感化
遠い記憶に置いてきたものを引っ張り出すようにしながら、クロイドは王宮の廊下を歩いていた。
この廊下を歩くことなど、二度とないと思っていた。……王宮に再び足を踏み入れ、弟と顔を合わせる事さえも。
「……」
胸の奥に何かが詰まって上手く出てこないような、少しもどかしく苦しい感覚がする。だが、それを飲み込むようにして抑え、アルティウスの部屋を目指して歩いていた。
まだ、朝の5時を過ぎたくらいだろうか。廊下に人気は無いが、離れた場所から風に乗って温かなスープのような匂いがする。厨房で朝食を作っているのだろう。
王宮には様々な役職を持った者が働いているため、朝の準備をする者はすでに起きているようだ。
それでも王族の住居となっている周辺を掃除する使用人も、政務室で仕事をする政務官達もいない時間帯であるため、クロイドはゆっくりと重い足取りを引きずる様にしながら進めていた。
長い廊下も、絢爛な扉も、美しく整えられた庭も全てが懐かしいとは思えなかった。もう、ここには二度と来ないものだと腹を括っていたからだ。未練なんて、ないはずだ。
それなのに、罪悪感のようなものだけが心に残る。
胸に抱く靄がかかった感情さえも、誰に対してのものなのか分からなくなってきてしまいそうだ。
アイリス達は無事に王宮の外へと出ることが出来ただろうかと、ふと窓の外を見る。朝日がまだ、完全に昇ってきていないため、灯りが点けられていない廊下は薄暗い。
それでも夜目が利く自分には関係ないことだ。
「はぁ……」
歩き疲れたわけではないのに、思わず深い溜息が漏れる。覚えている廊下を進み、そしてアルティウスの部屋へと辿り着いてしまう。
すっと、目線をアルティウスの部屋の扉から隣の部屋へと移す。隣は自分の部屋だった場所だ。
「クロディウス第一王子」がいなくなった現在も誰かが出入りしているのだろうか。それとも、封鎖されているのかはここから見ただけでは分からない。
それでも、部屋の扉を開けてしまえばあの時の光景がはっきりと浮かんできてしまうと分かっていた。
「っ……」
息苦しくなった胸を抑えて、クロイドは深呼吸する。胸に手を当てているとそこに固い物が当たった。
「……」
暗くても分かる程に美しい色の石。
その石の色を見て、とある瞳の色と重ねていく。
「……アイリス」
先程、別れ際に何故かアイリスに引き留められたのだ。その表情は何か言いたげで、でも伝えてはいけないと我慢しているようにも見えた。
だからだろうか、アイリスはこの石を彼女の手の中に入れて、祈る様に何かを願っていた。
その姿が何だか、自分にとっては特別なもののように見えて、そう思った自分自身に驚いてしまった。
確かにアイリスのことは特別だ。
それは相棒だからという理由もあるが、ここ最近ではそれ以外にも彼女に対して違う感情を抱いてしまっているような気がしてならないのだ。
──大丈夫……。私も一緒に止まって、待っているから。
そう言って笑ってくれた。同情などではない。同じ場所に一緒に止まって、進むことを手伝うと言ってくれた。
アイリスと出会ってから彼女の言葉、表情、行動、感情、全てに動かされてきた。いや、感化されてしまったと言った方がいいだろう。
いつでも真っすぐで諦めが悪く、頑固者。それでいて、優しく、気遣いが出来る。
それはきっと、彼女の経験の全てが今のアイリスを作っているのだ。
アイリスに同情しているわけではない。一緒に乗り越えようと言ってくれたその言葉が自分にとって、どれ程、希望あるものだったのか、彼女は知らないはずだ。
彼女の全てが自分にとって支えになるのだ。
「……それだけで十分だ」
深呼吸して、アルティウスの部屋の鍵を取り出す。鍵の先を鍵穴に入れて、確かめるようにゆっくりと左へ回す。金属の擦れた音が静かに響き、クロイドは扉の取っ手に手をかけた。
この冷たい感触は何となくだが、覚えている。静かに扉を開けて、部屋の中へと入ってから、内側から鍵を閉めた。
カーテンは開けられていたため、外の景色が丸見えだった。もうすぐ、朝日によってこの部屋は明るく照らされるのだろう。
クロイドは窓際へと近づき、そのまま窓を開ける。少しだけ冷たい空気が身体の横をすっと抜けていった。
「……」
もう、街中へと入っただろうか。
見えない場所を凝らすように見つめながら、クロイドは唇を噛み締め、目を細めていた。




