ハートは戻らない
正直言うと恥ずかしい話、三十三歳になって初めてスタバに入った。
スターバックスコーヒー。初めて、というのは、ひとりで、という意味で、友達となら二度ほどある。だけどそのときも、注文にあわあわしてしまって、結局友達が注文してくれた。季節限定だったらしい苺のなんだか甘いやつと、普通のアイスコーヒーみたいなやつと。
スタバに限らず、わたしは飲食店にひとりで入れない。
なんだか、怖い気がするのだ、友達いないの? と思われるのが嫌とか、品物が提供されるまでの時間を持て余しそうだとか、そういう理由もないわけではないけど、基本的になんとなく、ただ苦手なのだ。
別に中学、高校とトイレには団体でないと行けない女子だったわけでもないし、社会人になってからなにか趣味を持ちたいと思って探したテニスサークルもひとりで出かけてひとりで入会した。休みの日はひとりでぶらぶら本屋に行くのが好きだったりもするし、映画館はひとりでも平気だ。そう観に行く機会はないけれど。
なぜか、飲食店だけがひとりでは行けない。
テニスサークルで仲良くなって、初めてのスタバにも連れて行ってくれた裕美なんて、ラーメン屋でも居酒屋でもひとりで出かけるというのに。居酒屋でひとりってなにすんの、と驚いて聞けば、焼き鳥チェーンの大吉で行きつけの店があって、そこは店長が女性なのでバイトも女の子が多くて、カウンターに座ってチューハイを飲みながら好きに焼き鳥を注文するという。「普通は三串でひと皿なんだけど、常連だからひと串ずつ出してくれんの。だから、いろいろ頼めていいよ」なんて彼女は言う。
わたしの友達の中で、一番綺麗なのが裕美だ。目鼻立ちがくっきりしていて、人懐こいけれど男っぽい性格をしている。保育士をしていて、子供からも保護者からも好かれているらしい、そんな彼女なのでひとりで飲食店に入ったりすると男の人から声をかけられるんじゃあ、なんて心配をしたら、かけられたらなんなの、と裕美に不思議そうな顔をされてしまった。
それで、なんとなく背中を押された気になって、これからずっとは無理でも一度くらいはひとりで飲食店に入ってみようとなぜか決意して、仕事が休みの月曜日、わたしはスタバに入ってみたのだった。
来るまでにも呪文のようにつぶやいていた、スターバックスラテをトールで、というのをレジで告げて、かなり緊張していたけれどポニーテイルの店員さんはそんなことをちっとも気付いていない様子で微笑んでくれて、それで隣のショーケースを覗く余裕が出た。ドーナツもひとつ、と目についたものをついでに注文してみた。
あちらのランプの下でお待ちください、と言われて、オレンジ色のランプを示された。それは知っているので、そそそ、と移動する。
トレイに乗せられたドーナツと、緑のロゴが入ったカップのコーヒー。うっかり砂糖を取り損ねて、またもらいに行くのも恥ずかしくてそのまま全面がガラスになっている窓際のカウンター席に座った。
背もたれの茶色い椅子を引いて、すとんと座る。ちょっとだけ長いため息が出た。脇の下に汗をかいている気がする。緊張したー、の意味の息がまた漏れる。
前面のガラス、下のところに白い花柄が入っているのが目に入った。後ろには本棚があったと認識していたけれど、本を借りてみる余裕はなかったので、ガラスに咲く記号のような花を見つめていた。
コーヒーを飲む前に、一日の仕事が終わったような疲労感を覚えてしまい、とりあえず口をつけよう、とカップを持ち上げた時だった。
ガラスの向こうに、ぼさっとした髪の、あまり着ているものに頓着しない系のおばさんが通った気がした。
「……ん?」
口に運びかけていたコーヒーを持つ手が止まる。
ショートカットが伸び過ぎたような髪、ショッキングピンクのハイネック、デニム地らしいふくらはぎの中ほどまでのスカート。十二月の頭で、そこそこあたたかな日だとはいえ上着なしで寒くないのかな、と余計なお世話で思い、その人の顔を見たときだった。
「……んん、ん?」
青っぽく肌色の悪い、むくんだような顔に、見覚えがあった。
見覚えと言うか。
似ている、というか。
同じテニスサークルだった、ふたつ上の上村沙耶子に似ている。似ている、けれど。
行儀が悪いと思いつつ、わたしはその人を凝視してしまった。ゆるキャラの描かれた黒いトートバックを持っている。なにが入っているのか、ここから見ても中がぱんぱんに詰まっていそうなのが分かる。
似ている。
沙耶子に似ている、似ている気がする、だけど彼女ではない気もする、沙耶子に会わなくなったのはテニスサークルを辞めた三十歳のときからだからもう三年ほどになるけれど、人は三年であんなに変わってしまうものだろうか。
指先でずるりと紙カップがずり落ちた。持ったままだったことに気付いて、慌ててトレイに置く。
