僕は一体誰だ?
「質問、していいです、か?」
情けないことだが、ありえない現象に僕は心底怯えていたようで、声が震えるどころか敬語になっていた。
「ふふっ、私の威光に怯えてしまったのかしら?身を弁えた小物らしい反応で好きよ」
微笑みながらこう言われる。何故かはわからないが上機嫌らしい。肯定と取って疑問を口にする。
「時間が巻き戻るって一体どういう原理なのでしょうか」
彼女は顎に手を当て、中空を見据えながら少し考えてから、
「さぁ?」
こう一言返してきた。
まるで返答になっていないくせに得意気な顔をしている。
とにかく自分の中の疑問を吐き出すことにする。
「じゃあ何も無いところから炎が出たり、刃物を取り出したり、瞬間移動としか思えないことをやったのはどういう仕掛けが?あと湯呑みはどうしたんです?」
「さぁ?」
次は考えようとすらしなかった。
沈黙が流れる。
こいつは、電波を受信した危ない女ではなく、もしかして、超常の力が使える恐ろしく危ないバカなのではないだろうか?
「もしかして、貴方はバカですか?」
「殺すわよこのゴミ」
動揺のあまり口に出てしまっていたようだ。
短刀が僕の喉に突きつけられている。バカな上に短気のようだ。
「だって何一つ答えになってないだろ!!」
「うるさい!猿に小難しいことを言っても理解出来ないでしょう!貴方の知能を考えて善意で煙にまこうとしたのに、何故掘り返してくるのかしら!これだからバカは困るわ。あら?もしかしてさっきのは自己紹介だったのかしら?初めましておバカさん、どうぞよろしくね。とりあえずそこに這い蹲って生まれたことを謝りなさい。踏みにじってあげる」
正論を言ったら何倍にもなった罵詈雑言が飛んできた。とんでもなく口が悪いということも再認識する。
理不尽だし現実と思えないしで心の中は滅茶苦茶だが、一つ深呼吸をして冷静さを取り戻す。
「バカなんて言って悪かったよ。でも本当に何一つ理解出来なくて混乱しているんだ。もっと丁寧に説明してくれ」
女はこの家に来て何度目かもわからない溜息をついてから、
「面倒なので嫌よ。自分で理解しなさい」
と、こちらの要求を跳ね除けた。
全く話にならない。一体どうすればいいのか、途方にくれてしまった。
「それに、今の貴方は私の話を聞いても理解出来ないわ」
さっきので話は終わりではなかったらしい。
今の僕では理解出来ない?どういうことなのだろう。
「いや、理解出来ない……というのは適切じゃなかったかしら。理解しても無駄と言った方が良かったわね。そんな面白い顔しないでくださる?笑い過ぎて私が死んだらどうしてくれるのかしら?」
余程怪訝な顔をしていたらしい。それにしても散々な言い草だ。
更に説明を求めようとした瞬間、彼女は僕の後ろを指さして、
「ほら、日付が変わるわよ?」
振り返ると、机の上には置き時計があった。パソコンのモニターの前にぽつんと置いてあるピンク色の時計。
こんなもの、置いてあっただろうか。思い出せなかった。
二つの針は頂上を指していて、もうすぐ秒針がそれらに追いつこうとしていた。
秒針の刻む音が妙に響く。あと五秒。三、二、一、
モニターを眺めていた。そこには無数の文字列が並んでいる。夥しい量の人間の文章が流れていく。僕はそれを眺めている。思考することもなく、ただ眺めている。これが僕のすることの全て。この狭い部屋で、一日中それを眺めている。その他には何もしないし、する必要も無い。
けれど、今日は何かが違っている。どこかが致命的に違っている。けれどそれが何かわからない。考える必要も無いか。そう判断した瞬間、鋭い痛みがマウスを握る左手に走った。けれど、それもどうでもいい。どうでもいいことだ。次は首に圧迫感。苦しい。息が出来ない。もがく。このままでは意識が落ちる。まずい。続けられなくなる。このモニターを眺めていないと、そうしないと僕は存在する意味が無くなる。抵抗も虚しく、僕は意識を失った。
痛い。左手が酷く痛む。首も痛い。どうやら仰向けに倒れているらしい。秒針が進む音が聞こえる。
「あら、死んでなかったのね。安心したわ。殺されにきたのに私が殺しちゃうなんて喜劇、笑えないしつまらないわ、なにより主にも怒られちゃう。あと、貴方と一緒の舞台に上がるなんて死んでも嫌」
酷いことを言われている気がする。痛みに呻きながら目を覚ますと、左手側で西洋人形が座卓に座ってお茶を飲んでいた。
心底驚いて起き上がろうとするが、上体を起こしたところで咳込んだ。喉が痛い。右手で喉をさすりながら左手を見ると、甲から血が流れていた。
「私も危害は加えたくなかったのだけど、貴方にかかっていた暗示が思ったより強力でね。ちょっと荒っぽいことをしてしまったわ。でもこうして正気を取り戻せたのだから、貴方は私に感謝すべきよ」
