呟き
「──はぁ……」
クロイドは小さく溜息を吐いて、読んでいた本を机の上へと置いた。テラス側の窓を開け放してあるため、時折吹く風が真っ白のカーテンを優雅に揺らす。
机の上にはティーポットとカップ、そして手作りのクッキーが置かれていた。カップに手を伸ばし、クロイドは紅茶を一口だけ口に含める。
「……やはり、アイリスが淹れた紅茶が一番美味いな」
だが、使われている茶葉は上等なものだとすぐに分かった。どうやら昔に培われた舌の感覚は衰えていないようだ。それでも、大事なのは上等さではないと分かっている。
壁にかけられている時計を見るとまだ10時にもなっていなかった。時間はこんなに長いものかと思わず、何度目か分からない溜息が漏れる。
だが、想像していたよりも、それほど気負わなくていいので気は楽だった。
まず、最初の難関は朝食だった。朝、具合が悪いということで寝ているであろうアルティウス、つまり自分なのだが、その様子を侍女が見に来ていた。
鍵をかけっぱなしにしておく方が逆に怪しまれるだろうと思い、鍵は開けておいた。
侍女にはアルティウスの声真似でまだ、具合はそれほど良くはないが医者が必要な程ではないため、寝ていれば良くなる、だから大事にしないで欲しいと伝えておいた。
20代後半くらいの侍女は心配しつつも朝食の量は控えめに、そして栄養があるものを持ってきてくれた。間近に来て、会話をしたが、それほど怪しまれはしなかった。
その際に部屋で静かにしていたいので人払いもお願いしておいたが、そのおかげでアルティウスが日頃、顔を合わせているであろう、政務官達とは接触せずに済んだ。
しかも侍女はよく気が利くのか、食事、薬、お茶と身の回りの世話をしてくれたついでに窓を開けて風通りを良くしてくれた。
それほど頻繁に顔を出すわけではないため、黙っていれば色々と勝手に身の回りのことをやってくれるのは助かるが、そういう生活を随分、昔に置いてきた自分には相手に嘘をついていることもあってか、何だか申し訳ない気持ちになってしまう。
具合がそれほど悪くなくて、寝ているばかりでは暇だろうということで、椅子と机を部屋で一番、日の当たるところへと移動させてくれた上に、その侍女は紅茶とお茶菓子の用意をしてくれた。
日の当たるところなら寒くもないし、動かなくて済むからと言っていた。もしかすると仮病を使っていることを気付かれているのかもしれないと、内心焦っていたが覚られなかったようだ。
「……静かだな」
一人、言葉を呟いても誰も返す人はいない。今頃、アイリス達は何をしているだろうか。
確かに人々の上に立つ者には下で支えてくれる者達がどのように日々を送り、生活を営んでいるのか知る権利はあると思う。
アルティウスも自分と同じで16歳だ。父である国王はこの年頃の際にはすでに政務を行い、各地を視察したりするなどの公務を行っていたと聞く。
だから、アルティウスが視察を許してもらえないと聞いた時、少しだけ不審に思ったのだ。
「大切にされているのか、もしくは……」
外の世界、つまり王宮の外で知ってほしくないことでもあるのか。
「……考えすぎか」
ふっと息を漏らして、読みかけの本を手に取る。
アルティウスの部屋には大きな書棚があった。そこには上から下までぎっしりと分厚い本が詰め込まれており、どれも王子としての教養に必要なものばかりだ。
彼もまた王子として一生懸命に、周囲から寄せられる期待に応えようとしているのだ。
……あいつの方が昔から「王子」らしかった。だから……。
ちゃんと外の世界を自分の目で確かめてくることは、本当は賛成だった。
かなり危険が及ぶ賭け事のようだが、これでこの国がさらに良くなる政策を考えてくれるなら、それでいい。それが国で一番上に立つ者の仕事だ。
だが──。
そこでクロイドは口を一文字に結んだ。
それは「王子」という役割をアルティウスに無理矢理に押し付けているように思えてしまうのだ。
昔から、自分には「王子」という素質はないのだと幼心に悟っていた。もしかすると、それをアルティウスは気付いていて、無理に頑張っているのではないかと思ってしまう。
そして、どうこうしているうちに自分は魔犬に呪いをかけられ、王宮から追い出された。
「逃げてばかりだな、俺は……」
呆れて、自嘲の笑みさえ浮かばない。今の自分の身の振り方には十分に満足している。だが、アルティウスはどうだろうか。
「……幸せか?」
独り言のように呟くがその相手はいない。たとえ、本人がいたとしても、そう訊ねることは何故か憚られた。
幸せではないと、答えられた時が怖くて。
こうなったのは、お前のせいだと告げられることを恐れて。
「……結局、俺は変わらず弱いままなんだな」
その呟きに対して、反論してくれる者はここにはいない。