似ているけれど、似ている気がするけれど、でも彼女は。彼女はもっと、清潔感のある人だった。
あんなダサイ服装をする人ではなかった、いつでも短めの髪をしていて、特別な美人という訳ではないけれど服装、ジャージまでにもお金をかけてきっちりしていて、テニスに来るにもばっちり化粧をしてくる人だった。
「……人違い、んんん?」
だけど、なんだかやたらと似ている気もする。
気のせいにしては似すぎている気がして、その人が通り過ぎてその背が遠くなるまで眺めてしまった。
生まれて初めてひとりで入ったスタバの大冒険、どころではなくなってしまっていた。
「沙耶子? 上村沙耶子? って、あれじゃん、泥棒じゃん!」
大吉の梅チューハイは淡いピンク色をしていて、甘くてつるつるっと飲めてしまう。四杯目のそれもあっという間に空にして、裕美が大きな声を出した。
店長さんが目を大きくして裕美を見てから、にっこり微笑む。うるさくて、とわたしが小さく頭を下げた。
月曜日の居酒屋は混み過ぎていなくて、他には仕事帰りらしいおじさん達がいるのと、ひとりで飲んでいるおばさんがいるだけだ。元々店の中は小学生が利き手の反対で書いたコの字のようなカウンターと、四人掛けのテーブル席がふたつあるだけのこじんまりした作りになっている。
「岡山くん泥棒!」
「泥棒って、ちょっと、」
「あんたなに言ってんの、あんたが盗られたんだよー? 岡山くん、あんたの彼氏だったのに! あの女が盗ってったんじゃーん!」
「でもあいつ、あの人以外にもいろいろ浮気してたもん」
「浮気は浮気じゃん、ちゃんと夏枝んとこ戻ってたじゃん!」
「声がでかいよ」
「でかいのは元々だよ!」
「……酔ってるね?」
「あたしがチューハイの四杯や五杯で酔うと思う?」
「思わない」
「でしょー?」
くひひ、と笑って裕美が、ゆずチューハイください、と店長に告げた。
岡山大吾は、わたしが付き合っていた男だった。テニスのサークルで知り合って。裕美と私と大吾が同じ歳で、サークルに入ってすぐわたし達は付き合いはじめた。恋人と別れたばかりだった大吾が、高校時代の彼氏が最後の恋人というわたしに告白してくれたのだ。
わたしは自分でいうのもなんだけど地味な顔をしていて、中肉中背だし胸も大きくないけれどなさ過ぎるわけでもなく、平凡という言葉を人の形にしたらわたしになりました、というくらいの女だ。大吾はわたしと正反対で、野球選手のなんとかに似ている、俳優のなんとかに似ている、とよく言われる、目元のすっきりとした、整った顔立ちをしていた。
テニスを始めた理由が、サッカーもソフトバレーも卓球もやりつくして大体自分のものにしたから、という鼻につくようなもので、だけどそう言うだけあって運動神経は抜群で、テニスは初心者だというのに見る間に上達してしまい、サークルの他の人と組んでそこら中の大会に出るようになってしまったような男だった。
平凡人間のわたしは運動神経も平凡、大会なんて首が折れるほど横に振って逃げるような状態なので、どうして大吾がわたしに好きだと言ってくれたのか、まったく理解できなかった。騙されているような気すらした。こつこつ貯めた貯金が目当てか、とまで考えて、裕美に頭を叩かれたくらいだ。
同じサークル内で付き合ったりすると別れたときに面倒くさいことに、と怯えるわたしを、ネガティブだと大吾と裕美が笑い飛ばして付き合うことになった。裕美にはずっと付き合っている彼氏がいたし、彼女の方が美人だよ、と大吾には言ったけれど、あいつの性格は大好きだけど付き合うとなると男らしすぎてホモの気分になる、と笑われた。
サークルでキャンプに行ったり、わたし達と裕美とで海に行ったり、なかなか楽しく日々は流れていた。大吾が職場の女の子とふたりきりでスノーボードに出かけてしまったことが判明したりしたときも、裕美がわたしの代わりに怒鳴り飛ばしてくれても彼はきょとんとした顔をして、「友達以上にも思ってないから浮気とかじゃないし、純粋にボード仲間だからこそふたりきりでも平気で行けるんじゃん」なんて言ったりしていた。
他の女の子とふたりで飲みに行ってしまったとか、野球を見に行ってしまったとか、そんなことは何度もあったけど、それを問い詰められるたびに彼は平然として、「恋人は夏枝、他は性別が違うってだけでただの友達。なんか問題ある? 俺、誰と遊びに行っても、夏枝しか彼女いないよ? 夏枝との約束が最優先だし、お前以外は女としても見てないよ?」なんて口にした。それがあまりにも不思議そうだったりきょとんとしてたり、平然としてたりして言うから、人間的に魅力のある人は友達も多くて、それは男女問わずで平々凡々なわたしとは根本からの人間関係とかその捉え方が違うんだろう、なんて思いはじめていたのだけれど。