どうやら全部この女のせいらしい。こいつ、正気じゃない。痛みをこらえ、逃げるために立ち上がろうとしたがバランスを崩して転倒してしまった。足を見ると太腿から下が布できつく縛られてあった。
「貴方の意識を奪って正気に戻した布よ。ケダモノに触れた布を持って帰るなんてごめんだから、貴方にあげたの。私からのプレゼントよ?感謝しなさい」
万事休すだ。この女に僕の生殺与奪は握られている。どこからか取り出したのかわからない短刀を弄ぶ彼女は酷く上機嫌で、鼻歌なんて歌っていた。
短刀を見たことで驚きと憤りは急速に恐怖へと変わっていった。身体が震える。がちがちと歯が鳴る。
「僕を、殺しにきたのか?」
震える声でそう言うと、彼女はますます楽しそうな表情を浮かべた。そして、良いことを思いついたと言わんばかりに目を輝かせて、
「そう、私は貴方を殺しにきたの。この短刀で切り刻んで貴方の悲鳴を楽しもうと思ってね。そうね、まずは邪魔な目から潰そうかしら?煩かったら喉も潰して、静かになったら爪先からどんどん切り刻むの!素敵でしょう?体がどんどんなくなっていく感覚ってどんな感じなのかしら?それを知る栄誉を与えてあげるの。泣いて喜んでもいいのよ?」
可憐な弾む声でそう言って、短刀を振り上げた。僕は絶叫しながら強く目を瞑り、両手で頭を覆って丸まった。
しばらく時間が経っても、恐れていた衝撃も痛みもこなかった。恐る恐る目を開けて彼女のほうを伺うと、うずくまり腹を抑えて震えていた。時折漏れだす声からして、笑っているようだ。
僕はもう怒りを通り越して無表情になった。
「あーもう面白い!危害は加えたくないって言ったでしょうに。というか、私の発言から敵意が無いことくらい汲み取りなさいよ。ほんともう脳味噌が退化してるんじゃない?その耳は飾りなの?やっぱり猿なの?」
もうこの電波女は無視することに決めた。そうしよう、うん。
女に背を向け、だんまりを決め込む。
「あら?もしかして怒ったのかしら?虫ケラの分際でこの私に?あり得ないわ、さっさと機嫌を直しなさい。むしろ私を笑わせることが出来たのよ?道化としては一流よ、喜ぶべきね。主が貴方を選んだ理由がわかったわ。私も道化としての貴方を認めざるを得ないわね。毎日これをやりたいくらい。してあげましょうか?ああでも檻に閉じ込めるけけれど、仕方ないわよね?」
話しかけてきたが返事はしない。もう二度と顔も見たくないが、拘束されてる以上どうしようもない。さっさとこの悪夢よ醒めてくれと思っていると、
「むー。怒って知らんぷりするなんて、面倒くさい人間ね。わかったわ、じゃあもう一回私が死ぬから、それでおあいこよ。いやでもさっき私は死んだしおあいこじゃないかしら?むしろ私が損してる……?」
ぶつぶつと物騒なことを呟いていた。なんだと思ってちらりと後ろを見ると、彼女が短刀で自分の首を根元から掻き切っていた。バターを切るかのように刃が肉と骨を断ち切った。ずるりと首が横滑りし、噴水のように血が部屋中に飛び散る。信じられない出来事に脱力し、仰向けになる。血が体に大量にかかって、少し遅れて現実感と強烈な吐き気が襲ってきた。次の瞬間には何事も無かったかのように首を切る前に戻っていた。
今の生々しい光景が信じられず、彼女に向き直ってまじまじと見つめた。
「二回も死んでしまったわ。貴方のせいよ、責任を取りなさい。というか、見つめ過ぎよ。気持ち悪い。けれど、ようやく話を聞く気になったかしら?それじゃあお話をしてあげる。とりあえず吐き気で喋れそうにないから、別の方向を向いてくださる?」
茫然とする僕に、彼女はまずこう言ってから、経緯を話し始めた。
彼女は死ぬと時間の巻き戻る能力を持っており、物質を自由に作ったり消したり出来る能力をもっている……らしい。短刀はさっきの光景を思い出して気分が悪くなるのでしまってもらった。
彼女は湯呑でお茶を飲んでいる。空になると紫色の炎に包まれ、中身が満たされていた。なんとも奇怪な光景ではあるが、先ほど彼女が死んだインパクトによって現実感は破壊されてしまっていたので、そういうものとして受け入れた。
一番大切なことは、僕は彼女を殺さなければいけないということらしい。
ここまでが”前の僕”と話していた内容だそうだ。
そして、ここからが”今の僕”との新しい話になる。
「つまり、僕は毎日零時に記憶がリセットされているってこと?」
「貴方の主観によればそうなるのかしら。正確には、この街全体がある状態に戻されているそうだけれどね。主はそう言っていたわ。」
主が誰かはわからないが、まあそういうことらしい。
