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婚約破棄専門の悪役令嬢は、今回もあなたの幸せを願っている

掲載日:2026/10/22

王国の社交界には、ある令嬢を指す有名なあだ名があった。


婚約破棄専門令嬢。


その不名誉なあだ名の持ち主は、ほかでもない、ベロワーズ侯爵家の一人娘、フローラ・ベロワーズだった。


十九歳という若さですでに三度もの婚約破棄を経験した令嬢。 社交界の嘲笑の的となるには、それだけで十分すぎる理由だった。


ある者は、相手をうんざりさせる才能でもあるのだろうと陰口を叩き、またある者は、三度も婚約者を変えたのだから、純真そうな見た目に反して、相当な遊び人なのだろうと決めつけた。


もっとも、実際にフローラと言葉を交わしたことのある者ならば、その噂にいささかの違和感を覚えたことだろう。


フローラ・ベロワーズは、世間の評判とは裏腹に、いたって淑やかな令嬢だった。


とはいえ、物静かで優雅なだけの令嬢というわけではない。まだ年相応のあどけなさと、おてんばな一面を残した少女でもあった。


だからといって、人の心を平気で踏みにじったり、自分の利益のために他人を利用したりするような人間ではなかった。 むしろ、フローラは正反対の人間だった。


「それで、本当にいいの?」


テーブルにカップを置き、侯爵夫人はそっと娘に問いかけた。


「え?」


「今度のお話よ」


フローラはカップを両手で包み、こくりとうなずいた。 香り高い紅茶には、まだ温もりが残っていた。


「アーデン公爵様のことですよね?」


「ええ。名門中の名門で、若くして家を立派に治めていらっしゃる方ね。……もっとも、それだけに重責を担うお立場でもあるのでしょうけれど」


侯爵夫人は、そこで言葉を切った。


その先に続くはずだった言葉も、口にするのをためらった理由も、フローラには容易に察しがついた。


―今度も、婚約が破談になってしまったら。


たとえ相手がアーデン公爵であろうと、三度もの婚約破棄を経験した令嬢に向けられる世間の目が、そう簡単に変わるはずもなかった。


むしろ今度は、これまで以上に多くの者が、彼女の行く末を見届けようとしているのかもしれない。 四度目の婚約までもが破談に終われば、社交界がどれほどの噂で沸き立つかなど、考えるまでもなかった。


「確かに、今度も婚約が破談になれば、家の名誉に傷がついてしまうかもしれませんね……」


「そんなことを心配しているのではないわ。あなたがまた、相手のためだと言って身を引いてしまわないか。……あなた自身が不幸になってしまわないか。それが何より心配なのよ」


