5.後ろの正面ダレダ(1)
黒の刃と、鈍色の刃。
その二人は、相変わらず強かった。霜月のお屋敷に来て、凛のために戦ってくれたあの頃からずっと。いや、もしかしたらあの頃よりも更に強くなったのかもしれない。
向かってくる相手も悪意も物ともせずに受け流し、斃す。慣れたように、当たり前のように。
そうして、最後には先ほど凛に襲い掛かってきたもうヒトではない人だけが、二人に対峙する敵として残った。
「はっきり言って、完全に末期だな」
「末期」と雅に言われたように、その人の体はもう正常な造形をしておらず、ただ一点、半ば「まきついた」古ぼけた洋服だけが、彼がもともと人間であったことを表していた。
ちぢれた白髪に、曲がった腰。棒きれのように細い手足で四つん這いになってこちらを威嚇するその姿はさながら「妖怪」だ。
そしてきっと、御伽草子にあるようにその「妖怪」が退治されるのは当然の結末だったのだろう。
だが凛は見てしまった。否――聞いてしまったのだ。
――・・・てくれ。
「え・・・?」
――殺シ、てくれ。殺してくれ、早く。
殺して、と。
その人は叫んでいた。縋るように、哀願するように。終わりの無い責め苦に喘ぎ、のたうちまわっていた。
でもその中のどこかで――苦しい、助けて、死にたくない!という悲痛な声が重なっていた。
――誰か、誰か…助けてくれ!!
「(・・・・っ)」
だから、だろうか。
「終わりだ」
今まさに断罪の斬撃が振り下ろされんとするとき、凛の体は、無意識に動いていた。
「――待って!」
突如として躍り出た人影に雅はたじろぎ、凛の体を真っ二つにするギリギリの所で剣の軌跡を無理矢理逸らした。深々と抉られ千々に細切れになる床と壁。嗚呼、雅の刀ってやっぱりこんなに切れ味が良かったんだ、などとそのときは変に冷静な考えが脳を駆け抜けた。
雅は肩で息をして床から愛刀を引き抜き、信じられないという反応で凛を見下ろした。
「・・・おまえ、」
何やってるんだ!と怒鳴られなかったのは、きっと彼が未だ混乱していたからだろう。
雅は何か言おうと口を開きかけるが、すぐには言葉が見つからなかったらしく、凛の腕を強い力で掴んで吼えた。
「邪魔だ、そこを退け!」
「・・・っ、いや!退かない!」
「何だと・・」
「だってあの人、好きでこんなことしてるわけじゃない!助けてって、そう言ってるの!」
「オマエな・・・・――ッ!?」
とっさに雅が凛を抱えてそこから飛び退くと、さっき居た場所を黒い塊が抉った。そのとき、凛の顔を何かの水滴が濡らした。
赤くて、温かいモノ。これは――血?
「――みや、」
「触るな」
見ると、先ほどの一撃がかすったのだろう、肩先の服が裂け、生々しい傷がむき出ていた。雅はチッと舌打ちすると傷口に刀の先をねじ込み、半ば爆発させるように“何か”を吹き飛ばした。
「・・・っ」
飛び散った血液は床に落ち、そこから何か黒いモノが湧き出した。
うねうねとそれはグロテスクに蠢き、やがてシュウゥと音を立てて霧消していく。
「これが・・・“蟲”?」
「・・・・・言ったろうが。時間が無い、と」
そうか、と凛はそこでやっと理解した。微小な“蟲”による空気の汚染。いくらこの二人といえ、そろそろ平気ではいられないのだ。
どうして気付かなかったんだろう。凛が今まで無事だったのは、二人が凛のために害を取り除いていてくれたからなのに。
「そういうことだよ。だからリン・・・オレたちだって出来るならあの人を助けたい。でも、もう手遅れなんだ」
「ておくれ・・・?」
「ああ。だから・・・・これからはいつもの事だけど、眼を瞑ってて」