「一体なんでこんなことになってるんだ?」
「さあ?」
わからないらしい。
「この状況から脱するには?」
「さあ?」
この女、そもそも考える気が感じられないのだが、そのことについて言ったら確実に暴言が飛んでくるのは身に染みてわかっているので、我慢して話すことにする。
「心当たりも無いのか?」
こう問いかけると、彼女は顎に手を当て、うーんと唸った後、
「さあ?」
「お前考える気無いな?」
「まあ!猿の分際でこの私に向かって」
辛抱強くなんて無理だった。彼女の罵倒を右から左に流しながら、自分なりに考えを進める。
零時になったらリセットされる、なんていうのは超常の類だ。彼女の能力と似たものだと考えられる。ならば、この女の能力が発生した理由がわかれば、手掛かりが掴めるかもしれない。
「その君の能力は一体どうやって手に入れたんだ?」
「哺乳類どころか爬虫類にすら及ばな、私の話に割り込むとはいい度胸ね?ふんっ、まあいいわ。私の叶奇は、主から授かったのよ」
「主?さっきからよく出てくる主って言うのは一体誰なんだ?」
すると彼女はよく聞いてくれましたとばかりに胸を張って、自慢げに話し始めた。
「主は私を救い、願いを叶えてくれたとっても偉い人よ!まあ?私ほどの美貌を兼ね備えていれば目を付けられるのも当たり前だけれど!ふふっ!」
願いを叶える。こいつの願いは死なないという願いだったのだろうか。
ならば、何故僕に殺させようとするのだろう?全くわからない。ともかく一旦それは置いておくことにして、質問を再開する。
「その主から能力は与えられたってことでいいんだな?」
「凄いわ!私の話がわかるなんて、貴方もしかして人間なのかしら?」
「なるほど。じゃあ君の他に能力を持った人間はいるのか?」
「なんか反応がつまらなくなってきたわね……もっとケダモノらしくキャンキャン泣き喚きなさいよ……私、主以外の人とは極力関わらないようにしているから。知らないわ」
「大事なところで使えないな……」
「使えないって貴方誰に向かってそんな口を聞いているのかしら?高貴な者への敬いが」
この女の他にも能力を使える人間がいると仮定して進めるしかないようだ。
この街をリセットする能力を持った人間の捜索。探せるかどうかはわからないが、やるしかないだろう。やらなければこのうるさい女に弄ばれ、玩具にされるのは間違いない。それだけは嫌だ。
外へ出るために立ち上がろうとして、布で縛られていることを改めて思い出す。
「この布、取ってくれないか?」
彼女は怪訝な表情を浮かべ、
「また私の言葉を遮って……いきなり何する気?」
「街をリセットしている人間を探す」
彼女は目を少し開いて驚いた後、嬉しそうに笑いながら右手を横に振った。すると布は紫の炎に包まれて消えてしまった。炎だとういうのに、まるで熱くなかった。
自由になった足で立ち上がると、
「やる気があるのは大変結構だけれど、その恰好で外へ出るのはおすすめしないわね」
と言って僕を指さした。僕は自分の格好を確認し、パンツしか身に付けていないことに気付いた。
「……あの、いつから僕はこの格好だったんだ?」
「最初からよ?だから言っていたじゃない、猿とかケダモノって。人間はね、服を着るものなの。おわかり?」
赤面しながら部屋の隅のクローゼットへと近づき、扉を開ける。
何も入っていなかった。
「服をどこかにやったりとか、した?」
「そんなことするわけないでしょう。そもそも、この部屋には”綺麗”に何も無いじゃない。これも最初に言ったのだけど……ああ、これは前の貴方へ言ったのだったわね」
そう言われて部屋を見渡すと、モニター、PCデスク、椅子、座卓以外に何も無かった。
食べ物も、寝るためのものも何も存在していない。
ここで、人が生活していたとは到底思えない。
極めつけに、そもそもパソコン本体が存在していなかった。だからモニターは黒いままだ。
意識を失う前、モニタには文章が映っていたはずなのに。一体僕は何を見ていたんだ?
正気を取り戻す前の自分が恐ろしくなる。
僕は本当に生きていたのだろうか?
そういえば、何かを食べた記憶も出掛けた記憶も何もない。
モニターを眺めていただけだった?
24時間でリセットされるにしても、ずっとそこにいたなんて、あり得るのだろうか。
人間としての生活を何一つ送っていない。人間というよりは死体といった方が正しいだろう。
鼓動に合わせて流れる血液が、体が、自分のものでは無い気がしてくる。
自分という存在を繋ぎとめるために人間らしい何かを探す。思い出そうとする。
名前。そうだ、名前が僕にはあった。あったはずだ。
なのに、何一つ思い出せない。
僕は一体……誰だ?