、一瞬でその場から煙のように消え去った。そして腰に下げられていた「戒めの聖剣」を目にも止まらぬ速さで引き抜くと、立っているジュモリオンの頭に向けて突き刺した。
「──っ!」
アイリスの攻撃はそれだけではなかった。ジュモリオンが幻影を見せる前にアイリスは攻撃を次々と繰り出す。
ジュモリオンが断末魔のような声を上げてもそれさえ無視した。
今のアイリスの心の中には何もない。感じているのは、クロイドに傷を負わせたことに対する怒りだけ。それだけがアイリスを動かしていた。
魚を捌くように頭の次は胸、腹に切り込みを入れては、彼の身体をずたずたに引き裂いていく。
「がっ……やめ……!」
「やめろぉぉぉっ!」
二人のジュモリオンが同時に叫ぶ。それでもお構いなしにアイリスは最後の一振りを振り下ろした。
「ぎゃあぁぁ!!!」
ジュモリオンの身体を半分に割る様に頭から真っすぐと短剣で線を描いた。瞬間、まるで鏡が地面に落ちて割れるような音がその場に響く。
幻を作るといっても、実体があるジュモリオンの身体からは血飛沫が噴き出し、アイリスの顔と身体を赤く染めていく。
それでもアイリスは瞬き一つせず、表情を変えることはない。
まるで単純作業を終えたように、死体となったジュモリオンをアイリスは蹴り倒した。
再び立ちふさがるように現れたアイリスを凍ったままのジュモリオンは恐ろしいものでも見るような、そんな引き攣った顔で見ていた。
初めて見る、彼の怯えた表情に何も感じないまま、アイリスは少しずつ歩を進めていく。
「やめろ……。くるな……」
ゆっくりと首を振るジュモリオンの言葉はもう、アイリスには届かない。
「君がやっているのは、人間がやる殺し方じゃないよ……!」
一歩、一歩前に進み、そしてとうとうジュモリオンに攻撃が届く範囲で立ち止まる。再確認するように短剣の柄を強く握りしめて、ゆっくりと振り上げていく。
「こんなの……。君の方が悪魔じゃないか──」
最後のジュモリオンの声は振り下ろされた短剣によって遮られる。
鈍く、何かが弾け飛ぶ音と、金属が割れた音が重なり合って聞こえた。
身体に付着する生ぬるい血さえ、気にすることなくアイリスはもう一度、一撃を与えようと短剣を構えた。
「──アイリス」
その時、後方から掠れる声が脳内に響く。
聞きたかった声に向けて、アイリスはゆっくりと身体の向きを変えた。
ルオンの腕の中で冷たくなっていたはずのクロイドが目を開けて、そこいた。アイリスはその姿を見つけて、瞳を大きく見開いていく。
自然と涙が零れ始めていた。歪んだように見えるこの視界は現実なのか、それとも自分が見たかった夢なのか、どちらだろうか。
「……もう、いい。……終わったんだ」
口から血を吐き出しているにも関わらず、彼はそれでもアイリスを気遣って、微笑んでいるようだった。
その笑顔が自分の知っているものだと気付き、アイリスはくしゃりと表情を子どものように崩した。
「……ク、ロ……」
名前を言葉に出来ないまま、アイリスはその場に短剣を落とし、そして前のめりになりながらクロイドの元へと駆け寄った。
手を広げ、そしてクロイドの頭を包み込むようにアイリスは抱きしめる。体温はまだ冷たいがそれでも呼吸はしており、身体が動いているのだと直に感じることが出来たアイリスはさらに涙をこぼす。
「……大丈夫。ちゃんと、生きているから……」
動くだけでも辛いはずなのに、クロイドは空いている方の手でアイリスの背中をそっと支えた。
生きている。生きているのだ。
失ってはいなかった。
安堵したような溜息が頭上のルオンから聞こえる。彼の治癒魔法が効いたのだ。お礼も言わなければならない。クロイドの身体の心配もしなければいけない。
そうだと分かっているのに、失ってしまっていたらという感情が溢れ出て、アイリスの涙は止まらなくなっていた。
「──ああ、もう朝か」
疲れ切った声で、ルオンがぽつりと言った。
遥か東から、山際が白んでいくのが見え始める。視界に映る景色がクロイドと共に「暁」の名を決めた時に見た光景と重なった気がした。
夜が明けた。
この時、やっとアイリスにとっての夜が明けた気がした。
ふっと力が抜けていく感覚とともに、クロイドを抱いていた手がするりと落ちる。
「アイリス?」
名前を呼ばれているはずなのに、返事は出来ない。
瞼の裏側が白み、身体に新しい熱を与えてくれる光の中で、アイリスは糸が切れたように気を失った。