凛と雅の前に立ったレノは、鈍色の鎌をお爺さんに向けて構える。猛り狂う豪風と、膨張する緊張感。そのプレッシャーで、びりびりと肌が痛い。彼は本気だ。
「(てお、くれ?)」
解ってる。この人がそう言うなら、きっとそうなんだ。それにレノの言うとおり、二人だってあの人を無理に殺したいわけじゃない。
わかってる、わかってるけど――。
「 ・・・痛イ、苦シイ 助けてクレ 殺しテクレ ・・・死にたくない――! 」
耳の奥で、痛ましい慟哭が木霊する。凛は胸の前でぎゅっと拳を握り、唇を噛んだ。自分の無力さに打ちのめされ、項垂れた。
「(ごめんなさい・・・・・・私は・・私には、何も・・・)」
いくらその嘆きが聞こえても、こんなにも苦しんでいる人一人、救えないなんて。
「・・・・・ミヤビ、終わらせるよ」
レノは緊縛の術を放ちお爺さんを拘束すると、一息に間を詰めて後ろを取った。そのまま加減も躊躇いも無く、鈍色の刃がソレの項へと振り下ろされる。だが刃が相手の躯に届く寸前、見えない壁のようなものが火花を散らしてその斬撃を受け止め、レノの体を弾き飛ばした。
「な、これは・・・!」
蟲の“群れ”。レノはそう呟いた。
彼はその後素早く空に文字を描くと掌に赤い光の球体を出現させ、それをお爺さんにぶつけた。瞬間、カッと部屋全体が明滅する。人のものとは思えない悲鳴が響き、その人の額から何か黒いもの――視認できるほどに夥しい量の蟲が抜け出した。
「これで本体が出てこないってことは、オジーサンは根源じゃない・・・ってことか?」
レノは難しい面持ちをして、淡々と分析した。そのまま、また一箇所に戻ろうとする蟲の“群れ”を切り、それでも際限なく分散、再構築するそれを見て癇癪を起こしたように叫んだ。
「ああ、埒があかないっ!みーちゃん、ちょっとこれ焼いて」
「この量だ、気休めにしかならんと思うが。いっそのこと、この小屋ごと燃やすか?」
「いや、堂々と放火宣言するなって犯罪者!」
二人に軽口を交わす余裕はあるようだったが、それでもいつもと比べて彼らの間に垂れ込める空気はやはり張り詰めていた。
そんなとき、凛はふと自分を庇うように立っていた雅の腕の下に、水溜りができていることに気付いた。
「あ・・・」
水、じゃない。それは血だ。先程凛を護ってくれたとき、凛の所為で負った怪我。
こちらの視線に気付いたのか少しだけ後ろを顧みて、雅は毅然とした声で言った。
「大したこと無えよ」
「でも」
彼に近付き、肩の傷に触れる。その予想外の深さと酷さに目を見開き、どうしよう、と凛は後ずさった。するとその時、背中が壁に掛かっていた何かにぶつかった。それは、塗装や装飾が剥がれ落ち、最早本来の機能を失っていた鏡であった。
刹那、白髪頭のお爺さんや蟲の群れの形態に動揺が走り、レノがハッとした顔をした。
「ミヤビ、リン、鏡・・・・・ああ、そういうこと!」
レノは大きく跳躍してその曇った鏡の前に立つと、大鎌を振り上げた。好き勝手暴れていた蟲達が慄いたように一斉に動きを止めた。
「一番深い【歪】が、まさかこんなところに隠れていたとはね――」
老体は信じ難いほど俊敏な動きで攻撃を阻もうとするが、何かがそのポケットから滑り落ち、ほんの数秒だが動きを止めた。その隙にレノは鎌を一閃させ、結界に対する反転魔法と、電荷を帯びた魔力そのものを鏡にぶつける。
パキン、パキンと罅が入り、粉々になる銀の欠片。
「・・・・・蟲の“巣”か」
そこから汚泥のようなモノが溢れ出し、やがて熱電に焼かれて消失する。
お爺さんの体は思い切り後ろにのけぞり、ギャァアアアアという耳を劈くような絶叫が部屋中に響き渡った。




