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0.或る店の男の話


 白髪頭の男は、迷っていた。辞めるか、辞めるまいか。ただそれだけのことを考え、この一月を過ごしていた。

 顔を上げると、ガランとしていて物寂しい、埃被った店の姿。十年前の栄光など見る影も無い。

 一ヶ月間も悩み抜けるということは、即ちそれだけ彼に時間があったということだ。そう、この店には客は来ない。解っている。解っているが店を開け、意味も無い一日をただカウンターに座って過ごす。毎日ひたすらそれを繰り返していた。

 男の妻は数年前に病死した。その原因も一重に、治療代が払えないと、ただそれだけであった。だが妻は男を責めなかった。死ぬその日も意味もなく店にあり続けた男を。彼女は全く責めず、微笑んで逝ってしまった。その為ついに男の息子は彼を恨み、彼の前から姿を消した。

 男は最早、自分が何をしているか解らなくなっていた。

 妻と子を思うなら、この店などさっさと捨てて他の仕事を探していたほうが良いとは解っていたのに。全て失っても尚、この店の主であり続ける意味など無いであろうに。

 何を、しているのだろう。


 ――ああそうだ。意味など無いのだ。

 男が毎日ここに座っている理由も、いまだこの店の主である理由も、何も無い。ならばこの店が「店」である意味も無い。

 男はもう一度顔を上げた。もう辞めてしまおうと思った。明日までに客が来なかったら――そう考えて今まで来てしまったのだ。

 でも、客は来ない。来なかった。ならば今日も明日も明後日も同じだ。それは解りきっている。だから、今、辞めてしまおうと。それでいいと。

 全てを決めて、男は立ち上がった。


 ――・・・・が・・・欲しい・・・


 不意に声が聞こえたような気がして、男は驚いて飛び上がった。椅子が倒れる。

 振り返ると、そこにあるのはただの壁。

 男は少し訝しげに周囲を窺ったが、自分の歳を思い出し、ついに変なものが聞こえるようになったかと逆に清々した気分になった。ああ、丁度いい機会なのかもしれない。


 ――・・何が・・・欲しい・・・


 男は看板を下ろしかけ、手を止めた。もしかすると、幻聴などではないのか。

 男は不思議そうに、半ば不気味がりながら店を見回した。そして、まだ若かった頃毎日のように睨みあっていた鏡に目がいった。

 無論、鏡は映すのは男自身だが――妙なことが起こった。


――お前は何が欲しい・・・


 鏡の中の自分は、自分の意思とは裏腹に喋っていた。一人でに。

 何が欲しいのかと、そう繰り返した。男は何だか笑いたい気分になり、本当に笑ってしまった。そして答えた。恐らく、自分が今一番欲しているであろうものを。安易に。

 応えて、しまった。


 ――承知した


 赤色に光る店の中。

 鏡が割れる。男は暫しぼう然と立ちすくみ、やがて、幸せそうに、絶望したように、哂った。


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