そんなことはやっぱりなくて、当然大吾は浮気をしまくっていたのだった。
気付かないのはわたしだけで。
いや、気付いてもころっと騙されてしまうだけで。口先で言いくるめられておしまい。
大体が人好きで、誰とでも仲良くなって比較的マメで、わたしだって恋人として誕生日だとか記念日だとかイベント事だとか丁寧にやってくれて大事にしてもらっていて、そんなのが恋人の大吾だった。
浮気は芸の肥やしだっていうしなあ、なんて、別に大吾は芸人でもないのにわたしもそう思うようになっていて、でもそんな矢先に上村沙耶子にやられてしまったのだ。
赤ちゃんができた、っていうやつ。
しかも、嘘。
岡山くんのことが入ってきたときからずっと好きだったけど、こっちは年上だしすぐに夏枝ちゃんと付き合い始めちゃったし、諦めるしかないって分かってたんだけど無理で、一度だけでいいからってお願いしたけど一度だけじゃ済まなくって、夏枝ちゃんには本当に悪かったと思うんだけど、謝っても許されることじゃないけど、でも妊娠しちゃって……。みたいに。
サークルの部長に泣いて告げて、そこから副部長に話が行って、沙耶子と仲良かった子に、それからサークル中に、と話は伝わった。大吾はなんか平然としてた。開き直り、っていうより、ああそう? ってくらいの。産むんなら認知する? って感じで、沙耶子が憎らしいというより大吾のその態度に混乱して、わたしは彼と別れた。
大吾と沙耶子はすぐに付き合いはじめたらしい、わたしは知らない、サークルをそのまま辞めてしまったから。
そう。
短大を卒業して社会人になってすぐサークルに入って、三十歳でやめる九年間、ずっとわたしは彼と付き合っていたのだった。
あの九年間はいったいなんだったのか。
振り返ってみても、楽しかったことばかりだし、テニスと大吾はセットになってるしで、思い出さないわけにもいかず、そういえばあんなに長く付き合っていたのに結婚するって話だけは一回も出なかったなあ、と思うばかりだ。
「多分、上村沙耶子だと思うんだけど、」
「あの人なにしてんの?」
駅前の薬局ビルで薬剤師やってたよねえ、と裕美は続ける。駅前に四階建てのビルがあって、そこの一階から三階まで大手のドラッグストアが入っていて、そこで働いていると本人から聞いたことはある。今はどうなのか知らない。大吾のことがあってから、その店を使わなくなったので。
「今も?」
「分かんないよ、さすがにわたし、あの店行けないもん」
「夏枝が逃げることないじゃーん、って、でもそうだよねえ。あたしは職場が逆方向だから滅多に行かないしなあ」
でもすっごくなんか、と、わたしはそこで区切る。すっごくなに、と裕美が顔を寄せてくる。髪は短い方が仕事は楽だけど、長い方が園児受けはいいといって伸ばしている、肩より長い彼女の髪がさらりと香る。
「言い方悪いけど、すっごくひどくなってた」
「老けてた?」
頷く。
「太っちゃってる感じだったし、でももっとなんか、顔色も悪くて、むくんでる感じで。あの人、結構服とかお金かけてちゃんとしてる人じゃなかった? テニス終わった後も、必ず着替えて帰ってたしさ。ジャージのまんまで帰るうちらと違って」
「ジャージのまんまで、スーパーとかでアイス買って駐車場で食ってたもんねえ。あたし達、中坊か、っつうの。楽しかったけどさ。あー、そうだった、沙耶子って着替えてた、なんかすましーた顔で帰ってたよね。うんうん」
「でもなんか、今日見たのはひどかったよ? ショッキングピンクにデニムのスカートだよ、おばさんくさくてさ」
悪口って、いけない。
でも、悪口って、楽しい。
「それ、ほんとに沙耶子だった?」
「もしかしたら違うかも」
「あの人、薬学部出てんの自慢だったもんね。なんかさ、親がお見合い持ってきちゃって困る、ってしょっちゅう言ってなかった? じまーん! って感じで。でもそんなの、モテてるってんじゃないのにね」
「言ってたー」
「そんなのがそこまで落ちぶれるー?」
「分かんない、やっぱ別人だったかなー」
突き出しのキャベツをつまむ。別の小皿へと出してくれている酢味噌をつける。
「……うーん、でも悪いけど、仲が良かったわけじゃないし、なんか落ちぶれてたらザマーミロってな感じなだけだー。あたし、性格悪い?」
「裕美が性格悪いんなら、わたしも同罪」
「夏枝もザマーミロ?」
梅チューハイを飲みながら、わたしはこくこく頷く。人畜無害そうな平凡顔女だって、腹の中は黒かったりするのだぞ、と。
裕美が塩ネギ焼きの串に手を伸ばす。最近岡山くんって連絡取ってんの? と聞かれた。
「取ってるわけないじゃん」
「だよねえ。連絡先とか消してんの?」