案じる母の言葉に、フローラは少し困ったように微笑んだ。


三度の婚約破棄。


けれど、そのいずれも、フローラが相手を嫌いになったからでも、相手から見限られたからでもなかった。


最初の婚約者は、学問への熱い思いを胸に秘めていた。


家の跡継ぎとして定められた道を歩まねばならない。その責任を前に、夢を諦めようとしていた彼に、フローラは別の道を選ぶこともできるのだと告げた。


幾度も言葉を交わし、互いの思いを確かめた末に、二人は婚約を解消した。 彼は今、学会でその名を知られる学者となっている。


二人目の婚約者は、家業という重責に押しつぶされそうになっていた。


フローラは彼に、自分の才覚を生かせる場所が、必ずしも家業である必要はないのだと話した。


やがて彼は弟に経営を託し、自らの才を生かせる事業を興した。


三人目の婚約者は、その何よりも音楽を愛していた。


けれど、貴族の男性が音楽家として生きることなど、家の体面を思えば、そう簡単に許されるものではなかった。


フローラは、彼の奏でる音楽が好きだった。 誰よりも、その音色を愛していた。


だからこそ、彼が一生その情熱を胸の奥に押し込めたまま生きていく姿など、想像したくもなかったのだ。


そうして、三つの婚約は終わりを迎えた。


もちろん、フローラもわかっていた。 夢を追い求めることだけが、いつだって正しいとは限らない。


夢を諦めた先にある人生にも、思いがけない幸せが待っていることはある。 望んだものを手にできなかったからといって、その人生が不幸に染まるとは限らないのだ。

かつて心から望んだものを手放すことも、また一つの勇気なのだろう。


フローラは、そうした生き方を否定したくはなかった。


誰かのために何かを諦めることも、自分の望む人生を手にするために、すべてを手放すことも。 その選択を下すのは、ほかでもない本人自身であるべきだった。


ただ一つ、願うことがあるとすれば。


誰かの期待に押しつぶされ、自分が本当は何を望んでいるのかさえ、わからなくなってしまうことだけは、あってほしくなかった。


そして、フローラの目には、三人の婚約者は皆、自分自身の心に背を向けているように映っていた。


だからこそ、彼女は彼らに問いかけたのだ。


本当に、それでいいのかと。 別の道を選んだとして、後悔はしないのかと。


そして、彼らがようやく胸の内に秘めていた思いを打ち明けたとき、フローラはためらうことなく、その手を放した。


それが、彼女にできる精いっぱいのことだと思ったから。


けれど、母は娘の選択を尊重しながらも、心のどこかで案じずにはいられなかった。


果たしてその選択は、いつだってフローラ自身も幸せにするものだったのだろうか、と。


「フローラ。あなたは、あの人たちが幸せになることを、心から願っていたのでしょう?」


「もちろんです」


フローラは、少しのためらいもなく答えた。


三人は皆、自ら選んだ道を歩み始めている。 そして今、それぞれの人生に満足しているのなら、フローラにとっても喜ばしいことだった。


自分と婚約したままであれば、決して手にすることのできなかったかもしれない幸せなのだから。


「あなたは?」


「……はい?」


「あなた自身は、幸せなの? フローラ」


「私は……」


フローラは、紅茶の水面に揺れる自分の顔を、しばし見つめていた。


「幸せです。お父様もお母様もいらっしゃいますし、私を大切に思ってくださる方も、たくさんいますから」


「私たちも、あなたには幸せでいてほしいのよ」


侯爵夫人は、そっと娘の手に自分の手を重ねた。



******



アーデン公爵家から縁談が持ち上がったという知らせは、王都を瞬く間に駆け巡った。


無理もない。 王国でも指折りの歴史と格式を誇る公爵家の当主が、妻となる相手を探している。その噂だけでも社交界が色めき立つには十分だった。ましてや、その相手が三度の婚約破棄を経験したフローラ・ベロワーズとなれば、なおさらのこと。


今度もまた、婚約は破談に終わるのか。 それとも、ついに公爵夫人の座に落ち着くのか。


どちらに転んでも、格好の見世物となるに違いなかった。


だが、噂の渦中にある当のレオナールは、婚約にも、ひいては結婚そのものにも、これといった関心を抱いていなかった。


アーデン公爵家の当主となったその日から、レオナールの人生は、もはや彼一人のものではなくなった。 彼の下す一つ一つの決断には、一族の行く末と、数多くの人々の暮らしが懸かっていた。


婚姻もまた、例外ではない。


跡継ぎをもうけることは、貴族として当然果たすべき務めだった。差し迫って後継者が途絶える危険があるわけではない。とはいえ、いつまでも婚姻を先延ばしにできる状況でもなかった。


問題は、レオナール自身に結婚したいという気持ちが微塵もないことだった。


彼にとって結婚とは、愛の結実というより、いつか片づけなければならない課題に近かった。


互いを尊重し、必要とあらば喜んで相手に寄り添い、何より、共に生きることが双方にとって不幸にならないこと。


それだけで十分だった。 しかし、貴族社会においては、その程度の条件でさえ、思いのほか満たしがたいものだった。


ある令嬢は公爵夫人という地位を望んだ。 またある令嬢は、王家と縁の深い家との婚姻によって、自らの家門をさらなる高みへ押し上げようとしていた。 そして中には、レオナールの無関心を、かえって攻略すべき難題と捉えているかのような令嬢までいた。


