chapter.0
西暦2030年。軍事活動が盛んな国、イェドルィン。5月1日。22時42分。
3人の一家が帰路についている最中だった。
女性、母親だろう。暖かみを含めた表情で、真ん中を歩く少年、息子に話しかける。
「それにしても1年でこんなにかわるものなのね。変わってない所といったら、その刈り上げ頭かしら」
少年は口を「へ」の字にして頬をポリポリと掻く。
「仕方ねーじゃん。髪の毛、伸ばしてみてぇよ」
その言葉に少年の左を歩いていた少年の父親が笑う。
「なぁに、20才までの辛抱だ。軍の演習が終わったら、こっちに帰ってこい。希望次第で帰してくれるんだろ?」
そして少年の頭に手を置く。
「分かんないよ。このご時世じゃ。もしかしたら演習が終わっても向こうで暮らすことになるかもしれない」
「おいおい、怖いこと言わないでくれよ。そうなったら父さんと母さんでお前を無理にでも連れ出すからな?」
父親はそう言って母親を見る。
「そうよ!大体今でさえこっちで暮らしてほしいって思ってるくらいなのよ。向こうでの生活はどうなの?」
夜風で道の端に生えている木々の葉が揺れる。少年は顔を曇らせた。
「楽しくなんかないよ。飯はまずいし訓練はきついし。でも上官は割と優しいんだ。落ち込んだ時は励ましてくれるし、たまにお菓子をくれる」
少年が嬉しげに言うと、父親が困った顔をした。
「お前、16だろ。お菓子なんかで機嫌とらされてていいのか」
「っせぇな!まずい飯ばっかで舌が美味いものに敏感になってんだよ」
「そっかそっか。悪かったな」
ぽんぽんと少年の頭をなでると、彼はそれを払いのけた。
「なんで謝りながら子ども扱いしてんだよ!」
「ハハハ、嬉しいんだよ。1年ぶりに息子が帰ってきたんだぞ?なぁ母さん?」
「またそうやってすぐ母さんに助け船を求める」
不満そうにぼやく少年の肩に母親が手を置く。
「でも、年を重ねるごとにあなたは成長してる。ほら、肩の筋肉だってこんなにたくましくなってる」
少年は照れくさくなって、またその手をゆっくり払った。
「恥ずかしいから触んないでくれよ。毎日筋トレとランニングやらされてんだ。嫌でも望まなくてもこんな体になっちまうよ」
「ふぅん。それは大層お疲れなこったな。後でマッサージやってやるか」
「いいよ。今日は寝かせてくれればいいから」
その言葉に父親は不服そうだ。
「なんだよ、こちとら話したいことが山ほどあるんだぞ!なぁ母さん」
「え、えぇ…」
「また母さんに…。困ってんじゃねーか」
1年ぶりに家族と他愛もない話ができているこの状況に少年は言葉にできないが大きな幸せを感じた。
1週間の休暇だが毎年思うのが復帰が辛い。家で過ごす快適で暖かな生活が1年の疲れを吹き飛ばし、癒してくれる。だからこそ、またあの辛い日々に戻るのが苦痛なのだ。
また1年間軍事活動か…と毎年思う。もちろん強制参加なので反抗はできない。
と、空に目をやった。いつの間にか黒い雲がが空を埋め、月が隠れてしまっていた。
「おい、こりゃやばそうだな。急いで帰るか」
そう言っている間にぽつぽつと雨が降り始めた。
「雨が降るなんて聞いてないぞ」
3人は手で頭を覆い、小走りで家へ向かった。
雨はすぐに量を増やしていき、本降りになるまであっという間だった。夕立のように、嵐のように3人を容赦なく打ちつける。
「家までまだある。雨宿りしよう」
父親の提案で3人は最寄りの建物の下へ移動した。
さっきまで涼しいと感じていた風も今は冷たい。雨で体が濡れた、その体感なんだろうが。
「冷えるな。帰ったらすぐに風呂にしよう」
「そうね。風邪ひいちゃうわ」
5分。
10分。
15分。
一向に土砂降りは止む気配がない。3人は寒さで震えていた。
沈黙の中、母親が口を開いた。
「父さん、もう帰らない?止む気配もないし、このままじゃ体が冷えちゃうわ」
父親もそれには異議なしのようだ。少年の顔を覗き込む。
「早く帰ろう、な?」
少年は頷き、2人と共に歩き出す。そして速度を上げた。
不思議にも周りには誰の人影も見えなかった。夜遅いのもそうだが、車1台も走っていないのはどういうことだろう。
相変わらず冷えた風が体を吹きつけ、鼻水が出てきた。
「全く、ツイてないなぁ。せっかく帰ってきたきた1日目だってのに」