ううん、とわたしは首を横に振る。元彼の電話番号やメールアドレスを消せない、というのではなく、単に一度入れた情報を消したりなんなりというのが面倒くさいだけだ。だから、亡くなった母方の祖母や、父方の祖父母の実家の電話番号なんていうのも未だに登録してあるままだ。
こういうところがいい加減だから、大吾のような浮気男とも長く付き合えたのかもしれない。彼と付き合っていたときにもらったものも、特には捨てていない。今日つけているシルバーのネックレスだって、大吾がくれたものだ。細くて華奢なチェーンは、すぐにうっかり切れて、もう四度も修理してもらったものだった。ひらべったくアンバランスなオープンハートのトップがついている。それも、何度も鎖が切れたわりには失くしもせずにいて、だからなんだか愛着もある。
「携帯見せてー、岡山くんの連絡先表示しといて」
「なにすんの?」
「電話かけんの」
「え!」
言われた通りにして携帯を差し出しかけると、裕美はそんなことを言うので慌てて引っ込めようとしたけれど、彼女の動きの方が一歩早かった。ひょいっ、とホワイトシルバーの電話は取り上げられて、通話ボタンを押される。
「なにすんのー」
だけど酔っ払っているから、いつもに増してどうでもいい気分が強い。わたしが軟骨の唐揚げをガリガリ噛み砕いている横で、裕美が携帯を耳に当てている。
「あっ、もしもし? 岡山くん? あっはーん、あたしだーれだ、って、なんだ、おお?」
「なに?」
茶色くカラッと揚がった軟骨唐揚げは、こりんこりんしていて衣の美味しい油がじゅわあっと口の中で広がって、レモンを絞ってあるから酸っぱいところがあるけど噛んでるうちに脂の甘みが混ざる。美味しい。すごく、美味しい。
「切れた」
「切れた?」
「出たんだけど、なんにも言わなくてさー。そのままぷちっと切れたよ、なによー」
ぶつぶつ言いながら、裕美はゆずチューハイをひとくち飲む。それからまた、かけ直したようだったけれど、再び切られたらしい。
「ぐおおおお、ムカツク、なんだあいつはあ!」
「仕事中とかじゃなくて?」
「夏枝はやさしいねえ。いい、よっしゃ、呼び出してやる」
「……はい?」
メール送っとくのよ、LINEとかやってなさそーだし。裕美はそう言って、わたしの携帯をこっちに押し付けるよう返すと、自分のを取り出してメールを打ち始めた。最初から自分ので電話もすればよかったじゃん、と言ったのに、昔の女からいきなりかかってくる電話にビビらせたいじゃーん、と笑う。そもそも、大吾がわたしの番号をまだ登録したままでいるか、分らないのに。
ここの店に来いって打っといたー、と彼女はグラスを持って、はいはい乾杯だよー、とわたしのグラスにぶつけてくる。
「なにに乾杯よ」
「えー、なんだろ」
「来ると思うわけ?」
「岡山くん? 分かんない、あたしあの人いまいち分かんないのよねえ」
週初めの月曜日で、図書館に勤めているわたしは休みだったけど明日は仕事だし、裕美は今日も明日も仕事だ。若い頃とは飲むペースも落ちてきている、はずなのに、彼女だけは変わらず、一時の閉店まで普通に飲んでたりする。もちろん、付き合わされる。
明日に響くと思いながらも、途中で帰ったりしないのは、わたしが裕美を大好きだからという理由しかないのだろう。裏表がなくて、信用できて、そして楽しい。
「でさー。保育園の駐車場なんて狭いわけよ、お帰りの決まった時間だけ混む特殊な場所だし、白線があるわけじゃないんだし。園児がドア開けたときに車のドアがぶつかった、っつーのをさー。園にわざわざ報告するのはまあいいとして、でも相手のお母さん謝ったんだってよー。それをさ、『私は小さい子がいるんでしたらスライドドアの大きな車にした方がよろしいんじゃないですか、って言って差し上げたんですけど、わざわざ修理代なんて請求しませんでしたわよ? だけれど人様の車にドアをぶつけるなんて、子供としてもしつけがねえ』とかだらっだら言いやがって、大体お前が後から駐車してきてギリギリ近くに停めたんじゃないのー? って思うわけよ、もー、厭味ったらしいあのババア! 保護者じゃないんだよー、園児のばあちゃんらしいんだよね、でもさー、もう、『おたくの園では人の車にドアをぶつけてはいけませんと指導していないんですか』って、んなピンポイントで指導するかよー、人に迷惑かけてはいけませんとは教えてるけどさー。ババア、てめえの存在のがよっぽど人様の迷惑だっつーの!」
保育園の仕事、というとなんだか微笑ましい雰囲気があるけれど、実際は小さな子に囲まれてきゃっきゃうふふではけしてなく、ストレスも溜まる忙しいものであるらしい。気苦労が多いのにみんながそう見てくんないのが一番腹立つー! と裕美は叫ぶ。
彼女の愚痴を聞いているときだった。
勢い良く店の引き戸が開けられて、玉のれんがじゃらんじゃらんと大きくぶつかって騒がしい音を立てた。