そうした縁談が重なるにつれ、レオナールは結婚という制度そのものに疑念を抱くようになっていた。


ある者は彼を愛していると告げ、またある者は家門のためなら何もかも受け入れると誓った。 けれど、彼女たちの言葉には、決まって何かしらの望みが伴っていた。


愛を告げた令嬢は、自分にも同じ愛を返してほしいと願った。 家門のために身を捧げると誓った令嬢は、その犠牲に見合うだけの地位を求めた。


それが間違っているとは思わなかった。 人にはそれぞれ望みがある。婚姻によって何かを得たいと考えること自体、責められるべきことではない。


ただ、レオナールには、誰かの期待に応えるために自分の人生を取り繕うつもりなどなかった。 そもそも、心にもない愛情を演じることは、相手に対しても失礼な振る舞いだろう。


結局のところ、必要なのは妥協だった。


己の務めを果たしながらも、互いの人生に必要以上に踏み込まない相手。


「フローラ・ベロワーズ嬢……ベロワーズ侯爵家か」


そうした観点から、レオナールは一人の令嬢に興味を抱いた。


フローラ・ベロワーズ。


三度の婚約破棄を経験した令嬢。 社交界で彼女を評する言葉は、おおむね似通っていた。気まぐれだとか、気難しいだとか、あるいは婚約者をつなぎとめることができない女だとか。


噂というものが得てしてそうであるように、その理由については、人によってまるで異なる話が囁かれていた。


「ベロワーズ侯爵家といえば、王妃殿下のご実家とも長きにわたって親交のある家門でございます」


向かいの執事が、書類をめくりながら口を開いた。


「侯爵令嬢ご本人も、王妃殿下がことのほか可愛がっていらっしゃるとか。あらゆる点から見て、良縁かと存じますが」


「……三度も婚約を破棄された令嬢だというのに?」


「それだけでお人柄を推し量ることはできません。そもそも婚約とは、二つの家門の利害が絡むもの。破談に至る事情も、一つとは限りませんから」


「耳にする限りでは、あまり褒められた理由ではないようだが」


「公爵様は、もともと噂などさほどお気になさらないでしょう?」


執事の言葉に、レオナールは顔を上げ、まっすぐにその目を見た。


「私がその令嬢と結婚することを望んでいるのか?」


「少なくとも、これまで検討なさった縁談の中では、最も現実的な選択かと存じます」


レオナールは答える代わりに、指先で机を軽く叩いた。

執事の言い分にも一理あった。


ベロワーズ侯爵家は王家と長年の縁を結んできた名門であり、フローラ自身も王妃にことのほか可愛がられている令嬢だ。家格や評判だけを考えるなら、申し分のない縁談だった。


むしろ、三度も婚約破棄を経験しながら、侯爵夫妻が娘の縁談探しを諦めていないこと。そして、婚約破棄以外に目立った醜聞がないことは、注目に値した。


本当にフローラに深刻な問題があるのなら、王妃がどれほど可愛がっている令嬢であろうと、社交界で今のような扱いを受けていられるはずもない。


「ベロワーズ侯爵令嬢なら、少なくとも私に過度な期待を寄せることはないだろう」


三度も婚約を破棄した令嬢だ。 その理由が何であれ、婚約を何としてでも成立させなければならないと躍起になっている人物ではない可能性が高い。


もっとも、それも今のところは推測にすぎないが。


「……まあ、まずは会ってみてから判断するしかないか」


こうして、王国で最も名高い婚約破棄専門令嬢のもとに、王国で最も結婚に関心のない公爵から、縁談が舞い込んだのだった。



******



第一印象は、想像していたよりもずっと小柄で、愛らしい令嬢だというものだった。


とはいえ、レオナールはそんな感想を表に出すほど軽率な男ではない。


「初めまして、公爵様。フローラ・ベロワーズと申します」


裾を優雅につまんで挨拶する令嬢の姿には、何一つ非の打ちどころがなかった。 柔らかな声に、整った所作、そして相手をまっすぐに見つめる澄んだ瞳。 社交界に流れる噂だけを頼りに思い描いていた人物像とは、ずいぶんと隔たりがあった。


