叫び
深い、深い、どこかの底。何も見えない。自分の姿さえも確認出来なかった。いや、夢の中ならば何も見えなくてもおかしくはないのだ。
ただ、この空間が静か過ぎて少々、居心地が悪いだけで。
「……クロイド?」
夢の中なのだから、呼んでもいないはずだと分かっているのに、つい名前を呼んでしまう。
「……」
この空間は何かが、おかしい。その時、ふと頭上から声が聞こえた。
――みつけてごらん。
誰だ。何を見つけろというのだ。幼くも聞こえるその声にアイリスは思わず不快感を覚えた。
だが、次の瞬間、暗闇の光景が一瞬で消え去った。
・・・・・・・・・・・・・・
「――アイリス!」
名前を呼ばれ、肩を強く揺さぶられたアイリスははっと、目を覚ます。目の前には焦った表情のクロイドがいた。
まだ、外は暗い。電灯が点いているこの場所は自分が今夜、泊まっている部屋だ。つまり、これは現実世界だと実感してから、アイリスはばっと起き上った。
「どうしたの、クロイド」
尋常ではないクロイドの表情に何かあったのだとすぐに察した。
「強い魔力を感じた」
「何ですって? ……魔物?」
「分からない……。だが、部分的に魔力を感じるようなものじゃなくて……村全体に漂うような感じ方なんだ」
「……とりあえず、村長に伝えに行きましょう」
「ああ」
アイリス達はすぐに準備を始めた。青嵐の靴を履いて、腰の左右に純白の飛剣と戒めの聖剣を差し、魔具探知結晶を身に着ける。
何が起きるか分からないため、ちゃんと装備していった方がいいだろう。
クロイドも準備出来たようだ。お互いに頷き合い、そして扉──ではなく、窓へと手をかける。もちろん、宿屋の店主に気付かれないためだ。
手馴れたようにアイリスとクロイドは窓から飛び出し、地面へと着地する。二人は同時に村長の家へと走り始めた。
「……クロイド、他に気付くことは」
「……気配が大きすぎて、判断出来ない」
「そう……」
恐らく支部の人間なら何かに気付いているはずだ。教団の人間は魔物から村を守るために、村全体に結界を張っているらしい。その結界内で異常があれば、すぐ分かるのだという。
「……何もないといいんだけれど」
だが、嫌な予感はよく当たる。今、何時頃かははっきりと分からないが、日はまたいでいるかもしれない。
ぱっと前方を見ると、夜も深いのに村長の家から灯りが漏れていた。
「……誰か起きているのかしら?」
扉の陰に隠れつつ、そっと開いて中を覗いてみる。最初に目に入ったのは床の上に倒れている村長と息子夫婦だった。
「っ! ハディさん!」
アイリス達は扉を大きく開け放ち、中へとなだれ込むように入った。すぐにハディの傍に膝をつき、様子を見る。
「ハディさん! 大丈夫ですか?」
声に対する応答はない。身体にどこか負傷している部分があるか探したが、どこにも怪我をしているような部分は見当たらなかった。
ただ、全体的に先程見た時よりも色白に見える。まさか死んでいるのかと、首元にそっと手を当ててみた。身体はかなり冷たく感じられたが、脈はあるようだ。だが、何度肩を叩いても起きる気配はない。
息子夫婦の方の様子を見ていたクロイドも軽く頷き返してくる。どうやら彼らもハディと同じ状態のようだ。
「眠っているのか? いや、眠っているというよりも……」
「昏睡状態? 何か違うわよね……」
三人とも怪我はないが身体は恐ろしく冷たい。さすがに床の上だと寒いだろうと思い、近くにあったブランケットやタオル、上着などを彼らの身体の上へとかけてあげた。
「あっ、マティは? あの子は……」
アイリスはマティの部屋の扉を思いっきり開ける。最初に目に飛び込んだのは、部屋の端に毛布にくるまって震えているマティの姿だった。
「お……お姉ちゃん?」
「マティ! 良かった……。あなたは無事だったのね」
安堵しつつ、アイリス達はマティの目の前に腰を下ろした。
「ねぇ、一体何があったの? ハディさん達は……」
「魔物が! 魔物がやったんだ!」
マティは怯えた表情で叫んだ。
「僕、見たんだ。寝ていたら、凄い物音がして……。扉をこっそり開けたら、よく分からない魔物が……!」
そこでマティは言葉に詰まり、涙をぽろぽろと零す。
「……大丈夫、あなたの家族は死んではいないわ」
