せちがらい、です。
一話、二話を更新しました。
まだまだ話が進みません。後半少し暗めになっております。
はじめに聞こえたのは、ガラガラいう車輪の音でした。
最近は出入りのお客様が多くて、私は気にも留めずに花瓶を運んでいました。なにせ、これが最後のお仕事だったのです。
お姉様がいるカウンターにお花を飾って、そうしたら今日のお仕事はおしまい。明日には、私はもう見習いの雑用係ではなくなります。お姉様に教えてもらった通りに笑って、お客様をもてなすのです。
…本当は、分かっています。たくさんお金を置いて行ったお客様と、狭いお部屋に入ったお姉様たちが何をしているのか。いつも疲れたお顔のお姉様たちが、どうして夜中に泣いているのか。
それでも私は、きっと笑ってお仕事をしようと思うのです。
お父様とお母様に売られて、行き場を無くした私を拾い上げてくれたのはお姉様達だから。大嫌いだった髪の毛を綺麗だと笑ってくれたのも、料理やお掃除を教えてくれたのも、みんなみんなお姉様達なのです。
そんな優しいお姉様達が、頑張って笑っているのです。私も頑張らなくちゃいけません。
明日。六歳になった私は、きっと笑って、新しいお仕事をしているのでしょう。
お姉様達におやすみをして、きしきしいう階段に足を掛けていた私は、だから突然扉が音をたてた時に飛び上がるほど驚きました。ここに来るお客様は、みんな大抵優しく、静かに入ってきます。そうしてにこにこ笑ってまっすぐカウンターに向かうのが普通なので、聞き馴れない物音に、本当にびっくりしたのです。
両開きの扉を荒々しく開けて入ってきたのは、黒い服に黒い帽子をかぶった、真っ黒な男の人でした。
後ろがしっぽのように長く二股になった服と、ドームのように丸い帽子は何度か見たことがあります。お髭を生やした男の人や、豪華な服を着た男の人がやって来る時、決まってお隣に付いている人とおんなじです。あれはおつきのひとだよ、とお姉様が教えてくれたことがあります。
おつきのひと、はいつもお部屋には入らずに、待合室で一緒に来た人を待っています。
だからおつきのひとがカウンターに向かって、その後ろから同じような格好の人がたくさん入って来た時はまた、びっくりしてしまいました。次から次から、おつきのひとと同じような、黒ずくめの人が入って来るのです。
そうして、怖がっているみたいなお姉様達に向かって言うのです。
「よく聞け、売女ども! この土地の所有権は先程、グリナベルク伯爵が買い上げられた。とっとと汚らわしい商売を畳んで立ち去れ!」
私には、難しい言葉は分かりません。でも男の人達がお姉様達を悪く言っているのは分かりましたし、それがお姉様達や、もちろん私にとっても、何かとても都合が悪いことだというのも分かりました。
なんとかして、男の人達には帰ってもらわなくてはなりません。
すう、と息を吸い込んで、たくさん文句を用意して、私は階段の陰から飛び出しました。
ばたんと音を立てて登場した私は、けれども思ってもみなかった方向から見つめられて、迂闊にも、用意していた言葉をどこかに置き忘れてしまったようなのです。
「……ほう、」
ぽかんとしてしまった私をみて、その人はなぜか感心したように呟きました。
しっぽの服と丸い帽子の男の人達とは、まるで違う格好。分厚くて丈夫そうな臙脂色のお洋服に、ぴかぴかの靴。真っ白なシャツの襟元には、綺麗な青色の宝石が光っていました。
暗い赤色の髪が揺れて、金色の瞳がすっと細められて。
遠くでお姉様や、男の人の声がした気がしました。
けれどもゆっくりと歩みよって来るその人の、金色の瞳にじっと見つめられて、私はどうしても動くことができませんでした。…どうしてか、まぶしそうな、嬉しそうな顔で、呼ばれている気がしたのです。
やがて、私の目の前まで来たその人はそっと膝をついて、丁寧な仕草でこちらをのぞき込んで来ました。
「美しい髪のお嬢さん。お名前は?」
「…ネリア。ネリア・コタール」
答えながら、ああどうしてこの人は、こんなに不思議な目をするんだろう、と思いました。まるで、喉が渇いて仕方がない時に、偶然見つけたオアシスを見るような。教会でお祈りをしていたら、本当に天使様を見つけてしまったような。なんだか見られている方がふわふわした気持ちになってしまいます。
そうしてその人はそんな目をしたまま、私にすっと手を差し伸べてきました。
「はじめまして、ネリア。私は、君を引き取ることにしたよ」
やめて、返してと叫ぶお姉様の声が聞こえました。慌てたような、困ったような男の人の声も聞こえました。それでちょっひりハッとしてよくよく考えることができた私は、差し出された手を取ることはできませんでした。
お姉様達が、悲しそうな声を上げているのです。これから少しだけ埃っぽくなってしまった玄関を片付けて、お姉様達におやすみを言い直して、そうして明日からのお仕事に備えなくてはならないのです。