小柄で、あどけなさの残る顔立ちは、実年齢よりも幼い印象を与える。 かといって、子供のように見えるかといえば、そうでもなかった。


きちんと仕立てられたドレスの下に描かれる身体の曲線は、顔立ちに残る幼さとはまた違った印象を醸し出していた。同年代の令嬢たちの中でも、ひときわ目を引く体つきだろう。


レオナールはそれ以上の感想を深めることなく席を立ち、軽く会釈を返した。


「お会いできて光栄です、ベロワーズ嬢。遠路はるばる、ご足労をおかけしました」


「お心遣いありがとうございます。馬車の旅も快適でしたので、どうぞご心配なく」


フローラは柔らかく微笑み、席に着いた。

互いを見定めるような、束の間の沈黙が流れる。 先に口を開いたのは、レオナールだった。


「ベロワーズ嬢については、いくつか話を耳にしています」


「あら。良いお話だといいのですけれど」


フローラは目を丸くしたかと思うと、すぐにいたずらっぽく笑った。


「でも、私の名前につくあだ名を考えれば、あまり期待できそうにありませんね?」


自分を取り巻く噂を知らないはずもない。それなのに、彼女の態度には無理に明るく振る舞っているような気配がなかった。 かといって、自らの境遇を嘆いている様子もない。 まるで、ずっと昔から聞き慣れている冗談を、軽やかに受け流す人のようだった。


「社交界の噂というものは、えてして大げさになりがちですから」


「そうおっしゃっていただけると嬉しいです。でも、三度も婚約を破棄したのは事実ですもの」


「では、一つお尋ねしても?」


「はい」


「三度の婚約は、いずれもベロワーズ嬢ご自身が望まれたことだったのでしょうか」


フローラは一度まばたきをした。 しばし考えたのち、率直に答える。


「結果としては、そうなりますね」


「結果として?」


「最初から婚約を解消したかったわけではありませんもの。私だって、婚約者の方と幸せに暮らせたらいいと思っていました。でも、一緒に過ごすうちに、その方たちが本当に望んでいることがわかってきたんです」


フローラは、テーブルに置かれたカップへと目を落とした。


「もちろん、その方たちの気持ちをすべて理解できたとは思っていません。人の心というものは、本人でさえ、よくわからないことがありますでしょう? だから、何度も尋ねたんです。本当にそれでいいのか、別の道を選んだら後悔しないのか、と」


「それで、皆さんは別の道を選ぶとおっしゃったのですか?」


「はい。ですから、お送りしたんです」


それがごく当たり前のことだとでもいうように、迷いのない答えだった。


「……その方たちを、大切に思っていらしたのですね」


「あら」


思いがけない言葉を耳にしたとでもいうように、フローラは目を丸くした。 それから、口元に手を添えて小さく笑う。


「そんなふうに言われたのは初めてです。普通は、私がその方たちをそれほど愛していなかったから、簡単に手放せたのだと思われているんですよ」


「大切だからこそ手放せないこともあれば、大切だからこそ手放す勇気を持てることもある。形は違えど、どちらもそれだけ相手を思っていたということでしょう」


フローラは、すぐには言葉を返せなかった。


彼女を褒める言葉なら、これまでにも幾度となく耳にしてきた。


侯爵家の令嬢にふさわしく優雅だとか、王妃殿下が可愛がるのも頷ける愛らしい娘だとか。 そうした言葉は、社交界で交わされるお決まりの挨拶に近いものだった。


けれど、三度の婚約破棄については違った。


ある者は彼女の愚かさを気の毒がり、ある者は相手をつなぎとめられなかったことを嘲った。 婚約者に少しの未練もなかったからこそ、あっさりと関係を終わらせられたのだと決めつける者さえいた。