いらっしゃいませー、と店長さんがやわらかな声で言い、それにひとりの従業員の声が途中からかぶる。らっしゃいませー。
裕美はストレスの吐き出しに夢中で、わたしはそれに耳を傾けつつも入ってきた人へと他意もなく目を向けた。
真っ赤な顔をして怒っているような、大きな目のベリーショートの女の子。真っ赤なコートを着ていた。ああ、外は寒いのかなー、なんて思った。
その子が、くるりと店内を見回した後、わたしの顔を見た。ずんずんとこちらに近づいてくる。知り合いか? いや、知らない顔だと思う。
「スライド式の車は流行りだけどさー、軽だって最近はスライドドアのも多いし、そりゃ便利だろうけど、だからって園で指定できるわけないじゃんー? 車での送り迎えの方はスライドドアの車種の方のみとします、とかさー、あれー、なんの話だ、ん? なに?」
女の子がわたし達の前に立つ。店内で流れている、ポップな曲が耳に入る。
「あ? 誰?」
夏枝の知り合い? と聞く裕美の声に、女の子の声がかぶった。
「あんた?」
「はい?」
反応したのは裕美だ。どう見ても年下っぽい女の子に、疑問形の尻上がり、というより威嚇の尻上がりな声を出す。
「大ちゃんの浮気相手、あんた?」
「大ちゃんって誰よ、ああん?」
ヤンキー口調になってるよ、裕美。
「大ちゃんは大ちゃんよ、岡山大吾よ!」
赤コートのベリーショート女が大きな声を出した。店長が、すっ、と寄ってきて彼女にお絞りを渡す。
「お外寒くなかったですか? 少々お声が大きめですので、他のお客様のご迷惑になってしまいます。どうぞお掛けになってください」
やわらかににっこりと言われて、裕美がぺこりと頭を下げた。
「座れば? なに、またあの男浮気してんの? じゃああんたが今の彼女?」
「今の、って、え、なに、」
「あー、あたしは彼女やったことないよ、あの男、友達としてはまだしも彼氏にしたいとか死んでも思ったことないし。元カノはこっち」
裕美が行儀悪く人を指差すもんだから、赤コートちゃんはわたしに視線を移した。
「……元カノ、さん? え、なに、大ちゃん元カノとも繋がってんの……?」
繋がってなどいないので、わたしは首を横にブンブンと振りながら、両手も顔の前でブンブンと振った。元カノ、と彼女はまだつぶやいている。わたしの顔をまじまじと見ているけれど、目がくりっとしていて唇も形良く赤くてお化粧もばっちり決まっていて、背はそう高くないけれど十二月だというのにミニスカートからすらっと伸びた細い脚を惜しげもなく見せている彼女はまるでバンビちゃんのようで、平凡が服を着ているようなわたしが元カノだと言われると混乱するんだろう。大吾の好みの共通点がさっぱり見当たらない、くらい思っているんだろうか。
自分で平凡平凡言うのも哀しいのだけど。初対面の人に必ず、「名前は思い出せないけど、なんか昔クラスにいた人に顔が似てます」なんて言われてしまう女なので、平凡の平均値なのだ。
大ちゃんシャワー浴びてて。由果、テレビ見てたんだけど、携帯鳴って、あ、大ちゃんのだけど。大ちゃん家にいたの。テーブルに置きっぱだったし、なんか……いつも由果、こっそり見ちゃったりするけど、着信とか女の名前ないし。そんで、「宮路車整備工場」とかってとこから電話かかってきてたから、車のだろうと思って、大ちゃんの車、今車検中なのね? 由果、気ぃ利かせたつもりで、大ちゃん今お風呂だから後でかけ直しますって言おうと思って出たら、えっと? あ、そっちの人なの? 女の声するし。絶対これ浮気だー! って思って、車の修理工場の女と浮気してんだ! って腹立って、大ちゃん問い詰めようとしたらメールくるし。そんで見たら、店に来いとかってあるから、由果、もう頭かーっとなって浮気相手殺してやるって思って、来て。
赤いコートの女の子は、自分のことを由果と言う癖があるらしかった。
歳を聞けば二十三歳だという。十歳も年下の子に手を出してるんだ、と変な歓心をした。
「あんたが岡山くんの今カノってこと?」
裕美が漬物の盛り合わせを注文して、ぬか漬けのにんじんをパリパリと食べながら聞く。由果ちゃんが答える前に、わたしに向かって「岡山くんに電話してみなよ」って言う。
「え、でも大ちゃんの携帯、由果持ってきちゃったし……」
「いーからいーから。夏枝、あんた整備工場の名前で登録されてるってことでしょ?」
そういえばそうだ。いつからなんだろう。まさか付き合ってたときからなんだろうか。宮路車整備工場って、そもそもどこだ。
わたしは裕美の言うとおり、電話をかけてみた。由果ちゃんが手にしている大吾の携帯が鳴る。わたし達が付き合ってたときから変わってない、ちょっと昔にヒットしたラブソングが流れた。
「あ……宮路車整備工場」
「ほんとだ!」
画面を覗き込むと、確かにそう表示さている。
