(11)
「――ト」
目が覚めて、私は自分が昨日そのまま寝てしまった事を思い出す。
雨は止んでいた。
部屋には冬の朝の肌寒い風と、柔い日差しが射し込んでいた。
「――クト」
何か聞こえた気がした。
そう言えば、先程目が覚めた時にも同じ声が聞こえた気がした。
――声?
「イクト」
――!?
私の名前を呼ぶ声が、はっきりと耳に入った。
聞き馴染んだ、あの声が。
「シキ! シキなのか!?」
私は思わず叫んだ。
「はい、お久しぶりです」
自然に涙が込み上げてきた。
夢じゃなかったのだ。幻じゃなかったのだ。
全てが、嘘かもしれないと思ってしまった。
私が勝手に描いた、空想なのかもしれないと思ってしまった。
違う。そうじゃなかった。
シキとの時間は、嘘ではなかったのだ。
「どこに行ってたんだ!」
帰ってきたらなんて声をかけようか。いろいろイメージしていたはずなのに、最初に出たのは、一番正直な気持ちだった。
「本当に、すみませんでした」
シキの声が返ってくる。
当たり前だったものが当たり前にそこに帰ってきた。
それが、とてつもなく嬉しい。
シキはぽつぽつと話し始めた。
「虹になって、私は空を飛びまわりました。恥ずかしながら、嬉しくて嬉しくて仕方がなくて。綺麗だと眺めているだけの存在だった虹に、私自身がなっているのだと思うと、もうどうしようもなく浮かれてしまって。ずっとずっと空を飛んでいたい気持ちになったのです」
「そう言ってくれると、私も嬉しいよ」
素直な気持ちだった。
シキがそう思ってくれて嬉しかった。
それとは別に私は、何とも言えない不安に囚われ始めていた。
「そうやって空を飛んでいたのですが、そんな私が珍しかったのでしょうね。色んな鳥が私の周りに集まり始めました。そのほとんどが好意的なものでした。多くの仲間達と触れ合いました。でも、そうじゃないものもいました。私を見るや否や、鋭い嘴を躊躇なく向けてくるものが現れました。とても、怖かったです。何がそんなに気に食わないのか、何も言わずただ私を追いかけてきました。逃げるのに必死でした」
「……それで、戻って来れなかったのか」
そう言いながら私はぐるりと視線を動かし部屋の中を確認する。
「……はい。どこまで飛んだのやら。気付けば、すっかり遠くまで飛んでしまっていました。ほっとしたのも束の間、今度は雨に襲われました。あんなに体が痛い雨は初めてでした。でも、戻らなければと思いました。怖い思いもしました。けれど、イクトのおかげでたくさん楽しい気持ちになれたのです。戻って改めてちゃんと、イクトにお礼を言わなければと思いました」
「……シキ」
「だから無事ここに戻って来れた時、本当に嬉しかったですよ。あんなにも凄い雨だったのに、私の為に戸を開けてくれていたのですよね」
「ちゃんと言わないでくれよ。なんだか気恥ずかしいよ」
シキは帰って来た。間違いない、嬉しい現実だ。
そしてまぎれもなくシキと私は今話している。
――でも、だったら何故……。
「ありがとう、イクト。あなたには本当に感謝してます。あなたに塗ってもらった色は、本当にどれも素敵でした。」
――シキ、なぜなんだ?
「私は、自分を探していました。忘れていた自分自身を結局思い出す事は出来ませんでした。でも、偶然にも知る事が出来ました。私が、どんな色だったのか」
――君は、どこにいるんだ?