けれど、誰一人として、彼女がどんな思いで婚約を終わらせたのかを気にかけようとはしなかった。


何と答えればいいのか、わからなかった。

嬉しくないと言えば嘘になる。 けれど、素直に喜びを口にするには、どこか気恥ずかしかった。


「……公爵様って、ずいぶんと面白い方なのですね」


ようやく口をついて出たのは、そんな言葉だった。


「そのように言われることは、あまりありませんが」


表情一つ変えずにそう答えるレオナールを見て、フローラは思わず吹き出した。 その笑顔は、先ほどよりもどこか打ち解けたものに見えた。


「もう一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「もちろんです」


「今回の縁談について、どのようにお考えですか?」


フローラはすぐには答えなかった。 代わりに、カップの取っ手を指先でそっとなぞり、それからレオナールへと視線を戻した。


「正直に申し上げてもよろしいですか?」


「ええ。私も率直なお答えを伺いたくて、そう尋ねたのですから」


「それなら……私は公爵様のことを、もう少し知りたいです」


予想とは少し違う答えだった。

レオナールは、フローラが今回の縁談に前向きなのか、それとも過去の三度と同じように身を引くつもりなのかを確かめようとしていた。 どちらであれ、率直に答えてもらえれば、これからのことを決めるのも容易になるはずだった。


それなのに、自分のことをもっと知りたいという。


縁談を受け入れるという意味なのか。 それとも、まだ判断がつかないということなのか。


「それでは、一つ、あらかじめお伝えしておきたいことがあります」


レオナールは、わずかに言葉を選んだ。 相手に余計な期待を抱かせないためにも、初めから明らかにしておくべきだろう。


「私は、結婚そのものに大きな期待を抱いていません。公爵家の当主として婚姻の必要性は理解していますが、だからといって、必ずしも愛する相手と結婚すべきだとは考えていないのです」


レオナールは、フローラの表情をうかがった。


こうした話を聞いた令嬢たちの反応は、大抵二つに分かれる。 あからさまに失望するか、あるいは、自分なら彼の心を変えられると自信を持つか。


どちらも、彼にとっては歓迎しがたい反応だった。


「もちろん、結婚相手を不幸にするつもりはありません。互いを尊重し、それぞれの務めを果たしながら暮らしていけるのなら、それで十分だと思っています」


彼は一度言葉を切り、さらに続けた。


「ですから、ベロワーズ嬢が愛情を望んでいらっしゃるのなら、私はその期待に応えられないかもしれません」


愛情を望んでいるのなら、その期待には応えられないかもしれない。


慎重でありながらも、明確な一線を引く言葉だった。 相手にいたずらな希望を抱かせまいとする、彼なりの配慮でもあるのだろう。


決して、夢のある言葉ではない。 縁談の席で聞きたい言葉かと問われれば、おそらく大半の令嬢は首を横に振るに違いない。


けれど、フローラはむしろ安堵していた。


―少なくとも、この方は、自分に与えられないものを与えられるとは約束しないのだと。


「正直にお話しくださって、ありがとうございます。私も、誰かに無理に愛されたいとは思いませんもの。愛情というものは、二人の気持ちが同じときにこそ、いちばん幸せなものではありませんか?」


「では、ベロワーズ嬢は結婚に何を望まれるのですか?」


「そうですね……」


フローラはカップを置き、真剣に考え始めた。 先ほどまで迷いなく答えていた様子とは、ずいぶん違っていた。


「私は……一緒にいて、心安らぐ関係がいいです」


しばらく考えた末、フローラはようやく口を開いた。


「いつも楽しかったり、特別なことが起きたりしなくてもいいんです。一緒にお茶を飲んだり、庭を散歩したり、ときにはそれぞれ好きなことをしながら過ごせたりしたら、それだけで素敵だと思います」


