思慕
今日は雨が久しぶりに降った。校内が少しじめじめとしているせいか、授業を受けている生徒も教師もどこか億劫な表情をしているように見える。
「……」
クロイドは視線を窓の外へと移した。今日はこの後、任務は控えていない。ネイビスは最後の仕上げに集中したいと思うので、今日は訪ねないでおこうと思う。
そんなことを考えているうちに、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
「──はい、じゃあここまで」
教師の声に反応するように生徒達はやっと授業が終わったと笑い合い、帰りの支度を始める。
そうか、もう授業はないのかと周りを確認してから、クロイドは教科書とノートを閉じた。
どこに寄って帰るか、何を買い食いするか、図書館で勉強しないか。そう言った平凡とも言える声が次々に行き交う。
雑音とまではいかないが聞くほどでもない言葉達が飛び交う中で、真っすぐと自分の頭へと響く声が聞こえた。
「クロイド、帰らないの?」
「え?」
思わず顔を上げると、そこには首を傾げたアイリスが後ろの席である自分の方を見つめていた。
「あ、あぁ……。すまない。少し、呆けていた」
「まぁ、この雨と眠くなりそうな授業じゃあ、そうなるわね」
そう答えたのはアイリスの隣に座っているミレットだ。もう帰り支度が終わったのか、鞄を肩に掛けている。
「それじゃあ、お先に! またね~」
颯爽とミレットはその場から立ち去る。急いでいるようにも見えたので、何かこのあとに用があるのかもしれない。
他の生徒達も帰り支度を整えて、次々と教室から出て行っている。
「もう帰る? それとも、雨足が弱くなるまで待ってみる?」
「ん……。いや、帰ろう。今日は任務が控えていないがブレアさんの書類の整理、まだ残っているんだろう? 手伝うよ」
「うっ……。よく、知っていたわね。……でも、まぁ二人の方が早いかも。お言葉に甘えようかしら」
アイリスも軽く笑って、鞄に教科書や筆記用具を詰め込み始める。だが、自分が呆けていたせいなのか、その後ろ姿に向けて、手を伸ばそうとしていたのだ。
「……」
自分でもよく分からない。何故か、アイリスに触れようとしていた。
クロイドは自身の奇妙な行動に首を傾げつつも、手を引っ込める。
時々だが、たまにこういうことがある。
アイリスが誰かと話している時、笑っている時。彼女の様々な表情や行動にさえ、強く惹かれ、傍にいない時には姿を見つけようと無意識に探してしまうのだ。
それは一体なぜなのか。
アイリスは相棒だ。これ以上の存在など無いとはっきり言えるほどに大事で、守りたい存在で、そして──約束を共に叶えたいと願う人。
だから、自分は何かを勘違いしているのかもしれない。そう、思い込むようにしていた。
考えを紛らわせるようにクロイドは教科書などを鞄の中へと詰め込んで、椅子から立ち上がる。
同じく帰り支度が整ったのか、アイリスも立ち上がった。ふとお互いの視線が重なり合い、彼女は何故か嬉しそうにはにかんだ。
──その表情さえ、愛おしく思えるのは何故か。
一緒に歩き出し、他愛無い話をしつつもアイリスの仕草、目線、言葉が気になってしまう。
自分でそう意識し始めたのはいつからだったか、もう覚えていない。いつの間にか、そうだったのだ。他の誰でもなく、アイリスだけを。
昇降口に着いた時、アイリスは一瞬だけ怪訝な表情をした。その視線の先には傘立てがあった。
「どうした?」
「え? ……ううん、何でもないわ」
そう言って、彼女は軽く何でもなさそうに笑う。自分の本当の心を押し殺して、取り繕っているのは分かっていた。
今日は朝から雨が降っていた。だから、傘を持ってきていない生徒などいるわけがないのだ。もちろん、アイリスも例外ではない。
だが、彼女は傘を置いておいたはずの傘立てには手を伸ばさない。……自分の傘がないからだ。恐らく、誰かに隠されたのだろう。
アイリスはこういった嫌がらせをたまに受けていた。ミレットの証言だと、ほとんどがアイリスのことを一方的に妬んでいる女子だという。その理由は言われなくても分かっていた。
アイリスは勉強も運動も出来るし、人付き合いだって、そこそこ上手い。それに贔屓目無しでも、世間一般的に言う美形に入る部類の容姿だ。
だが、そんな人間はどこにだっている。それなのに何故、アイリスばかりが妬まれるのか。その要因は他にも色々あるらしい。
それでもどんな嫌がらせをされても、アイリスは屈したりはしない。またかという諦めの表情をすることはあっても、相手を力でねじ伏せるなんてことはしないのだ。
クロイドは軽く溜息を吐いて、自分の傘を傘立てから抜き取った。
「……一緒に入らないか」