「本当?」
「ええ。理由は分からないけれど、眠っているみたいだもの」
アイリスは心配いらないと言わんばかりに穏やかに微笑み、マティの頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「とりあえず、その魔物を探してみるわ。それはどこに行ったか分かる?」
「外に出て行ったのは見たよ。……でも、どこに行ったかは……」
鼻水をすすりながら、マティはしどろもどろに答える。
「分かったわ。ありがとう。……きっと、原因を突き止めるから、それまでこの部屋でじっとしていて。絶対に、誰も部屋の中に入れては駄目よ?」
「うん……。分かった」
力強く頷くマティの頭をもう一度撫でてから、アイリスはクロイドに目配せしつつ、家の外へと出た。
・・・・・・・・・・・・・・
「……何が起きているのか、分からないわね」
「なぁ、村の人達に警告しに行った方が良くないか? このままだと、被害が増えるかもしれない」
「そうね。……でも、私達はよそ者だもの。ちゃんと聞き入れてくれるかしら」
念のために支部の団員がいる教会の方へと足を進めている時だった。
「──ぎゃあぁぁぁ!」
断末魔のような声がはっきりと前方から聞こえたのだ。アイリスとクロイドは声がした方へと瞬時に駆けだす。
しかし、目の前に何か物体が飛んできたため、アイリスは素早くそれを避けてから、飛んできたものに目をやる。
「あっ……!」
夕方、アイリス達を馬鹿にしてきた支部のアストという男だった。男は暗闇でも分かる程に蒼白の表情になって転がっていた。
「ねぇ! どうしたの! 何があったの!?」
身体を軽く叩いても、ハディ達と同じように反応はない。
「アイリス!」
クロイドが叫び、アイリスは咄嗟にその場から離れる。
先程までアイリスがいた場所には何か石のようなものが深く、地面をえぐる様に転がっていた。
「っ!」
アイリスは純白の飛剣をすぐに抜き、クロイドの横に並ぶように石が投げられた方向へと身体を向ける。
その時、さらに奥から叫び声がした。
「があぁぁっ!!」
金属音が跳ね返る音と、またもや男の叫び声。
「……多分、支部の奴らだ」
クロイドの鼻先が微妙に動いている。匂いを確かめているのだろう。
「魔物と戦っているのかしら……」
息を殺すように暗闇の中へと足を踏み入れていく。
「い、やっ……。嫌だぁぁっ……!」
泣き叫ぶような声と共に、何か重たいものが地面へと落ちる音がした。
剣を強く握りしめ、真っすぐと前を向く。
何か、いる。目の前に大きな物体がいる。雲の切れ間に月の光がその場を照らす。
一瞬だけ、その大きな影が揺らいだように見えたが次の瞬きをした瞬間、アイリスとクロイドは同時に固まった。
背筋に冷たいものと衝撃が走る。自分が今、目にしているものをすぐに現実だと信じることは難しかった。
「……う、そ……」
大きい影がこちらへと振り返った。足元には先程の男同様、剣を握ったまま白くなっている男が倒れている。
「……っ、はぁっ……」
クロイドが大きく息を吐いた。彼の呼吸も整っていないようだ。
「何、で……」
息が詰まって、上手く呼吸が出来ない。
身も心も、全てがあの日を思い出し、震えて動くことが出来なかった。
どうして、何故、あいつが、ここに。
言葉を吐くことさえもままならず、アイリスとクロイドはその影の姿を凝視する。
黒い毛並みが月によって、さらに輝く。二本足で立っているそれは、こちらを見ていた。大人よりも高い背丈は自分達を見下ろし、大きく開かれた口には鋭い牙がずらりと並んでいる。
叫びたいのに、叫べない。恐怖が心の中を覆いつくし、逃げる事さえも出来ない。額からは汗が吹き出し、瞬きさえも許されなかった。
アイリスとクロイドの目の前に立つそれが笑ったように見えた。
月よりも輝いて見える、金色の瞳。
間違いない。間違えようがない。だって、自分達はこいつに大事な人を殺されたのだから。
ずっと、覚えている。
忘れられないあの恐怖と悲しみ、そして憎しみ。
金色の瞳が自分達を見て、そっと細められる。あれは、狩りをする獣の目だ。
そこにいたのは、自分達にとって絶対的な敵でもあり唯一の仇でもある「魔犬」だった。




