感情
夕方よりも少しだけ早い時間、ロディアート時計台がある公園には多くの人がいた。今日が世間でいう休日に被っているため人が多いようだ。この分だと時計台にも多くの人が上っているだろう。
人が少なくなった時を見計らって、地下の秘密通路を通るしかなさそうだ。
最後に時計台に上ってみたいとアルティウスが言ったため、四人で上ることにした。最上階の外側に欄干が備えてある展望台には、まだ多くの人がいた。
「うっわ! 怖っ!」
最上階へと続く階段を登り切り、景色を見渡せる場所に出たというのに、レイクは欄干をがっしりと掴んだまま一歩も動こうとはしなかった。そんなレイクをユアンが面白いものを見る様な瞳でにやにやと笑いながら眺めている。
「あら? レイクってば、高所恐怖症だっけ?」
「違う! いや、この高さは誰だって怖いだろうよ!」
「そうですか? 僕は結構、高い所に上るのは好きですね」
思っていたよりも、風はそれほど強く吹いてはいないため、心地いいくらいだ。
「はぁ~。一歩くらい動きなさいよ~」
「嫌だ! 俺は絶対にここから動かねぇ!」
展望台の入口付近の欄干の手すりをがっちりと掴んで、絶対に離さないと意思表示してくるレイクにユアンは溜息まじりに肩を竦める。
レイクは口調だけは強がってはいるが、どうやら高所恐怖症らしい。
「もう、仕方ないわねぇ。……私はここでこいつを見ているから、二人だけでも景色を楽しんでくるといいわ」
「いいんですか?」
「いいの、いいの。これじゃあ、いつまで経っても動かなさそうだから」
ユアンが苦笑しながら、いってらっしゃいと手を振ってくれたため、アイリスとアルティウスはその厚意に甘えて、レイク達を置いて、景色を眺めることにした。
「わっ……ここから王宮が見える……。外から見ると、王宮の建物ってこんな感じなんだ……。思っていたよりも広いなぁ……」
王宮の外側から、王宮全体を見るのは初めてなのだろう。アルティウスの瞳は驚きと喜びで輝いて見えた。
「……凄いな。こんなにも広くて、鮮やかな程に繊細で、でも一つ一つが綺麗に見える」
アルティウスはゆっくりと視線を動かしながら、その瞳と胸に焼き付けるように熱心に眺めていた。
「アイリスさんはこの展望台には来たことあるんですか?」
「ええ、前に一度……。クロイドと一緒に来たことがあるわ」
「……そうでしたか」
アイリスがそう答えると、アルティウスは少しだけ目を細めた。しかし、その表情にどのような感情が含まれているのかは分からなかった。
縋るようにも、求めるようにも見えるその瞳は一体、何を意味しているのか──。
彼に直接、訊ねようとしたが、一瞬だけ強い風がその場を吹き抜けていく。
思わず乱れそうになる髪を手で押さえて、目を閉じた。
次に瞼を開いた時には、展望台に上っていた誰かの帽子が宙を舞っていた。
「あらら……。飛ばされちゃったわね……」
縁が広く、青いリボンのついた白い帽子はそのまま、時計台の下に広がっている芝生の上へと舞い降りていた。
「アイリスさん」
突然、真面目な声色で名前を呼ばれたため、何事だろうかとアイリスはアルティウスの方へと振り返った。
「──好きです」
本当に、予想していない言葉だった。
驚いたアイリスはそのまま固まり、目を見開く。
「……あなたが好きです。尊敬はしていますが、恐らくあなたに対するこの気持ちは恋慕の方だと思うんです」
「……突然、どうしたの」
ようやく出た言葉はそれだった。
「僕が持っていないものをあなたは持っている。アイリスさんの言葉や表情には人を動かす力があって、強くて、眩しくて、そして……どうしようもなく温かいものだと知りました」
「……」
アルティウスの背後に見える景色は夕暮れ色で、そしてその色こそが、彼の紅潮している頬を上手いこと隠しているように見えた。
「……だから、思ったんです。あなたが傍にいてくれるなら、自分はもっと頑張れるんじゃないかって」
「……」
人から、愛の告白というものをされたのは人生で初めてだった。
「僕にはあなたが必要なんです」
真剣な表情で彼は真っすぐと自分に向けて言葉を放つ。冗談などではないと、見ていればそれは分かった。
「まだ、出会って一日しか経っていないけれど、あなたが持つ、一つ一つのものに強く惹かれました。たとえ、あなたが僕を通して、違う人を見ていたとしても……僕はあなたが好きです」
知られていた。自分がアルティウスの向こう側にクロイドの面影を見ていたことを。アルティウスは知っていた上で、何も言わなかったのだ。
アルティウスに対して申し訳なさを感じたアイリスは顔を少し俯かせる。
だが、好きだと直接言われているのに、自分の胸の奥を揺らすことはなかった。
脳裏に浮かぶのは唯一人。自分が心を寄せて、心の拠り所にしているのは、たった一人だ。
「……ごめんなさい」
泣きそうな顔でアイリスは返事をする。
苦しいと思った。人からの好意を断る事が、これほどまでに胸を締め付け、苦しむものだと知らなかったのだ。
「私……好きな人がいるの」
「知っています。見ていれば分かりますから」
「……私にとっても凄く必要な人なの」
クロイドが傍にいたから、自分は以前よりもはっきりと生きる意志を持って、立っていられる。この人のためにも強くなりたいと願える。
交わしたのは願いでもあり、誓いでもある約束。