だから、あなたと一緒には行けないの。そう、言おうとしたのです。
「―連れて行け」
突然立ち上がったその人は、もうさっきのような優しい声をしていませんでした。
感情のこもらない声で放たれた言葉に、黒ずくめの男たちがさっと動き始めます。お姉様達が、また悲鳴のような声を上げました。ばたんばたんと、何度も扉が鳴りました。
止めなくちゃ、と思いました。
でも、駆け出そうとした足はひゅっと空を切りました。
いつの間にか後ろにいた黒ずくめの男の人が、太い腕で私を抱え上げていたのです。
「やだ、やだやだやだ! お姉様は!?」
手足を思い切り振り回しても、脇に入れられた腕はびくともしませんでした。
ひんやりと冷えたお外に連れ出される時、最後に聞こえたのは私の名前を呼ぶお姉様の声でした。
それから今までずっと、その声を聞くことはないままなのです。
◆◆◆
どうして、ずっと一緒にはいられないのでしょうか。つやつやぴかぴかの馬車の座席で、私はそんなことを考えていました。
最初に住んでいたのは、細い路地の奥の、小さな二階建てのお家でした。
毎日ちょっぴりお腹はすいていたけど、働き者のお父様がいて、お裁縫の得意なお母様がいました。まだ小さくて、私の後ろをよちよちとついて来るばかりの、かわいいかわいい弟がいました。
大きなベッドにぎゅうぎゅうになって眠った日々は、とても、幸せだったのです。
でもある日、おつかいから帰って来た私は、焦げ臭い匂いと真っ赤な波に出迎えられました。
お父様は、仕事着のまま膝をついて、涙を流していました。お母様は、普段と人が変わったように髪を振り乱して、近所の人に押さえ付けられながら何か叫んでいました。
―私の弟は、どこを見回しても、見つかりませんでした。
次の日夜が明けてようやく、真っ赤な波は消えました。
代わりに、真っ黒になったお家の骨と、やっぱり膝をついたままのお父様と、動物みたいな声を上げるお母様が残されていました。
私はおつかいに行った格好のまま、一度も眠っていなかったのに、ちっとも眠くありませんでした。
「お父様、」と呼んでも、お返事は返って来ませんでした。
「お母様、」と呼ぶと、「どうしたの、ハンス」と笑顔が返って来ました。
ハンスは、いつになっても帰ってこない、かわいい弟の名前です。
私と同じ、透き通った緑色をしたお母様の瞳は、霧がかかったみたいに遠くを見ていました。私は、ネリアは目の前にいたのに、です。
それからしばらくして、お父様とお母様は、見知らぬ男の人達とお食事をしました。二人が笑っていたので、私も楽しくなって笑いました。
でも気づいたら、私は一人で狭いお部屋にいたのです。
ご飯の途中で眠くなって、こっそり寝ていたはずでした。
それから、二人には一度も会っていません。
狭いお部屋から連れ出された私は、大通りに面した綺麗なお店に連れて行かれました。
そこが、お姉様達のお家でした。
ついさっきまで私の名前を呼んでくれていたお姉様達は、初めて会った時から優しい人でした。私はまだ小さいからと言ってお仕事を減らしてくれたり、こっそりお客様がくれたお菓子を分けてくれたりしました。
はじめは寂しくて毎日泣いてばかりだった私も、すぐにお姉様達と笑えるようになりました。
そうして見習いのお仕事をたくさんして、やっと明日から、お姉様達と働けるはずだったのです。
まだ早いとか、かわいそうとか言ってくれるお姉様もいました。でも私は知っていたのです。夜中にこっそりお金を数えているお姉様達が、いつかみんなで楽しく暮らせるお家を買うんだ、と話していたことを。海の見える丘の上で、お花をたくさん植えて、お庭でお茶会をしましょうと話していたことを。
その話の中には、ちゃんと私も一緒でした。
みんなのかわいい妹よ、と言ってくれました。
だから私は、お姉様達とお仕事ができるようになるのが幸せだったのです。
けれども私は、また知らない人と一緒にいます。
私を引き取る、と言った赤い髪の男の人と二人きりで、どこへ行くかも分からない馬車の中です。
うまくいかないものだなあ、と思いました。なんだか、起こってしまえばそんなに驚くようなことでもない気もします。ずっと前に、物知りのお客様が教えてくれたこともあります。世の中はころころと移り変わって、同じものは何一つとして残らないのだよ、と。
だからきっと、私のこの人生も、世の中からしたら普通なのかもしれないのです。
それに、今まで過ごして来た場所は決して明るくはなかったけど、なんだかんだで幸せだったのです。そりゃあもちろん、みんなと会えなくなるのはすごく寂しかったけれど。
きっと次もなんとかなるはず、と思えるくらいには、私は元気です。
2016/07/18 ちょこっと修正