5.後ろの正面ダレダ(2)
小ぶりの鈴を鳴らしたような羽音と共に、反射面を失った鏡の中から小さな虫が現れる。ぽう、と仄かに光るそれは、さながら夜光虫のようだ。雅がそれを浄化の焔で燃やすと、灰を残すことも無く、その虫は彼方へと消えていった。
レノは事切れたようにその場に倒れて動かない男性のもとへと歩み寄ると、彼に微かだが脈があることを確認し、密かに安堵した。先ほど男性が取り落としたモノを拾い上げる。その正体は汚れがこびり付いた小さな香水瓶だった。
思念を同調させなくても、伝わってくる「思い」。
その香水瓶は、レノに全てを教えてくれた。
――昔々の話だ。男性は若い頃、この街、いや、帝国でも有名な調香師だった。当時はその妙なる香りを求め、多くの貴族たちがわざわざ遠くからこの店を訪れた。最終的には、帝国皇族すら彼の香水を愛用するようになった。
しかし、その栄光も長くは続かず、加齢とともにその才能は枯れていき、また流行の変化の波などで急速に店は廃れていった。だが彼は一度味わった絶頂を忘れられず、プライドというどうしようもないモノだけを頼りにして香水屋を続けた。その代償は大きく、彼は何より大切にしていた家族すらも失ったが、それでも店を手放すことが出来なかった。
彼は一日中客の来ない店のカウンターで、来る日も来る日も店番をし続けた。何年も、何十年も。
そして、そんな彼が漸く店をたたむ決意をしたのが、つい数ヶ月前の話だ。
人生の終わりが見えてきた所為か、彼はやっと全てを諦め、遅すぎた引き際を悟った。だが最後のあがきとでもいうように、思わぬ誘惑が彼を襲った。
「お前は何が欲しい」と。
それが悪魔のささやきとも知らず、何気なく彼は答えてしまったのだ。
「人々を骨の髄まで狂うほどに魅了する香水を作りたい」と。
悪魔――鏡に寄生した闇の眷属は彼の願いを叶え、彼の精神に妖魔を刷り込んで“蟲”という異常な存在を与えた。
“蟲”という生物は一応妖魔の類では無いといわれているが、それでも人とは相容れないものである。中には――そう、今度のように、闇と共生し人の陰の気をもって成長するモノもいる。そうやって香水を使用した人間を依存させ、その頭をぶっ壊しつつ増殖していった。
「・・・人対人の感染、持続性を持つタイプじゃなかったのが、せめてもの救いか」
そうでなければ、被害は数十倍に達し、恐らくは国家的問題にすらなっただろう。
最初に彼に妖魔を取り憑かせた存在の気配は、もうここにはない。だが人語を操るということは、それ相応に「厄介」な相手なのだ。その厄介な存在を呼び寄せるほど、この人の願いは深かったというわけか。
否――この老人は、もともと本心ではそんな大それたことを考えていたわけではなかったのだろう。そして、全てを壊してしまおうだなんていう、とんでもない勇気があったたわけでも無い。それがその願いで歪を開いてしまうほど捻じ曲がってしまったのは、ただ弱かったから。
自分の犯してしまった過ちを、認めることが出来なかったから。
そう、ヒトは弱い。だからこそ自分を直視できず、そうして「自らのありのままを映すもの」への恐れが暗黒への道となった。その気が闇を育み、奴等の贄となってしまった。
それは、きっと罪ではない。条件さえ揃えば誰にでも起こりうることだ。ただ少し、愚かだったというだけ。
多分、この人もまた、一連の事件の被害者なのだろうから。
「災難でしたね、貴方も」
香水瓶の記憶は、そこで途切れた。
レノは深く息を吐いて片眉を下げ、その人の隣に空の瓶をそっと置いた。役目を終えた香水瓶にはピシリと亀裂が走り、やがて微かな音を立てて割れていった。




