悲願
春は過ぎ、随分と気候的には温かいはずだが、それでも風が直接吹き抜けて来る時計台の最上階は肌寒く感じられた。
ネイビスは落下予測地点よりも少し離れた場所へと下がっていく。ここからでも月明りのおかげで地上はよく見えていた。
欄干に足をかけたクロイドは静かに目を伏せて、そしてゆっくりと開く。
真っ暗な街並みの中に、ぽつりぽつりと家の灯りが見える。それが何だか切ないくらいに綺麗に見えて、クロイドは懐かしいものを見るように口元を和らげた。
靴の踵を3回叩く。下は見ずにそのまま、一歩前へ進むように空中へと乗り出した。
身体は自然の摂理に反することなく、そのまま落下していく。
加速するように過ぎていく景色は一瞬で、冷たい風が身体中に吹き付けては抵抗する。息も上手くすることが出来ない。まるで、自分自身が風になっているようだ。
だが、魔法靴に仕込んである魔法がしっかりと発動しているのだろう。身体自体はとても軽く、もはや体重がないのではと思う程だった。
地面がだんだんと近付いてくる。このまま何もしなければ、地面と強く接触することは考えなくても分かっている。そうなれば、軽い怪我では済まないだろう。
クロイドは少し体勢を立て直し、そして足に力を入れるようにしつつ、心の中で叫んだ。
……今だ!
言葉に従うように足全体を包み込むような温かさが生じ、急降下していた身体にゆっくりと歯止めが効き始める。
微かに足の裏辺りが温かい感触がしたため、魔法はちゃんと発動しているようだ。
地面まで残り3メートルくらいまで降りてくると、身体の体勢が取りやすくなり、そのまま逆らうこともせずに地面の上へとふわりと降り立った。
「……」
身体に衝撃は全く感じず、あまりにも緩やかな着地に自分自身が一番驚いてしまう。しかも、自分の魔力は一切使っておらず、この靴の力だけで今、降り立ったのだ。
そこで一つの結論を出す。恐らくこの靴は履いている本人の意思に従っているのだ。
着地をする際は履いている本人に負担がかからないように、魔法によって抵抗が制御されているようにも感じた。
つまり、これらのことから分かるのは──。
そこで視線を感じ、クロイドは後ろを振り返る。そこには膝から崩れ落ちたネイビスがいた。
目は見開き、口も開いたままの彼の表情は何といえばいいのか分からなかった。ただ、尋常ではないのは分かる。
「ネ……ネイビスさん!? 大丈夫ですか……」
クロイドはすぐにネイビスの傍らに駆け寄る。
「どうしたんですか……」
丸くなった彼の背中は少し震えているようだった。
「跳んだ……。着地も、失敗は……なかった」
「……はい、無事です。俺の魔力は使っていないですし、靴に仕込んである魔法が発動した際、身体への負荷もありませんでした」
ネイビスの言葉は震え、一文字一文字が少しずつ吐き出る。クロイドはネイビスの肩に手を置いて、小さく笑った。
「……成功、したんですよ。……あなたが作った靴は成功したんです」
クロイドの言葉に微かに頷きつつも、彼は自分の顔を両手で覆う。
「やったのか……わしは……。あの、祖父の靴を……超えられたんだな……」
吐き出される言葉と涙は紛れもなく、彼の悲願と切望が入り混じったものだ。この靴の完成により、彼は祖父が作れなかった、誰にでも履ける靴をついに完成させることが出来たのだ。
この靴にネイビスはどれ程の思いと知識、そして技術を詰め込んだのだろうか。
だが、そのような事、直接訊ねなくても分かっていた。彼のこの嬉し涙が何よりの証拠なのだから。
・・・・・・・・・・・・・
「いや、すまないね。こんな歳にもなって、まさか涙が出てくるなど思っていなかったよ」
ネイビスは目元をハンカチで拭いつつ、立ち上がった。
「クロイド君」
真っ直ぐと向けられる視線は、とても晴れやかなものだった。
「ありがとう、君の協力のおかげで、念願の靴はついに完成した。本当に……ありがとう」
そう言ってネイビスはクロイドの手を取り、強く握手する。
「いえ、こちらこそ……。これほど、素晴らしい靴を作って下さり、ありがとうございました。……安心して、彼女にも靴を履いて貰えます」
クロイドは試作品の靴を脱ぎ、元々履いていた靴へと履き替える。紙袋に試作品の靴を入れて、ネイビスへと手渡した。
「うむ……。さて、わしはこのまま家に帰って、最後の一仕事をやろう。恐らく、明日……いや、明後日の夕方には完成するはずじゃ。そのくらいの時間帯に受け取りに来てくれ」
「はい。分かりました」
最後の仕上げなのだろう。だが、これで自分の手伝いは終わったと言える。クロイドはロディアート時計台を何となく眺めながら、ほっと息を吐いていた。
ネイビスを彼の家まで送ろうと一緒に歩いていたが、帰り際に彼は言った。
「おお、そうだった。クロイド君、この靴の名前を考えてくれないか」
「え? 俺が……ですか?」
「うむ。疾風の靴という名前があるように、わしらは自分の手で作ったものには名前を付ける。……まぁ、一応、魔具という扱いだからな。魔具には名前がないと、取り扱いにくいだろう?」
「それは……そうですけれど、俺が名前を付けてもいいんですか?」
「君だからこそ、付けて欲しいのじゃ。……疾風さえも吹き飛ばす、そんな名前を」
「……」
クロイドは口元に手を当てて思案する。
「すみません、時間を頂いてもいいですか? 明後日までに考えてきますので」
「美しい名前を期待しているぞ。ゆっくり考えてきてくれ」
それではお休みと言って、ネイビスは家の中へと入っていった。
クロイドも頭を下げて、夜の道を歩き始める。
「名前か……」
ぽつりと漏らした呟きは夜の闇へと溶けていった。




