お祈りはありがとう。
三話を更新しました。
「おはようございます、ネリア様」
私は、遠くから聞こえるそんな声で目が覚めました。
ここは…?
見慣れない天井と、身体が沈み込んでいるふかふかのお布団。あまりにふかふかで、飛び起きるのには失敗してしまいました。何もしなくても、お尻がずぶずぶ埋もれてしまいます。
あわてて周りを見回して、それからやっと、旦那様とレイドさんのお顔を思い出しました。
そうです。私は、はくしゃく様のお家に引き取られたのです。
「おはようございます、ネリア様」
扉の向こう側から、さっきと同じ声が聞こえてきます。
「は、はひ! …おはようござい、ます」
「朝の身支度と、お湯浴みをいたします。開けてもよろしいですか?」
「はい…」
声が裏返ってしまったのは、内緒です。起きたばかりでお口がうまく動かないだけであって、決してびっくりしたわけではありません。びっくりは、昨日だけで十分です。
静かに扉を開けてお部屋の中で深々とお辞儀をしたのは、黒いお洋服にエプロンをつけた女の人でした。
きゅっと丸めたおだんご頭には、見覚えがあります。こっちを向いたお顔も見たので、間違いありません。昨日は、広間の入り口に立っていた人です。
「昨日、広間のところにいた人ですか?」
お布団を畳んでくれるその人に聞いてみると、ちょっとびっくりしたようなお顔をされました。
…これで、間違っていたら朝から恥ずかしい思いをしてしまいます。もうちょっと確認してからにしておけば良かったでしょうか。
「はい、わたくしは昨晩は、広間で待機をさせていただいておりました。…よく、覚えていらっしゃいましたね…?」
どうやら、失礼な勘違いはしていなかったようです。
それにしても、このめいどさんはびっくりしすぎではないでしょうか。私だって伊達にお客様を相手に働いていたわけではありませんし、そうでなくても、人のお顔くらいは覚えられます。もう小さな子供ではないのですから。
そのことをめいどさんに伝えると、もう一度びっくり顔をされてしまいました。
「ええと、ネリア様はまだ……いえ、でも……お年頃、なのでしょうか…でも…」
お布団をきれいに畳んでくれためいどさんは、私の手を取ってベッドから降ろしてくれますが、なんだかぶつぶつ呟いています。
「えと、何か、困ってるんですか?」
「あ、いえ、そういうわけでは…」
「そうなの? じゃああのね、私、めいどさんのお名前が知りたいです。私は、ネリア=コタール」
「存じております、ネリア様。…わたくしは、サラ、といいます」
「んーと、サラ、さん。起こしてくれて、お布団も畳んでくれて、どうもありがとうございました」
「いえ…!」
サラさんは、空いた手を目にも留まらぬ早さでぶんぶん振って、ほんのりほっぺを赤くしました。
お寝坊を防いでくれたお礼を言っただけなのに、私よりもずぅっと大人のサラさんがまるでかわいい女の子みたいなお顔を見せてくれて、なんだか得した気分です。私もくすくす笑ってしまいました。
それからサラさんに手を引かれて、大きな大きなお風呂場に行きました。
昨日通った廊下は、一回も通りません。思っていたより、お屋敷はずっと広いみたいです。
サラさんと同じような格好のめいどさんや、きっちりした格好の男の人はたくさん見ましたが、旦那様やレイドさんは見当たりませんでしたから。
◆◆◆
「ネリア様! お口を閉じてください、泡を食べてしまいます!」
お風呂に入っている間、何回言われたでしょうか。
お風呂があんまりに広いので、何もしなくてもぽかんとお口が開いてしまいます。
おまけにサラさんが体中泡だらけにして綺麗にしてくれるので、くすぐったくてたまらないのです。
たまらなくなって笑ってしまうたびに、サラさんが慌てたようにお湯をかけてくれました。
そうしてお風呂上がりには、サラさんもエプロンを交換しなくてはなりませんでした。私も気づかない間に、泡をたくさん飛ばしてしまったようです。
泡だらけになってしまったエプロンを脱ぎ捨てたサラさんは、まずふわふわのタオルで私の体を拭いてくれました。それからぱぱっと綺麗なお洋服を着せてくれます。
さらさらの生地がくすぐったかったけれど、今度は我慢しました。笑っても飛ぶ泡が無いと気づいたのは、お洋服を全部着せてもらってからです。
なんだか満足そうに笑ったサラさんが、私を大きな鏡の前に連れて行ってくれます。
「ネリア様、ここに座ってくださいね」
「ふお、ふわぁぁ…!」
鏡の中のサラさんの前には、見たことも無いくらいに可愛い服を着た、黒髪の女の子――私が、大きな口を開けて写っていました。
「あの、このお洋服、その、」
「ふふ、よくお似合いですよ、ネリア様。髪を乾かしますので、こちらに」