父親がぼやく。
「空には祝福されなかったけど、父さんと母さんには祝ってもらったから、それで充分だよ」
と、少年が返したあとは再び沈黙が続いた。
高級料理店に連れて行ってくれたのは嬉しいのだが、父親が知人に車を貸してしまっていたため徒歩で行くことになった。近くにファミリーレストラン等があるので少年はそれでいいと言ったのだが、1年ぶりに会えたんだからファミリーレストランなんかで祝えない、とほぼ論破され豪勢な中華料理を御馳走してもらったということだ。
1年ぶりに食べる普通の食事は、それはそれは舌がとろけるほどだった。軍にいるときは戦時中と同じ扱いのため、お粥と味噌汁しか出してくれなかった。たまに上官の若い軍人―アルハ二等兵がくれるイェドルィンの菓子は本当に美味しかった。
俺はこの国イェドルィンの中級戦軍隊『市砲』(しほう)の下で訓練兵として日々を生きている。
なぜ少年がこれほどなまでに訓練を強要されているのか。それには大きな理由がある。
「2人とも、止まれ」
不意に父親が止まり、後から続く2人に手で制する。
まさか、それはないだろうとは思っていたが嫌な予感はすぐに的中した。
黒い皮膚に赤い目、長く足元あたりまで伸びた鉄よりも硬く鋭い爪。こいつが全ての理由だ。
そいつは3人を赤く光る眼でにらみながら、じりじりと歩み寄ってくる。速度は遅いが住宅街の狭い路地に入ってしまっていたため、横切って逃げることはできない。
となれば、引き返せばいい。
「あぁ、こっちにも!」
母親が叫ぶ。目をやると、いつの間にか10メートルくらいまでもう一体が近づいて来ていた。
マズい。当然武器は今はない。
「俺がうまく陽動する。父さんと母さんはその隙に逃げて」
少年の言葉に父親は納得できない。
「なに言ってんだ!お前1人残して行けるわけないだろ!」
「そうよ!あなたは大事な一人息子だもの!危険にはさらせない!」
母親も便乗して少年に言う。刻一刻と奴らは迫ってきているのだ。言い争いをしている場合ではないのに。
すると、父親が一歩前に出た。
「なんのつもりだ」
「父さんがお前らを守る」
少年は驚愕した。
「なに言ってんだよ!3人で逃げるんだよ!」
「これしか方法はない!今は頭が働かないんだ!早く行け!」
なんて馬鹿なことを!本当に死ぬ気か!少年は目に涙を浮かべ、動くことができなかった。
「母さん、頼む!俺もすぐ追うから!」
父親はそう言い、目で母親に合図した。
「早く!」
彼はそう言い、前方から来る魔物に突っ込んでいった。母親は少年の手をとってその横をすり抜ける。
「母さん!なにしてんだよ!離せよ!」
少年は強引に手を払い、戻ろうとした。が、また腕をつかまれる。
「いい!?男の覚悟ってのは一度決めたら折れないものなの!あなた、そんなことくらい分かるでしょ!?父さんは死なない!今は父さんを信じなさい!」
肩を揺さぶり、少年を諭す。彼は目に潤い始めていた涙を腕で拭い、小さく頷いた。
2人は足早にその場から離れた。
ゲリラ豪雨に匹敵するほどの雨が2人を打ちつける。少年はムシャクシャして刈り上げ頭を掻き回した。なんて馬鹿な父親だ。
T字路を右に曲がったところで、母親の後ろを走っていた少年は立ち止まった。母親も立ち止まる。
「どうしたの?」
「俺、やっぱ戻る。父さんを置いては帰れない」
今度こそ戻る。母親は少年の手をとろうとしたが、それより前に少年は走り出していた。
「待って!待ちなさい!」
彼女も慌てて後を追う。焦る気持ちを抑えて。
T字路を来た道通り曲がると、さっきの道に出る。少年は立ち止まっていた。
「…そんな」
少年は前方を見て、そして立ち尽くしていた。
視界がおかしくなりそうだ。口が震え、足の力が抜ける。
父親は地面に倒れ伏していた。2体の魔物に囲まれて、血を流している。腹を切り裂かれたようで、腹部がぱっくりと割れていた。
最初はショックで気が動転するとかではなく、現実を受け止めきれずただ立ち尽くしていた。
その横を母親が通る。
「あなた!」
その声に魔物2体がこちらに気付く。赤く光る眼を母親に向ける。
彼女はそれにも構わず、父親に駆け寄っていく。
少年は我に返り、再び前方を見た。母親が魔物2体に向かって走って行っているではないか。いや本当は倒れている父さんに…!