「イクト。私の事、見えませんよね? 私も同じです。私自身にも、自分の姿は今見えていません」
シキの声のする場所に目を向ける。しかしそこには、何も存在しない。私の仕事場の風景がそこにあるだけに見える。
でもそうではないのだ。シキは、確かにそこにいるのだ。
「そこに、いるんだよな?」
「ええ。ここにいます」
私はシキの声を頼りに、シキがいるであろう方向に一歩一歩足を動かす。
「そうです。こっちです」
シキの言葉が私を導き、私とシキとの距離が近まる。
「しゃがんで。そして、手をこちらに伸ばして下さい。ゆっくりと」
足を屈め、私は両手をゆっくりと前に伸ばした。
「あっ」
思わず私は声を上げた。
何もない空間に伸ばされた私の指から、何かに触れた感触が伝わってきた。
柔らかく、ふわりとした感触。
再び胸に熱い感情が込み上げてきて、目元から一気に零れそうになる。
「――久しぶりだな、シキ」
「お久しぶりです、イクト」
手元から伝わる羽毛の感覚がシキの存在を私に教えてくれた。
私は、優しくシキの体を撫でる。
目には見えなかったが、シキの喜んでいる顔がそこにはあった。
「私はどうやら、とんだ忘れん坊なようです」
唐突にシキはそう言った。
「どういう事だ?」
「私は、自分が何なのかを忘れてしまいました。そしてあなたにその記憶を探す手助けをお願いしました。イクト、あなたと最初に出会った時、私は何色でしたか?」
シキとの出会いの記憶。
公園で、私に話しかけた、最初の記憶。
「生クリームみたいに、真っ白だったよ」
「あのパン、おいしかったですよね」
昨日の事のように思い出せる記憶。
「でも、違うんです。私に色なんてなかったんですよ。大雨に打たれ、自分の姿が目に映らなかった事を認識した時、ようやく気付きました。私は、無色透明の、誰にも見えない存在だったんだと」
誰にも見えない無色透明。
そこにいるのに、認識する事の出来ない色。
それが、シキの本当の姿。
「その事を忘れ、そして気付けば私は純白となっていました。あの白色が何なのかを思い出す事も出来ません。イクトと同じように色を塗る誰かに塗ってもらったのかもしれません」
シキの記憶。
自分が何者であるかを忘れ、それを探す為につけた色も忘れ、そしてまた自分を探す。
それはあまりにも残酷な無限回廊のように私には思えた。
「イクト、すみません。散々色んな色を塗ってもらって、その結果実は色なんてなかったんですだなんて、失礼な話ですよね。本当に、申し訳ないです」
おそらくシキはいつものように頭をペコリと下げているのだろう。
そんな事を言って欲しくなどなかった。
シキが悪い点など何一つない。
悪とするならば、罪もない一羽の鳥にこんな運命を背負わせた神だ。
けれど、それを口にはしない。
そんな恨み言を吐いても、誰も幸せにはならない。
「お前が謝る事なんて、何一つないよ」
――私に出来る事は何だろうか。
――私が言葉に出来る事は何だろうか。
「本当の自分が見つかって、良かったよ。無色透明。それはきっと、シキ。お前にしかない色だよ。この世のどこにもない、誰にもない唯一の色。そして何にでもなれる色だ。私には絶対に塗る事が出来ない色だよ。素晴らしい、本当に素晴らしい色だよ」
目からは涙が伝い、紡ぐ言葉もぐらついていた。
それでも必死に伝えねばと思った。
いつかこの記憶もシキから消えてしまうかもしれない。
それでも、私にはこう言う事しか出来ない。
「でも、また全部を忘れてしまって、色が必要になったら、いくらでも私は君に色を塗ろう。私に出来る事は、それだけだから」
シキの体を撫でる私の手に、水滴が伝った。
目には映らないが、それが何であるかは分かった。
シキの涙すら、もう私には見る事が出来ない。
「だから、その時はまた声を掛けてくれ。君が覚えていなくても、私が全て覚えているから」
私が出来る事など知れている。
知れてはいるが、無力ではない。
いつかまた、訪れるかもしれない。
その時の為に。
「ありがとう、イクト」
やがて私の手から、シキの感触が消えた。




