1.クラリス・テイラー(4)
「――・・・あ~、たのしかったぁ」
すこしばかり『大人の階段をのぼった』ことに対し充実感があるのだろう、帰り道の凛はすこぶる機嫌が良かった。彼女は酔っ払いみたいにあっちへふらふら、こっちへふらふら、それであるとき「あ」という声と共に立ち止まった。
「そうだ、良かったの?こんなにさっさと帰ってきて」
「え?」
「だって、クラリスさんって、レノのコイビトなんでしょう?」
・・・ああ。こういう事に興味がある年頃だって上に、また正直だからタチが悪い。横ではみーちゃんがそれはそれは楽しそうにニヤついていた。
「・・・恋人じゃないよ、ただの友達」
「そうなの?」
「どーだかな・・・」
ぼそりと言われる一言。凛が「やっぱり恋人なの?!」ときらきらした目で見つめてくる。
茶茶を入れるなという意味合いで彼を睨むと、そいつはあさっての方向を向いた。わかっててやってやがるな。
二人の無言の攻防をよそに、そこで凛は閃いたように手を叩いた。
「あ!わかった、カタオモイってやつなんだ」
「・・・・」
絶対正解でしょ、とでも言いたげな眼差しに溜息をつく。何を言っても相棒によって変な方向に持っていかれそうなので、レノは取り敢えず曖昧な笑みを返してごまかした。
そう、彼女とは本当にそういう関係ではない。
ただ確かに誰より近しい女性だとは思っているが。
「ねね、クラリスさんと、どんなお話をしたの?」
「・・・さあ、どんなことだろうね?」
「けちー」
「そりゃ、ケチですよ。んで、君もさ、何かあったらオレたちだけじゃなくクラリスにも相談してごらん。きっと力になってくれる」
「何か、って?」
「何でも、まあ色々なことをさ。わかった?」
「うん!」
恐らく凛もクラリスにはもう既に好意を抱いているのだろう(なんたってさっきお菓子を貰ったし)、彼女が大きく頷いた様子を見て、微笑ましい反面レノはまたどこか少しいたたまれない気分になった。
『――そう、そんなことがね・・・。でも“隠さなきゃいけない”子なら、どうして私に話を?』
『・・・リンは女の子だ。オレたちじゃ、やっぱりわかってやれないこともあるだろうからさ』
『あら、すっかり保護者さんね。それとも、そこまでしなきゃならない理由でも?』
『さあ・・・どうだろうね』
レノは、護れなかった。
無力だった自分。少女の慟哭。彼女の父親の願い。あの日のことは、きっと一生忘れない。
この子が今でも毎夜のように一人で泣きながら眠っているのを知っている。知っていても、結局何もしてあげられない。
だから、せめて――。
「・・・それで?実際のところ、ちゃんと次のデートの約束はできたのか?」
いい加減うんざりして、レノは多少刺々しく答えた。
「だからそういうんじゃねえって」
「だそうだぞ、ガキんちょ」
「え~~・・・・・あやしい」
顔を突き合わせて笑えば、さながら二人は兄妹だ。仲が良いのは結構。だが、その人を馬鹿にしたような態度は正直面白くない。
「・・・ちょっと、みーちゃん。リンに何教えたの」
レノは雅の腕を引き、凛から少し離れて耳打ちした。心当たりがあるとすればレノがトイレに立ったほんの数瞬。苛立ったレノを見て、相棒は満足げににたりと笑った。
それで、レノの中の何かが軽く切れてしまった。
「プライバシーを守るっていうのは、同居生活においたら常識だろうがっ!」
「なんだよ。クラリス・テイラーはお前の恩人。そして誰より親しい友人。何処か間違ってるか?それとも、人に言えないやましいことでも?」
「・・・・・・・相変わらず嫌な奴だな」
