言葉
「……エリットはただ、母親としての役目を果たしただけだ」
静かに、言い聞かせるように国王は呟く。彼が母の名前を呼ぶのを聞いたのは初めてだった。
「憎むべきは魔物だ。……あの日、私は大事にしていたものを二つも失った」
大事にしていたものと彼は言った。
一つは母で、もう一つは──。
その言葉の意味に何が含まれているのか、もう自分には分かっていた。堪えていなければ、涙が出そうだった。
きっとアイリスだったら、泣いてもいいのだと言ってくれるかもしれない。それでも、今の自分はアルティウスの姿であるため、涙を流すことは出来なかった。
嫌われているとばかり思っていた、あの頃の自分に言い聞かせてやりたい。
自分はちゃんと愛されていたのだと。大切にされていたのだと、教えてやりたかった。そうすれば、最初から全てを──諦めずに済んだのに。
「……視察に行きたくても、行かせて下さらないのは、陛下が私を守りたかったからなのですね」
アルティウスは大事にされている。そう思っていたのは間違いではない。だが、それには隠された意味があった。
きっと目の前に居る彼はこれ以上、失くしたくはなかったのだ。
だから、必要以上に大切にしてしまう。ただ、守りたくて。
良かったと思わず安堵の溜息を小さく吐いてしまった。
自分は、自分達は両親に愛されていた。それを知ることが出来ただけで充分だった。
「……それもあるが……。今更、いいわけを考えても無意味か。……そうだ。たった一人になったお前を私はどうしても守らねばならなかった。それは王位を継ぐ者がお前しかいないからではない。もう、お前しか私には残されていないからだ」
残されたのは父と子。この間に、いつもどのような遣り取りがあるのかを自分は知らない。
羨ましいという感情ではなく、ただ嬉しいと感じた。この言葉をアルティウスにも伝えたかった。
そして今ならばあの日、言えなかった言葉を目の前で穏やかに瞳を細めている彼に伝えられそうな気がした。
「……さて、長話をし過ぎたな。私は自室に戻る。お前も夕食までの間、しっかりと休むと良い」
国王がゆっくりと立ち上がる。
これが最後の別れになるのかもしれないというのに、焦りや惜しむような感情は生まれなかった。
自分はもうイグノラント王国第一王子のクロディウス・ソル・フォルモンドではない。
嘆きの夜明け団、魔具調査課のクロイド・ソルモンドだ。
この先、自分の父と顔を会わせることは二度とないのだろう。
あの日、逃げた自分はまだ、ここにいる。超えるためにここに来た。
「──父上」
そう、呼んだのはいつぶりだろうか。国王が扉に手をかけて、ゆっくりと振り返る。クロイドは眼鏡を取って、父を真っすぐと見た。
泣き笑いのような顔で、精一杯に微笑む。
「ありがとうございました。……あと、……ごめんなさい」
ずっと、その一言が言えなかった。簡単なようで、簡単ではない言葉。
あの日、国王である彼から妻と王子という自分を奪った日。
自分のせいで母は死んだのに、そのことを非難されると恐れて逃げてばかりいた。
たった一言、言葉にして伝えることが出来れば、良かったのに。
その一言で、全てを背負える覚悟が出来たはずなのに。
一瞬、国王の表情は固まり、そして小さく鼻で笑った。その表情は年相応に戻ったように見えた。
「何を謝っている。今日のお前は妙な奴だな」
「ええ。今日だけなんです。……陛下も身体にはお気を付け下さい」
「分かっておる」
右手を軽く挙げつつ、扉の向こう側へと去っていく。その足音が遠くなるまで頭を下げた。
……どうか、お元気で。
名残惜しいとは思わない。それでも、少しだけ寂しさのようなものが生まれた。これからも自分は王宮とは程遠い、別の道で生きていく。クロディウスではなく、クロイドとして、生きていくのだ。
やっと一つ、乗り越えられた壁にクロイドは胸を撫でおろす。だが、その瞬間、熱いものが込み上げて来てしまい、すぐ近くにあった椅子にふらふらとしながら腰を下ろした。
「っ……」
我慢していた涙が止まることなく零れる。
これは何の感情か。何に対する涙なのだろうか。
だが、自分で問いかけるよりも心がただひたすら、先に叫んでいた。
今、堪らなくアイリスに会いたいのだと。会って、話を聞いて欲しい。
そして、待っていてくれてありがとうとお礼を言いたくなったのだ。