そう言って、フローラは少し照れくさそうに笑った。

レオナールは、しばし彼女を見つめた。


思いのほか、ささやかな願いだった。 公爵夫人としての地位も、夫からの愛情も、華やかな暮らしも求めてはいない。 だからといって、与えられた立場にただ甘んじようとしているようにも聞こえなかった。


「そうですか。私も似たような考えです。互いに過度なものを求めず、それぞれの人生を尊重できるのなら、それが一番でしょう」


「それなら、私たち、思っていたよりも気が合うのかもしれませんね」


もしかすると、この令嬢となら、自分の望む結婚生活を送れるのかもしれない。


「ベロワーズ嬢。一つ、提案したいことがあります」


「何でしょう?」


「互いの私生活を尊重し、望まないことを強いないという条件で、婚約を進めるのはいかがでしょうか。結婚した後も、それぞれの関心事や生活を保つのです。もちろん、互いに果たすべき務めは果たす必要がありますが」


フローラは、ぱちりとまばたきをした。


「契約婚約、ということでしょうか?」


「そう考えていただいて構いません。少なくとも、互いに守れそうもない約束を交わさずに済むでしょうから」


レオナールの声は淡々としていた。 彼にとってこれは、どちらも余計な傷を負うことなく、家門の務めを果たすための現実的な方策だった。


「それなら、一つ条件を加えてもよろしいですか?」


「お聞かせください」


「もし、どちらかがこの関係によって不幸になってしまったら、いつでも婚約を考え直せるようにしておきたいんです。お互いのためにも」


「わかりました。ただ、一つだけ、はっきりさせておきたいことがあります」


「はい?」


「婚約を続けるか、終わらせるか。それを決めるのは、双方の権利です。どちらか一方が、相手のために一方的に犠牲になる必要はありません」


フローラは少し驚いたように彼を見つめ、それからゆっくりと微笑んだ。


「はい。お約束します」


彼女は手を差し出した。 握手を求めるその仕草には、どこかいたずらっぽいところがあり、レオナールは思わず視線を落とした。


「これから、どうぞよろしくお願いしますね、公爵様」


レオナールは一瞬ためらい、それからその手を取った。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。ベロワーズ嬢」


こうして、二人の婚約が成立した。


後に王都中の話題をさらう夫婦の始まりとしては、驚くほどあっさりとした約束だった。



******



二人の婚約は、社交界に少なからぬ波紋を広げた。

予想どおりのことだった。


王国屈指の名門、アーデン公爵家の当主であるレオナールは、これまで数多くの縁談を断ってきた人物だった。 そんな彼が、ついに結婚相手を決めたというだけでも、十分に話題となる。