あんたいつから自動車整備してんの、勤め先の名前ですらないじゃん、と大笑いした裕美が、今度は由果ちゃんにもかけてみろと言った。
「由果が? え、なんで、」
「あんた彼女だとか言ってるけど、あんたの名前がちゃんと登録されてるかも微妙だよ?」
そんなこと、と尖った声を出して、裕美は自分の電話を取り出す。由果は本物の彼女ですう、と怒りながら電話をかけた彼女の表示は、「桐原本屋」だった。
由果ちゃんは電話を切ることもなく、ぽかんとした顔でわたし達の顔を見る。小さくて、やっと白く戻ったばかりの顔が、また真っ赤に染まった。
「あんた、桐原さん?」
裕美の言葉に、由果ちゃんが首を横に振る。
「くっはー! あいつなにふざけてんだろ、あ、電話切っていいよ。ちょっと、次あたしね、あたしかける。あたしはなんて登録されてんだろ。あ、店長、ラムネハイくださーい」
裕美はもう何杯目のチューハイだろう。トイレにも行かず、よく飲めるものだ。わたしの方も五杯ほど飲んでいるけれど、もう何度か尿意を催している。そんなくだらないことを思っている間に、酔っ払ってる様子もそうない裕美が電話をかけた。由果ちゃんとふたりで、大吾の携帯を覗き込んでいる。わたしも、顔を寄せた。
「ぎゃはー! 『カレーのパンプキン』ってなに! あたしカレーかい、って、カレーのパンプキンってどこ、存在するわけ?」
カレー屋にされてたとは、と裕美は笑い転げている。由果ちゃんは戸惑った様子で、わたしにちらちらと視線を送ってきた。
それはそうだろう。浮気相手をとっちめてやろうと息巻いて来たら、まさか自分まで偽名で携帯に登録されているという現実を突きつけられる羽目になったのだから。負ける気のない試合で負けた、というより、最初から八百長で必ず勝つと決められていた試合でなぜか負けた、くらい混乱してるんじゃないだろうか。
「……由果、どうすれば、」
「とりあえず飲んでく? そう大酒飲むんじゃなかったら、わたし達で奢るよ?」
「でも、そんな、」
さっきの勢いがまるでない。青菜に塩の、萎れ加減だ。
「……元カノさん、」
「ああ、わたしね、塩原夏枝っていうの」
塩原さん、と由果ちゃんがつぶやくから、わたしは頷く。こっちは佐々木裕美、と勝手に裕美のことも紹介すると、今更ながらに由果ちゃんは小さく頭を下げた。
大吾と付き合いはじめて、半年だと言う。こっちが九年付き合ってたと告げると、さすがに驚いた顔をしていた。
「なんで結婚しなかったんですか!」
言葉使いまで丁寧になっている、基本的には悪い子じゃないんだろう。
「わたし達が結婚してたら、由果ちゃんは大吾と付き合ってなかったでしょ」
言いながら、いや、奴なら結婚してても浮気はあるか、と思う。そういう話にならなかったからしなかっただけだ。調子が良くて浮気ばかりの女好きで、でもマメで。一緒にいて楽しいとは思う、だけど結婚相手としてはどうだろう。
そのとき、大吾の携帯がまた鳴った。いろいろと勝手にいじっていた裕美が声を上げる。
「うわっ、びっくりして思わず切っちゃった……」
「え、今度はどっからの電話だったの?」
またどこかの会社名や店名だったのなら、別の女なんだろう。そもそも七時過ぎから飲み始めて、もう十時近いのだ。こんな時間にどうしてどこそこの会社なんかから電話があったりするのだろう。自分の会社だとか取引先だとかいうならまだしも。
「分かんない、番号だけだった」
「じゃあ登録してない番号だったってことか」
「市内の局番だったけど、誰だろね。ま、あたしが出ちゃまずいでしょ、なんにせよ知らなかったってこーとーでー」
ねえ小娘、と裕美が由果ちゃんを呼ぶ。ついでに夏枝も、と。小娘、と呼ばれて由果ちゃんは戸惑っていたようだけど、大吾と十歳違うということはわたし達ともそれだけ違うということなので、小娘だろう。
「会社名とかで登録されてるやつ、アドレス帳見ると大体メルアドも入ってんだけどさ。携帯会社のドメインのばっかだよ。これ、絶対女のだよ」
「あんたまた勝手に」
「勝手ってんなら最初に小娘が携帯持ち出してるのも勝手じゃん、浮気し放題の岡山くんはさらにもっとっつーか一番勝手だし、いいのいいの」
すっかり小娘呼ばわりされている由果ちゃんはショックを受けた顔で、わたしがそっと注文した梅ハイを差し出すと、呆然としながらも飲み干した。ぼんっ、と顔を赤くする。
これはまずい、と水をもらおうとしたのに、裕美は面白がって自分がまだ口をつけていなかったラムネハイを渡してしまった。由果ちゃんは素直に受け取って、こくこくと飲みはじめる。半分くらい飲むと、可愛いバンビフェイスを歪ませた。
あ、泣く。
誰が見てもそう思うだろう顔をした途端、彼女の大きな目からやっぱりぽろぽろと涙が落ちる。