小さく呟いた声が聞こえていたのだろう。アイリスの表情はぱっと明るくなり、大きく頷いた。
黒い傘を開き、横に並んで中へと入る。
「ふふっ。悪いわね。一緒に傘に入れてもらっちゃって」
「いや、どうせ同じ方向に帰るからな」
雨足は先程よりも弱まったがそれでも雨の音が大きい。だが、同じ傘に入っているからか、アイリスの声が良く聞こえた。
それほど遠くはない帰り道とはいえ、こんな雨の中、傘も差さずに歩いたら、びしょ濡れになってしまうだろう。
そんなことを思っていると、アイリスが小さく噴き出した。
何事かとクロイドは少し目を丸くしてその様子を見守っていると、アイリスは軽く目元を拭い、こちらにちらりと視線を送る。
「……笑ってごめんなさい。でも、嬉しくって」
「嬉しい?」
「ええ。だって、傘を持っていないおかげで、こうやってクロイドと二人で傘に入ることが出来たんですもの」
その言葉に偽りなどはなく、ただ本当に嬉しいのだと伝えるように彼女は笑っていた。
「雨はあまり好きじゃないけれど、今日は久しぶりに感謝しないとね」
「……」
何と答えればいいのか、分からないクロイドは視線を迷わせる。
その言葉がどれほど自分を喜ばせているのか、彼女は気付いていないのだろう。
ふっと雨が小雨になり、アイリスは何かを見つけたのか、あっと短く叫んで傘の下から出ていった。
「アイリス……」
濡れるぞ、と声をかける前にアイリスは何かを指さし、こちらに満面の笑みを向けて来る。
「──見て、クロイド! 虹が出ているわ!」
そう言って指さす姿は子どものようにも見える。だが、雨の雫が髪に落ちて、きらきらと反射している姿は、思わず目を閉じることを忘れるほどに美しくも見えた。
「ほら、あっちを見て! ねぇ、見えるでしょ?」
クロイドは傘の下から窺うように空へと視線を向ける。アイリスの指さす先には、小ぶりだが虹が空に架かっていた。
虹は何度か見たことあるが、それでも今日見たものが一番綺麗だと思えるのだから、不思議なものだ。
「あぁ、本当だ。綺麗だな」
それまで降っていた雨が嘘のように止んで、辺りは爽やかな風が吹き抜ける。濡れた木々の葉が、一斉に風に揺られて雫を攫って行く。
道に作られた水たまりには、空に架かった虹が浮かんでいた。
アイリスはその光景の全てを楽しんでいるように、笑っている。
自分の視界に映っているものの全てが美しいと思えるのは、アイリスがいるからだ。
彼女がいるから、自分が映す世界にも美しいと思えるものが存在しているのだと気付いた。今までそのように感じることがなかったから、知らなかっただけだ。
クロイドは虹を見て喜ぶアイリスをどこか呆然と眺めていた。
たった今、気付いたのだ。
この光景が美しいと思えたのも、魔法を必死に覚える理由も、アイリスと一緒にいると嬉しいことも、楽しいことも。
そして何よりも彼女が大事で、傷付いて欲しくないと思う理由も。
それらの全てが意味していたのは、たった一つの気持ちからだったのだと今、気付いた。
「クロイド?」
どうしたのかとアイリスが首を傾げつつ、近づいてくる。少し濡れた顔が麗しく見える理由も、きっと同じだ。
……そうか。俺は──アイリスが好き、だったんだな。
友人や相棒、家族、尊敬する人、身近にいる人に対しての好意ではない。この胸にはっきりと生まれた想いは軽く述べていいような、中途半端なものではない。
自分は彼女が好きだ。だから、アイリスが喜べば嬉しいし、彼女が傷付けば悲しいと思う。
アイリスの瞳に映している世界を彼女が美しいと思っているから、自分も同じ世界を見たいと思う。
それらの全ての想いを何と呼ぶのか、それはきっと恋と呼ばれるものなのだろう。
焦がれる程の、この熱い想いはそういう意味だったのだ。
「大丈夫? どうかしたの?」
「……いや、何でもない。……本当に、綺麗だと思っただけだ」
アイリスに笑いかけつつ、クロイドは傘を閉じる。
「あまり、濡れると風邪を引くぞ」
ハンカチを取り出し、差し出すと彼女はちょっと目を見開いて、そして穏やかな笑みを浮かべて頷き、それを手に取った。
濡れたところをハンカチで拭きつつ、アイリスはもう傘を差していないにもかかわらず、クロイドの横を歩き始める。
「ねぇ、何か甘いものを買って帰らない? きっと、その方が書類整理も効率が良くなると思うわ」
良い提案だと言わんばかりにアイリスは視線の先にある菓子店を見ながら、目を輝かせる。
「……じゃあ、俺が買うから、アイリスは後でお菓子に合う紅茶を淹れてくれないか?」
「ええ、もちろんよ!」
さらに明るい顔へと変わるアイリスにクロイドは和やかな視線を向ける。
先程よりも軽やかになった彼女の足取りに合わせながら、クロイドは結論を出した自分の想いを思い返していた。