慣れないお洋服にあわあわしている私を、サラさんは優しく笑って椅子に座らせてくれました。変に感動してしまった私は、そんな優しいサラさんが褒めてくれるならと、もう一度お洋服をよく見てみました。
膝くらいの長さの、ふりふりが可愛い白いワンピース。ふくらんだレースが前にも後ろにもたっぷりで、絵本に出てくる妖精さんみたいです。
袖と背中についた大きな緑色のリボンは、私の瞳とおんなじ色をしていました。お母様と、同じ色です。
わざわざ緑色を合わせてくれたなら、このお洋服を準備してくれた人にお礼を言わなくてはいけません。だってこのお洋服のおかげで私は、椅子に黙って座っていられないくらい、とっても嬉しいのです。
「ネリア様、頭を揺らされては綺麗な髪の毛を拭けませんよ」
「はーい」
また、サラさんに怒られてしまいました。でも、私もサラさんも、くすくす笑っています。
笑ったままふわっとタオルを持ち上げたサラさんは、突然思い出したように真面目な顔をしました。
「わたくしのことは、サラ、と呼び捨てでお呼びください」
「え、でも…」
「そういうものなのですよ。だから、どうぞサラ、と」
「サラ…?」
「はい」
私の頭をタオルでかきまぜながら、サラさん――サラとは二つのお約束をしました。呼び捨てにしてもいいこと、丁寧な言葉遣いはしなくてもいいこと、です。
お世話係ですから、と言われても、大人の女の人を呼び捨てにしてお友達みたいに喋るのは、ちょっぴり変な感じです。ーーそれでも呼ばれたサラが嬉しそうに笑うので、きっと私もすぐに慣れるでしょう。
髪がきちんと乾くと、サラは私を連れて、もと来た廊下を戻ります。
私が寝ていたお部屋の前を通り過ぎて、今度は昨日通った廊下に出ました。
「今度はどこに行くの?」
「昨日と同じ大広間ですよ。朝食の用意がしてありますから」
なるほど、と頷くと、とたんにお腹が減ってきました。
どうやら私の体は、いつも通りに元気なようです。
昨日初めて見たばかりの広間の扉はやっぱり大きくて、私が押していたら開くまでにとっても時間がかかりそうです。
サラは慣れた様子で木の扉を押し開けて、その中に私の背中を押し込みました。
「サラは? 来ないの?」
「私はまだお仕事が残っていますので。ネリア様のお部屋を、綺麗にしておきますよ」
「うー…」
ご飯も一緒だと思っていたサラに置いて行かれて、私はちょっとむくれます。
けれども、ずっとそんなお顔でいるわけにもいかないのです。ふわっといい匂いがして、もっとお腹がすいた気がします。
そしてなにより、びっくりするくらい大きなテーブルの横では、昨日と同じ席に座った旦那様とレイドさんが、私を待っているのです。
「おはよう、ネリア」
「おはようございます、旦那様。…レイドさん、も、おはよう、ございます」
「……」
「レイド」
昨日と同じで不機嫌そうな目をしたレイドさんは、おはようをしてもぷいっとそっぽを向いてしまいます。まったく、私はちゃんとごあいさつしたというのに。
それでもちらりとレイドさんを見た旦那様に窘められて、ほんの小さな声ですが、お返事を返してくれました。
「それでは、食事にしよう」
私は飛び乗るように椅子に座って、見よう見まねで真っ白な布を襟に引っかけました。
ぴかぴか光っているみたいな、豪華な料理が食べ切れないほど並んでいます。
ふかふかのパンからはまだ湯気が出ています。スープは、とろっとしたトマト色です。サラダはお皿一杯にカラフルで、お肉はこうばしくて、それから、それから、
お料理に気を取られていた私は、こんこん、とテーブルをたたく音に顔を上げました。
見ると、正面に座ったレイドさんが指でテーブルをたたきながら、怒ったような目でこちらを見ています。
なにか、失敗したでしょうか。
きょろきょろと辺りを見回すと、じっとこっちを見つめる旦那様と、ぴたっと目が合いました。
旦那様は、私の目を見て頷くと、両手を合わせる仕草をして見せます。
目の前にいたレイドさんもおんなじ仕草をしたので、私もパチンと両手を合わせました。
二人に合わせて、目をつぶります。
旦那様は、難しい言葉を、たくさんたくさん話しました。
感謝とか、神様とか、天使様とか力だとか、分かるような分からないような、難しい言葉です。
お祈りなのだと、なんとなく思いました。
ずっと前に会ったお客様が、寝る前やお食事の時にするのだと教えてくれました。いろんなものに感謝すると、幸せになれるらしいのです。
旦那様のお祈りは、もうちょっと続きます。
難しいお祈りはちんぷんかんぷんな私は、さっきまでいろいろお手伝いをしてくれた優しいサラに、心の中でありがとうをすることにしました。