「……由果、なんか、ずっと年上の人とからしかモテなくて、なんかいっつも不倫とかになっちゃって、だから本物の恋人っていうか、独身だけど付き合えたってのが大ちゃんが初めてで、なんかだから絶対これで幸せになるって思ってたんだけど、なんか大ちゃん結構浮気するし、でも浮気でしょって聞くとただ飲みに行っただけとかボード友達なだけとか、彼女は由果しかいないとかって嘘なんかついてないって顔で言うし、でもなんか、」
「ただの女友達だったらわざわざ偽名で登録したりしないと思うけどねー。架空の会社名とかでさ。あたしなんて岡山くんに恋心の一ミリもないし、あっちもそうだろうけど、そんなあたしでさえ『カレーのパンプキン』だよ。ありゃもう病気だね」
やめなー、あの男。裕美が言う。わたしも同意で頷く。
「九年付き合っても浮気され放題で別れた女がここにいるんだからさ、幸せになんてなんないよー?」
「なによちょっと失礼な」
「……やっぱ、いっぱい泣きました?」
由果ちゃんに聞かれて、わたしは首を傾げた。さすがに九年も一緒だったから、思い出はほとんど共有していたし行きつけの店なんかも同じだったしで、だから大吾と別れてからはわたしの過去がごっそり持って行かれてしまったような喪失感はやたらと大きかった。頭が真っ白になるくらい。でもありがたいことに、裕美だとか職場の人だとか、他の友達だとかが日々の流れる時間の中で気を使ってくれたり普通にしてくれていたり、なんだかんだで過去のえぐれてしまった記憶も別の新しい記憶で埋めてくれたのだ。わたしも前を向いていたけれど。振り返ったって、大吾と別れた分岐点はどうやったって見えなかったし、なんの意味もないと思ったから。
「よし!」
裕美が立ち上がった。板の床に椅子の脚がこすれて、ガタタタタ、と音を立てる。
「あたしは天罰を下す!」
一番関係ないはずなのに、彼女は張り切った様子で、すごーく悪い顔をした。
「なにすんの」
「なに、するんですか」
わたしと由果ちゃんの声が重なる。
裕美はにやりと笑うと、携帯に登録されてる怪しいアドレスすべてに、『好きな女ができた。本気だからもうお前とは別れる。岡山大吾』とメールを送ってやるのだと楽しそうに言った。
「なにそれ、やめときなよー」
「やっちゃいましょう」
「ほら、由果ちゃんも……えっ! やっちゃうの?」
「由果、もう大ちゃんと別れます! なんか悪いけど、お姉さん達の言ってることのが正しい気がする!」
「正しいよー、あたしは正しいよー、少なくともあの男よか正しいよー」
味方を得た裕美は、嬉しそうに大吾の携帯をいじる。はい、まとめて送信、はい、編集でアドレス変更でまとめて、送信! と、本当に別れのメールを送信してしまっているらしい。四百件以上ある! なんて由果ちゃんも呆れた声でいいつつ、やっちゃってくださいー、と裕美の手元を覗き込みつつ応援している。
「……犯罪になったりすると思います?」
わたしはカウンターの向こうで焼き鳥を焼いている店長さんに声をかけた。彼女はにっこりと、「お酒の上の悪ふざけ、で仕方ないですよね。お話を聞いていますと、どうも自業自得の感じがするお人のようですし」と微笑んだ。
裕美と由果ちゃんがせっせと別れのメールを送信していると、わたしの携帯が鳴った。
見ると、大吾・家と表示されている。大吾の家電だ。
電話してくる、と聞こえているかどうかは別にしてふたりに告げて、店長さんにも、ちょっと、と電話を指し示して外に出た。
風はそうないけれど、寒い。今まであたたかな店内にいたので、余計に寒く感じた。身震いしながら、通話ボタンを押す。耳に当てて、もしもし、と言う。
街はすっかりクリスマス一色だった。十二月なので当たり前だ、もう一ヶ月も前からあちこちライトで飾りつけられている。それでも昔よりは大人しくなって気もする、斜め向かいのコンビニの前に大きなもみの木が置かれて、ぴかぴかと白と青の光を放っているのが見える。
『――あ。あー、ごめん、誰?』
耳に流れ込む、懐かしい声。そう低くなくて、ちょっと軽い感じに聞こえる、大吾の。声。
「どちら様ですか?」
分かっているけれどわざと聞く。いつもより高めに声を作った。鼻の頭が冷えたのか痛い。
『あー、あの、俺の携帯が失くなったっつーか盗まれたっつーかで、……夏?』
夏。
ああそうだ。彼はわたしをそう呼んだんだった。
『夏だよな? 俺、携帯盗まれてさ、電話したんだけど無視されてんだよ。で、他の奴の番号なんか全然分かんないし、そんでなんとなくなんか覚えてた番号が一個だけあって、そんでかけたんだけど。夏だよな?』
「お久しぶり」
『おー、久しぶりだな、元気?』
最近テニス来なくなってるしさー、なんて平気で言ってくる。いやいやいや、あなたと別れて行き辛くなって辞めたんですけど?
