対面
ふと、時間が気になって、壁際にかけられている古時計を見た。まだ、夕方の時間でもお昼の時間でもない曖昧な時間帯のままだ。
「……いつ帰って来るんだ」
ぼそりと一人で問うてみても、答える者はいない。
本を延々と読むことは嫌いではないため、待つ時間を潰すのにはちょうどいいが、もうすぐ自分の実の父親である国王がこの部屋を訪れることになっている。
もちろん、アルティウスのお見舞いとして、だが。
あまり騙すようなことはしたくないし、もしかすると自分がクロディウスだと知られてしまう可能性もある。
悶々としているうちに、部屋の扉の外側から声がかけられた。
「アルティウス王子、陛下がお見えになりました」
先程の侍女の声だ。
「……ああ」
ちゃんと返事が出来たのは奇跡に近かったかもしれない。
喉の奥から内臓でも出てきてしまいそうなほど、一気に気分が悪くなる。手は汗ばみ、背中には冷たいものが流れる。
クロイドは本をテーブルの上に置き、足に力を入れて立ち上がった。
「──入るぞ」
自分の記憶の中の声が少しだけ低くなったような、しわがれた声。扉がゆっくりと開き、その姿を見た。
金だった髪は白髪が混じり、以前よりも頬がこけているように見え、瞳の鋭さはほんの少しだけ穏やかなものになっている。
これが現国王セルディウス。
自分の、自分達の父親であり、この国の王。年はもう40代後半だと思うが顔つきは疲れているように見え、実際の年齢よりも10歳ほど老けて見えた。
国王は部屋に入ると、自分が座っていた窓際の椅子の空いている方へと座った。
控えていた侍女がティーポットとカップ、お茶菓子をテーブルの上へと用意する。どうやら、お茶の時間をここで過ごすつもりらしい。
「思っていたよりも、気分が良さそうだな」
普段のアルティウスが眼鏡をかけているかは知らないが、自分のことは紛れもなくアルティウスだと思っているらしく、国王が自分を不審に思うような様子は見受けられない。
「……ご足労頂き、ありがとうございます。休んでおりましたら、すっかり気分も良くなりました」
出来るだけアルティウスの口調で、穏やかで明るい言葉遣いになるように気を付ける。
国王に座る様に促され、クロイドは真正面へと座った。
「本を読んでいたのか。……『経済における民の思想と心理』。懐かしいな。その本は私が若い頃に出版されたものだった」
今、笑ったのだろうか。そのような気配はしなかったが、何となくそう思った。
自分の中の記憶の父親はいつも無表情か眉間に皺を寄せているかのどちらかで、あからさまに笑った顔なんて見たことが無かった。
いつも、どのような事でさえ、厳しくされていた。
勉強、剣術、馬術、行儀作法を習っている時は、それぞれの師である先生達よりも厳しかった。決して妥協はなく、完璧を求められていた。
……今、思えばその時しか会話出来ていなかったような気もするな。
誕生日の時でさえ、おめでとうという一言を告げられた覚えもない。
別に今更、何か誉め言葉や愛情が欲しいとか、そういうわけではない。
ただ、目の前にいる国王が以前、自分が知っている姿よりも幾分、小さく見えて、威厳があった雰囲気さえも弱くなったようにも見えたからだ。
「それほど前のものだったのですか」
「当時の人気書籍だった。経済学者が書いた本でな……。あの頃の国は発展途上な部分もあったからな。他の国での知識を知るために学者を呼んでは色々と議論しつつ学んだものだ」
普段のアルティウスは国王とどのような話をするのだろうか。自分には父親という像が浮かんでこない。
何の話をすればいいのかも、どのような顔をすればいいのかもさっぱり分からないのだ。
「……今日の執務は宜しいのですか」
尋ねることがそれしか浮かばなかった。
「急ぐ案件は終わったからな。お前の様子を見ようと思って少し早くに切り上げてきた」
「それは……お気遣い、ありがとうございます」
「お互いにたまに休まなければ体調を今のように崩してしまうぞ」
「ええ、そうですね。以後、気を付けます」
本当に、分からないのだ。何の話をすればいいのか。
それでも、言わなければならない言葉がある。
「……あの、陛下。このような事を聞くのは憚られるかもしれませんが、お聞きしても良いでしょうか」
「何だ」
「……夢に、見たのです。……クロディウスが生きている夢を」
自分の存在は夢のものなのだと、そう言わなければ切り出せなかった。
心臓が重く、音を出し続ける。
「陛下は、クロディウスが本当に死んでいると思われていますか」
こみ上げるのは何なのか。
悲しさでも、寂しさでもない。この苦しい思いは何なのか。
クロイドの質問に国王は一瞬だけ、目を見開いたが、やがてそれを薄く閉じた。