いつか必ず、一緒に約束を果たそうと誓い合った言葉が、自分を縛り、そして先へと進ませてくれるのだ。
「もちろん、お互いに命を預け合っているからかもしれないし、あの人が特別、私に優しいからかもしれない。でもね……」
胸に手を当てて、深呼吸する。言わなければならないのだ。
アルティウスは自分の返事を待っている。
「それでも、やっぱり思うの。相棒だから、彼が必要なんじゃない。それだけじゃないって。私は……きっと、あの人がいないと生きていけない。そう、思えるくらいに……私はクロイドが大切で、必要で……大好きなの」
アイリスはゆっくりとアルティウスの顔を見る。彼もどこか泣きそうな顔で笑っていた。
「それ程までにアイリスさんから想われていて、クロイドが少し羨ましいです」
その言葉は惜しむようなものではなかった。ふと、気付いた時にはアルティウスの表情は爽やか過ぎるほどの笑顔へと変わっていた。
「でも、少しだけ安心しました」
「え?」
「……クロイドの傍にはあなたがいるから。だから、きっと大丈夫ですね」
「……」
返す言葉に迷いが出るなど、初めてだった。それ程までに、彼に対してかける言葉が見つからなかったのだ。
「あなたへの想いは本物です。それだけは信じてくれますか」
「……ええ」
アイリスが答えるとアルティウスは小さく笑って、そして少しだけ表情を曇らせる。
「……自分で言うことではありませんが、僕は王子という立場ですから……人から好意を向けられることはよくあります。でも、皆が求めるのは王子という身分だけで、誰も『アルティウス』という自分を求める人はいません」
寂しげに目を少しだけ細めて、そして彼はアイリスに向けて薄く笑みを見せた。
「ですが、アイリスさんは僕が王子だと知っても、変わらずに接してくれたのが、凄く嬉しかったんです。……だからこそ、僕を『アルティウス』として見て欲しかったのかもしれません」
「……」
アルティウスの言葉に、アイリスは胸の奥が大きく脈打った。彼の言葉の言う通り、自分はアルティウスの向こう側にずっとクロイドの姿を探し続けていた。それを彼は最初から見抜いていたのだろう。
「人に求められることがどのようなことか分かっているのに、僕もいつの間にかあなたが欲しいと求めてしまっていました。……まぁ、簡単に言うと少し寂しかったんです」
彼の立場ならば、貴族の娘達がこぞって自分を王子妃に、そして未来の王妃にと押し寄せているのだろう。
常に求められている気持ちを知っているからこそ、アルティウスはどこか申し訳なさそうな瞳で自分を見つめてくるのかもしれない。
「……孤児院のスーネはあなたを慕っていたわ。それは王子としてではなく、ただ一人の人として」
言い訳にしか聞こえないかもしれない。それでも、アルティウスが孤独を感じながら生きていくことが、自分にはとても寂しく、そして悲しく思えた。
自分の心は、アルティウスが思うような心で答えることは出来ない。抱いた気持ちは、もうクロイドだけに向けられているからだ。
「あなたにもきっと、本当のあなたを好きになってくれる人が現れると思うわ。だって……あなたはとても優しくて、誠実で、聡くて、繊細だもの」
その一つ一つが重なるもう一つの人物を自分はよく知っている。
アルティウスもクロイドもやはり、似ているのだ。性格は似ているが、性格の出し方が違うだけで。
……それでも、私はクロイドが好き。
二人は似ている。姿も、性格も、心も似ている。
だが、似ているだけで同じではないのだ。
自分が強く求めて、心から好きになったのは「クロイド・ソルモンド」というただ一人だけ。彼を想う感情だけが、自分の心を埋め尽くしていた。
「クロイドとは同じ、好きにはなれないけれど……。でも、私もあなたが好きだと思えるわ」
「……ありがとうございます」
返事をするアルティウスは晴れ晴れとした顔だった。その内側に、どれほどの寂しさと悲しみを秘めているのか、自分は聞くことが出来ない。
「アイリスさん。……またいつか機会があれば、会ってくれませんか? 今度は友人の一人として。……クロイドと一緒に」
「……ええ」
どんな返事も彼が求めるものではないと分かっている。
でも、それしか自分には答えられなかった。
「今日はありがとうございました。とても貴重な経験が出来て良かったです。もし、この先の政策が上手くいったら、喜んでくださいね」
「待っているわ」
「……そろそろ、帰りましょう。クロイドも待っていると思いますし、魔具もお渡ししないと」
「そうね……」
アルティウスは彼がいつも出ることが許されない王宮が佇む方向へと、最後にすっと視線を向ける。
今度、アルティウスがこの時計台に上れるのはいつになるのかは分からない。すぐかもしれないし、一生ないかもしれない。
だからこそ、一瞬一瞬を刻んでいるのだろう。自分の身の一部とするために。
……ごめんなさい。
アルティウスの背中を見ながらもう一度、謝った。聞こえてはいないはずなのに、ふいっと彼は自分の方を振り返り、微かに笑みを浮かべる。
アイリスはそれに答えるように、薄く笑みを返した。
自分には願い、祈ることしか出来ない。いつか、アルティウスにとって大事だと思える人が現れるように、彼の願いが実現できるように。
結局は祈り、望むことしか出来ないのだ。
胸の奥に刺さるものを拭えないまま、アイリスはアルティウスの後をついていった。