「母さん!なにしてんだ、戻れ!」
元はといえば俺のせいだ。止めなければ、と少年は走り出した。それはもう無我夢中でだ。
「嘘・・・!嘘よ・・・!あなた!」
魔物2体の間を押し入って彼女は父親の元にしゃがみ込む。
「あなた!返事して!」
「ミネコ・・・済まない。しくじっちまった・・・」
「まだ間に合うわ!救急車を―」
「・・・てか・・なに・・・戻ってきて・・・んだ。セキトを・・・連れて逃げろって・・・言っただろ!」
2体の魔物が彼女を見下す。そのうちの1体が腕を振り上げた。
「逃・・・げ・・」
視界がぼやける。ミネコがなにか叫んでいるがほとんど何も聞こえない。
ただ逃げろ、とだけ祈った。
頼む・・・セキト。
爪が振り下ろされる、その刹那。
しゃがみ込んでいたミネコを少年―セキトが抱えて離脱した。その驚異的なスピードに魔物2体は一瞬固まる。
「ふぅ、間に合った。母さん、大丈夫か?」
母親―ミネコを降ろすと、彼女は静かに泣き始めた。それを見てセキトは拳を握りしめる。
「母さん、逃げろ!」
セキトはそう言うなり魔物に走り出す。
「セキト!」
「うああああぁぁぁぁ!!」
片方の魔物が振り上げた手を両手でつかむ。そしてそれを背に負い、全体重をかけた。
が、予想以上の重さで持ち上がらず、隙が生まれた。
魔物の蹴りが胸を強打し、地面に吹っ飛ぶ。
「げほッ」
「セキト!なんであなたまでなんで・・・」
胸の痛みに耐えながら顔を上げると、まだミネコは逃げておらず俺を心配そうにのぞきこんでいた。
「逃げろって言ったじゃねぇか!」
「1人で逃げられるわけないでしょ!このバカ息子!」
「いいから逃げろって!」
起き上がると魔物1体が飛びかかってきていた。ミネコを押し、避ける。
「母さん、少なからず俺はやり慣れてる。先に風呂沸かして待っててくれよ!父さんも助けるから!」
そう言ってミネコを押す。セキトの迫力に負けたのか、彼女は走り出した。
「警察と救急車、呼んでくる!」
よし・・・!セキトはその背中に安堵し、魔物の方を向き直った。
「あれ・・・」
2体だったはずの魔物は1体に減っていた。逃げるなんてことはない。またも嫌な予感が頭をよぎった。
近くにいる魔物は、どういうわけか動かない。セキトはそれを確認し、再びミネコが走っていった方に目を向けた。
案の定、魔物が飛び上がってミネコの背後に回っていた。雨の音のせいか、彼女はそれに気づいていない。
セキトは全力で走り出した。母の背中に手を伸ばす。距離がありすぎる・・・!
届かない・・・!
「母さああああああああああぁぁぁぁん!!」
避けろ!、と言おうとしたが、遅かった。
ミネコがこちらを振り返った瞬間、上にいた影が下りた。爪が腹部に食い込む。
「あ・・・が・・」
ミネコは両手で爪をどけようとするが、力が入らず叶わなかった。魔物はそのまま彼女を持ち上げる。
セキトは膝をついていた。
「止めろ・・・止めろ止めろ止めろ止めろ!」
だがセキトの念もまた叶わず、ミネコはコンクリートの壁に投げ飛ばされた。彼女の携帯電話が地面に転がる。
セキトは脱力してしまった。雨が打ちつける中、彼の頭は真っ白になってしまった。
どうなってんだよ・・・。
なんで・・・。
拳にはいる力が強くなる。
父さんも母さんも・・・やられた。まるで2人しか狙っていなかったかのように。
なぜだ。
なぜ・・・
今日は幸せな団欒が待っているんじゃなかったのかよ・・・?なんだよ、これ・・・?
「なんだよこれは!!」
虚無に響く空しい声。
10分前に降り出した滝のような雨は―。
止むことを知らないかのように降り続けていた―。