「俺は単に素直なだけさ」
いつものことだが、雅はとにかく性格が悪い。まあ、自分も人のことが言えないのはある程度自覚しているし、だからこそ今まで名目上でも「相棒」が続いてきたのだろうが。
「(でもなぁ・・・シモツキ伯爵も人選を間違えたんじゃないか)」
こんな凶悪で物騒な男二人に、まだ幼い、いたいけな女の子を任せるとは。自分で言うのもなんだが、教育上良いとは絶対に思えない。大体、思春期の始まりなんて、女の子にとって一番大事な時期ではないか。
・・・とかなんとか、少々親父くさいことを考えていたときだった。
「―――何惚けてんだ、若白髪」
言われてハッと顔を上げる。瞬間、レノは眉根を寄せた。
風のざわめき。それとともに、今まで点いていた街灯の灯がふっと消えた。
「・・ああもう」
ちょっとぼーっとしてたら、こうだ。なんでこうもいちいち面倒くさいのか。
道を歩いていてある所に足を踏み入れた途端、空気が変わった。異質な気配と共に感じる、よく知っている異形の波動。そう遠くはない。
「レノ?雅?」
立ち止まった少女を引き寄せ、自分たちの間に隠す。事態を察した凛は身を強張らせたが、しかし臆した姿は見せなかった。
「ガキんちょ、解ってるだろうが、離れるな」
「うん・・・」
この気配の正体が、単に彼の世と此の世の【歪】から生まれ出でたものなのか、それとも凛を――『翼』の封印を狙ってきたものなのかは解らない。雅は愛刀を浮かせ、レノは首から十字架を外した。
「――やれやれ」
月が隠れ、闇が濃くなったそのとき、人に在らざるモノは建物の影から姿を現した。数はせいぜい十か二十と、そう多くない。人通りの無い道だ。ある程度は好き勝手出来る。
気合を込めるように息を吐き、大鎌・ベルフェゴールを変幻させ、光子をその中に集積する。研ぎ澄まされる刃。レノは大きな一振りで【歪】を叩き潰し、片や魔の黒焔で影を一掃した相棒を見て、ふっと皮肉っぽく口端を持ち上げた。
「全く、時々君と仕事が出来ている自分を褒めてやりたくなるよ」
「奇遇だな。それは俺も同意見だ」
軽口を叩きあいながら、それでも一体一体確実に獲物を消していく。やはり凛が事務所に来てからというもの、雑兵程度といえ異形共と戦う機会が想像以上に増えた。だがレノには一つ不可解な点があった。
戦闘頻度は増えたものの、あれ以来中級以上の妖魔には一度として遭っていない。まるで、何かのために敢えて温存しているように――。
「リン、もう動いていいよ」
大鎌を十字架に戻し「おいで」と手招きすると、凛はぎゅうっとしがみ付いてきた。その子を片手で抱擁しながら、レノは更に他に開いた穴は無いかと神経を研ぎ澄ました。
「お疲れ様。・・・悪い奴らの“いりぐち”は?」
「うん、大丈夫。ちゃんと塞いだよ」
漸く静かになったその場で、不意に堅い靴音が響き、レノと雅はそちらに意識を向けた。そしてその刹那、黒と白の二人は本能的に神経を尖らせた。
路地裏に入ってきた影。月の光によって明るくなったシルエットの主は、値が張りそうな上等なスーツを着た妙齢の男(とそのとりまき)だった。
「いやあ、見事見事。噂通りの腕のようだ」
「・・・誰だ、貴様」
雅が嫌なものでも齧ったかのような表情を浮かべ、剣呑に問う。
完璧過ぎて逆に薄っぺらい穏和なスマイルと、対称的に鋭く底の知れない瞳。ああ、確かにこういうタイプ、みーちゃんは嫌いかもしれない。
男性は挑発的に笑い、大して減っていない煙草を金の携帯用灰皿にねじ込んだ。
「君らの客になるかもしれない人間だよ――」