(2)
おとぎ話やメルヘンの世界では当たり前の世界でも、私が今まで過ごしてきた現実という世界ではあり得ない話だ。いや、今この瞬間まではあり得ない話だった。
しかし何事も過ぎ去れば過去という進行する現在のレールからは零れ落ち、置き去りにされていく。そして今やそのメルヘンが現在進行形として走り抜けて行こうとしている。
「あ、すみません。驚かせてしまいましたね」
その通りだ。私はひどく驚いた。
なにせ、鳥が喋ったのだ。驚かない人などいないだろう。
だがそれももはや過去の出来事だ。驚きはすでに遥か向こう側でポツンと私の方を眺めていた。鳥は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、すまない。急な事だったんで、驚いてしまって……」
「そうですよね。いや、本当に申し訳ない」
――喋っている? 私は今、鳥と喋っているのか?
滑稽な姿だ。そう思うと思わずふっと笑いがこぼれた。
普通に鳥と会話している自分の姿がたまらなくおかしく感じる。実際におかしな状況ではある。
何故急にこの鳥は私に話しかけてきたのか。
いや、そもそもこの鳥が話せるようになったのか、私が鳥の言葉を急に理解できるようになったのか。
本当に一体どういう事なのか。何もかも、さっぱり意味が分からない。
「それ、何ですか?」
「ん?」
鳥は自分の首をくいっと動かす。それが何かを指し示している動きだと分かると、どうやら鳥は私の手元にあるパンが気になっているのだなという事に気付いた。
「これか? これはパンというものだ」
「パン? ああ、それはパンというのですね。おそらくその切れ端のようなものだとは思うのですが、たまに私に分け与えてくれる方がいらっしゃったような気がします」
「そうか。君にとってこれはおいしいのか?」
「ええ、だいたいのものはおいしいです」
「そうか」
なんともざっくりした味覚の持ち主のようだ。だがこのパンはそんじょそこらのパンとは訳が違う。それはきっとこの鳥も分かってくれるのではないか。そんな期待が私の中に込み上げてきた。
「食べてみるか?」
「え、いいのですか?」
鳥は嘴をぱっと開き、羽を少しバサッと広げた。喜びの表現だろうか。
「ああ。このクリームというのも合わせて食べるといいぞ」
「なんだかほわほわしておいしそうです」
「ほら、食べてごらん」
私は小さく摘みとったパンの切れ端に少しの生クリームを添えて鳥の足元に置いてやる。
つんつんとそれを突くように鳥はパンを食していく。
幾度かそれを繰り返すと、鳥は私の方を見上げた。
「おいしいです! とっても!」
「そうだろ?」
「ええ。特に、クリーム、というのですか? この白くて柔らかい。甘くてなんだか優しいです」
「そうかそうか。そうだろ」
普通に鳥と喜びを共有している自分に多少驚きはあったが、やはり同じ感覚を共有出来るというのは嬉しいものだ。
鳥はあっという間にパンを平らげてしまった。そしてしばらく、「ああ、本当においしかったなあ」と感慨に耽っていた。私はその様子を不思議に思いながらも微笑ましく眺めていた。
先程までは喋る鳥に驚いていた私だったが、こうやって見ているとその姿はとても可愛く、温かく見守っていたいという気持ちにさせられる。
そんな様子を見ていた私だったが、そういえば私はお昼の途中だったなと思いだし、自分もパンをぱくぱくとかじり始めた。やはりうまい。
「あ、そういえば」
手元のパンをすっかり胃におさめた所で、最初の言葉を思い出し私は鳥に問いかけた。
「ご相談、って言ったっけ?」
私がそう言うと、あ、そうなんです、と佇まいをぱりっと正した。
「あなたにお願いしたい事があるのです」
鳥は、“あなたに”という部分を少し強調した。
そこには私でなければいけないと言ったニュアンスがあった。
そして、鳥は私の方を真っ直ぐ見てこう言った。
「私に、色を塗って頂けないでしょうか?」
「色を……?」
鳥はなおも真っ直ぐ私の目を見つめる。
突拍子もない、急な仕事の依頼だった。