相変わらずだ。なんにも悪びれてない。反省の「は」の字もなさそうな。
「わたしの番号でした。へー、覚えてたんだ」
『数字だけなんか覚えてたんだよ。な、悪いけど俺の携帯に電話かけてみてくんない?』
「なんで?」
『俺がかけるとなんか切られるからさ、他の奴にかけてみてもらったらどうかなって思ったんだよ。で、繋がったら持ち主に返せって言ってやってくんない?』
「返せって言っといてあげるよ」
うん、よろしく。大吾は明るく言う。わたし、あなたの携帯を持っている人達、知ってるもの。今、ちょっと大変なことになってると思うけど。
罪悪感はなくて、むしろ笑いがこみあげてきてしまったのは、わたしの性格が悪いのと酔っているせいと、大吾へそれでも多少は恨みがあったからなのかと。
『あ、そだ』
「うん?」
『久しぶりだし、今度飯でも食いに行かない?』
「……はあ?」
この人、わたしが別れた恋人だっていう自覚があるんだろうか。
「遠慮しとく。わたしの番号、忘れといて」
『なんでだよ、昔はよく飲みにも行ったじゃん』
この人、わたしが過去の恋人だったって自覚があるかすら怪しくなってきた。
浮気に罪悪感を持たない人って、こんな感じなんだろうか。
下を向いてため息をついたら縁起が悪そうな気がして、わたしは上を見た。空はまあるい月が浮かんでいて、意外と明るかった。周りの雲がぼんやりと照らされて、輪郭がぼうっと浮いて見える。
わたしは息を吸った。
冷たい空気が肺に落ちる。
「大吾はもう、過去の人だから」
『なんだよ、ひどいこと言うじゃん』
強がりでもない色で彼が笑った。わたしは自分の首にかかっているネックレスに触れる。華奢すぎるチェーンの内側に、人差し指をかける。
「ばいばい」
ほんのわずかに力を入れただけなのに、チェーンは簡単に切れた。アスファルトの上にちゃらりと小さな小さな音を立てて、ハートのペンダントトップが落ちる。
何度失くしても、必ず戻ってきた銀のハート。
『おいー、夏ー』
今も、もう夜の暗さに紛れてしまうと思ったのに、足元から少し離れたところで落ちて見えている。
「あのね、わたし、ひとりでスタバ入ったんだよ」
『なに? スタバ?』
屈んでハートを拾い上げた。指先がアスファルトに触れて、ペンダントトップが冷たいのか道路が冷たいのかが分らなかった。両方かもしれない。
つまみ上げて、空に掲げる。人差し指と親指で挟んで、オープンハートの内側から覗く月を捕える。
「そんだけ。じゃあね、世の中の女達は全部が大吾のものっていうわけじゃないし、あんまり舐めない方がいいと思うよ。それじゃ、本当にばいばい」
なにか言いかけた大吾の声を聞くことなく、わたしは通話を終了させた。携帯をジーンズのポケットにしまう。反対の手で持っていた、何度も何度もわたしの元に返ってきた銀色のハート。
これももう、要らない。
「せっえーの!」
掛け声と共にわたしは空へとペンダントトップを放り投げた。
ハートはもう、返らない。
次に手に入れるハートは、大吾のものでない。
ペンダントトップが落ちたのか、確認もせず目でも追わず、わたしは焼鳥屋の店内に戻ろうと回れ右をする。
今の電話の話を、裕美と由果ちゃんにしようか。しないでおこうか。いや、どうせだから酒のつまみにしてしまおう。
「あっ。沙耶子のこと聞けばよかった」
スタバのことよりそっちだったよ、と、店の引き戸に手をかけながら自分に突っ込む。まあそれも、裕美に笑い飛ばしてもらおう。
大吾の携帯の方はどうなったのか、別れメールを送り終わったのかまだ最中なのか。どちらにせよ、彼はとりあえず今カノらしい由果ちゃんも失うのだ、あのダメさ加減に結局ほだされてしまう可能性もなくはないけれど。
だけど、せっかく自分の人生だから、浮気男に台無しにされたらもったいない。
「あー、外寒いよー」
玉のれんをじゃらりと鳴らして店内に入る。
バイトの子が、よろしかったらどうぞ、とあたたかいおしぼりをわざわざ持ってきてくれる。女性店長だからこういうところが細かく気を使ってくれてほんとにいいんだよー、と裕美が言ってたことを実感する。
その裕美と由果ちゃんは、なにやら和やかな顔になってまだ大吾の携帯を覗いていた。裕美が顔を上げて、熱燗でも飲むー? と笑う。
「日本酒は苦手じゃー」
答えながら、わたしは笑った。
さよなら、大吾。もう三年も前に別れてるけど。
さよなら、もうハートは、戻らない。ついでに、悪いけど由果ちゃんのハートもこちらで戻らないよう手配しておくので、よろしくお願いします。
さようなら、昔の恋人。
あんたの浮気相手も全部切れちゃいますように、一度は不幸になりやがれだ、バーカ。
「なに笑ってんの夏枝?」
裕美が不思議そうな顔をしたから、わたしは今の電話の話をしようと思い、その前に梅チューハイを注文した。
夜はまだ、長く続きそうな気がしてならない。だけど、楽しいから仕方ない。明日の寝不足は覚悟することにしよう。