恐怖
突如、その場の空気が糸を張ったように張り詰めていく。
「はじめようか……」
ジュモリオンの表情が、少しずつ変わり始める。
「っ!」
アイリスは素早く靴の踵を三回鳴らして、地面を強く蹴った。そのまま直撃するようにジュモリオンへと突っ込み、剣を横に一閃、薙いだ。
だが、それもすぐに躱されてしまう。
「剣筋が震えているよ、お嬢さん」
「くっ……」
アイリスはすぐに後ろへと跳び、間合いを取る。
ジュモリオンの姿が揺れ、徐々にその形を変えていく。いや、厳密に言えば自分の目にそう映っているだけで、彼自身が変化しているわけではないのだ。
「……これも、幻だというのか」
クロイドが息をのみ込んだ。マティだった姿は一瞬で、先程自分達が見た魔犬へと変わっていく。
「っ……」
本当に本物なのではと疑いたくなるほど、自分の記憶そのままの魔犬だ。
「おいおい、冗談きついぜ……」
ルオンが顔を引き攣らせながら、ジュモリオンを凝視している。
「なぁ、お前らには魔犬って奴に見えているのか?」
「……ええ」
「俺には分が悪いことに自分の母親に見えているぜ」
「……それは……」
何とも戦い辛い相手だ。
「あまり怖いものとかないけど、昔から俺が悪さをしたら母親に凄い剣幕で叱られていたからさ。多分、心の中では一番怖い、ってことになっているのかもな」
冗談を話すような口調でルオンは喋っているが、その額に汗が一筋流れているのが見えた。
「……どうしたの? ほら、早くかかっておいでよ」
ジュモリオンは先程とは別の声色で話す。
魔犬の声を聴いたことはないが、このような声をしているのだろうか。思っているよりも低く、一度聴いてしまえば耳にこびり付いて取れない程に不気味な声だ。
この魔物を倒さなければ村人達は無事では済まない。それは分かっている。
それなのに、マティから魔犬の姿へと変わっただけで、どうして自分は動けなくなってしまうのか。
足が、身体が、心が、自分の全てがあの姿を恐れている。
恐怖心を持ってはいけないと分かっているのに、自分は過去の残像を目の前の幻に重ねてしまう。
「アイリス! おい!」
クロイドが叫んでいる。
負けてはいけないのに、それでもやはり怖いのだ。
あいつにやられた。家族をずたずたに引き裂かれ、喰い殺された。
目の前で父をいたぶられ、まるで濡れ雑巾のように母と小さな弟、妹を踏んでいた。
吐き気がする光景が重なっていく。家族を喰い殺した奴が目の前にいる。
仇なのに、討ち取れるくらいに強くなろうと努力してきたのに、それでも身体が動かない。
金色の目は細められ、彼は口を開けて笑っている。自分を見ている。
あぁ、次は自分の番なのか──。
「──アイリス!!」
瞬間、強く腕を掴まれ、アイリスの意識は微かに戻って来た。
「クロ……イ、ド……」
自分の瞳から次々と涙の粒が零れていくのに、拭う事さえも出来ない。
「っ……。──ルオン、少しでいい、防御結界を張ってくれ!」
アイリスの腕をしっかりと掴みつつも、クロイドはルオンの方へと身体を向ける。
「はぁっ!? ……とりあえず、了解!」
ルオンは剣を地面に突き刺し、結界の呪文を唱え始める。アイリスの耳にはそれさえも遠く聞こえた。
「アイリス。……アイリス!」
クロイドが肩を掴み、軽く揺らしてくる。
ジュモリオンに攻撃されているのか、作られたばかりの結界の内部に攻撃の音が反響している。
目の前にクロイドがいるのに、見えにくいのは何故か。
自分もこのままやられて、そしてクロイドも──。
「アイリス!!」
「っ……」
もう一度、強く心に残るように名前を呼ばれる。
そして、次の瞬間、身体が温かいもので包まれた。アイリスの剣がその場に軽やかな音を立てて転がる。
クロイドが自分を抱きしめていた。その身体も小刻みに震えている。
「……俺も怖いんだ」
耳元で優しい声が響く。強張っていたはずの身体をゆっくりと溶かすように。
「あれが幻だって、分かっているのに……。怖くて、怖くて……本当は立っているのさえ、やっとだ」
背中に回された手が、まるで自分を支えてくれているように温かい。
「あの時の恐怖は、決して拭えない。でもな……」
抱き締められた腕がそっと解かれ、優しく、そして悲しみが含まれた瞳が目の前にあった。
「それよりも、怖いのは……アイリス、君を失うことなんだ」
彼の表情は悲しみで満ちている。その瞳に映る自分も、同じような顔をしていた。
「だからこそ、俺はあんな奴に負ける気なんてないんだ」
そう言って少しだけ笑ったクロイドの表情はアイリスを励まそうと無理しているようだった。
「君は、俺を失うのは怖いと思うか?」
「……思うわ」
少し足に力が戻って来た気がする。その時、やっと真っすぐにクロイドの瞳を見る事が出来た気がした。
「俺も同じだ。失いたくないから……怖くても立てるんだ」
自分だって、クロイドを失うなど想像はしたくない。この人がいなければ、と思えるのは自分も同じなのだ。
……あぁ、そうか。
そこでアイリスはやっと気付く。
今の自分は過去の恐怖にとらわれているだけだ。自分が持っている、この先の未来に対する恐怖ではない。
「なぁ、アイリス。力が強くなっても心が弱いと思うのなら、俺が君の傍にいるから……。……だから、一人じゃないということを忘れないでくれ」
過去の恐怖に抗うためではなく、未来をともに歩くことを約束した、目の前にいる大事な人のために。
そのために奮い立たせろと彼は言っているのだ。
……魔犬は怖い。だって、家族を殺した奴だもの。だけど……今の私にとって、もっとも恐ろしいと思えるのは、たった一人しかいないクロイドを失うこと。
心持ちが彼の言葉だけで変わってしまうのだから、自分は何と単純なのだろうか。
いや、きっと誰だってそうだ。誰かのために、人はいくらでも強くなろうと思える。
力の入った瞳の中に光が見えたのか、クロイドはやっといつものように笑ってくれた。
「……ありがとう、クロイド」
彼がいてくれるなら、自分はもう過去を恐れたりはしない。見据えるのはこの先だけ。クロイドと共に歩む未来だけだ。
だから、そのためなら、恐怖心だって塗り替えてやろうと思った。
「……戻ったようだな」
クロイドがそっと手を放す。
「ええ。……もう、大丈夫よ」
全ての恐怖心を拭うことは出来ないだが、恐怖心よりも強く思うものを持てば、乗り越えられるはずだ。
「クロイドは……大丈夫なの?」
「正直に言えば、半分半分ってところだ。あいつは……怖いと思うが、負けたくないって気持ちもあるからな」
「……やっぱり、あなたは強い人だわ」
「そんなことないさ。……アイリスがいるおかげで、俺は強くなれるんだから」
「……」
クロイドが柔らかく笑った。それにつられるようにアイリスも笑みを見せる。
お互いにお互いを必要とし、支え合って、想い合っている。失うわけにはいかないと同じことを思っている。それが今、二人を奮い立たせている理由なのだ。
アイリスは地面に転がっていた剣を取り、強く握りしめた。