ましてや、その相手があのフローラ・ベロワーズとなれば、なおさらだった。


婚約してからというもの、フローラはたびたびアーデン公爵邸を訪れるようになった。


二人でお茶を楽しみ、庭園を散策する。 時にはそれぞれ好きな本を手に、静かに時を過ごすこともあった。 特別な話題がないまま、一日が過ぎていくことも珍しくなかった。


そのあまりの淡白さは、婚約したばかりの幼い恋人たちのほうが、よほど熱を上げているのではないかと思えるほどだった。


少なくとも、傍目にはそう見えた。


「公爵様、こちらに薔薇が咲いていますよ」


庭園を歩いていたフローラが、ふと足を止めた。 塀のそばに咲く淡い桃色の薔薇が、そよ風に揺れている。



「この前はまだ蕾だったのに、もうこんなに咲いたんですね。本当に綺麗……」


レオナールは薔薇に目を向けた。 彼にとっては、庭に咲く花の一輪にすぎなかったが、フローラはまるで宝物でも見つけたかのように喜んでいた。


「花がお好きなのですか?」


「はい! 特に、こういう色が好きなんです。見ているだけで、気持ちが明るくなるんですよ」


フローラは薔薇に顔を近づけるように、少し身をかがめた。 花びらの先に宿った雫が、陽の光を受けてきらりと輝いた。


「公爵様にも、お好きなものはありますか?」


思いがけない問いに、レオナールはしばし考え込んだ。


好きなもの。


すぐには何も思い浮かばなかった。 嫌いなものならいくつか挙げられるが、好きなものとなると話は別だった。


仕事を終えたあとに飲むお茶は悪くない。 静かな書斎も気に入っている。 時には誰にも邪魔されず、本を読む時間も必要だった。


けれど、それらを本当に好きだと言い切れるだろうか。


「……そうですね。特に思い当たりません」


「それなら、公爵様がお好きなものを見つけたら、私にも教えてくださいね! 私も一緒に嬉しくなりたいですから」


そう言って、フローラは再び薔薇に目を向けた。


好きなものが見つかったら教えてほしい、だなんて。 なんとも不思議な頼みだった。


これまで、自分にそんなことを言った者がいただろうか。


花を眺めるフローラの顔には、先ほどと変わらぬ笑みが浮かんでいた。 何かを教えてもらえるというだけで、彼女は嬉しいらしい。


ふと、レオナールは思った。


次に同じことを尋ねられたときには、もう少しまともな答えを返したい、と。


理由は、特になかった。 ただ、次に彼女から同じ質問をされたとき、今回のように何も思い浮かばないと答えるのは避けたかった。


「公爵様?」


「いえ、何でもありません。そろそろ中へ戻られたほうがよいかと思いまして」


「あら、もうそんな時間なのですか?」


フローラは名残惜しそうに、もう一度だけ薔薇を振り返った。


その姿を見つめながら、レオナールは思った。


次に彼女が訪れるまでに、庭にもう少し花を植えておくのも悪くない、と。



******



フローラがアーデン公爵邸を訪れる日は、少しずつ増えていった。


初めのうちは、婚約者として互いを知るために設けられた逢瀬だった。けれど、いつしか二人は、これといった理由がなくとも、ごく自然に会う約束を交わすようになっていた。


たとえば、読み始めたばかりの本について話したいとフローラが訪ねてきたり、公爵邸の庭に新しい花が咲いたと聞いて、ぜひ見てみたいと足を運んできたり。


レオナールは、そんな彼女の訪問を煩わしいと思ったことはなかった。


むしろ、執事からフローラの来訪を告げられると、手にしていた書類を置き、応接室へ向かうことが、いつの間にか当たり前になっていた。


「近頃は、フローラ様がお見えになる日は、少し早めにお仕事を切り上げていらっしゃいますね」


その変化に真っ先に気づいたのは、長年にわたって公爵に仕えてきた執事だった。


「客人を待たせるわけにはいかないだろう」


「おっしゃるとおりです。ですが、数日前までは、お客様がお見えになっても、お仕事を終えられる時刻に変わりはなかったように記憶しておりますが」


「……」


執事の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


それ以上、彼は何も言わなかった。けれど、部屋を出ていくその瞬間まで緩んだ口元が元に戻ることはなかった。


その日の午後、フローラはいつもより少し遅れて公爵邸に到着した。


馬車を降りる際、危うく裾を踏みかけたらしい。そんな話を侍従から聞いていたレオナールは、応接室で彼女を迎えると、気遣わしげに尋ねた。


「こちらへ来る途中、何かありましたか?」


「あ、いえ、大したことではありません。私が少し急いでいただけですわ。公爵様にお見せしたいものがあったものですから」


そう言って、フローラは傍らに控えていた侍女から、小さな箱を受け取った。


蓋を開けると、中には数枚の栞が整然と並べられていた。


細いリボンと押し花で飾られた栞は、一つひとつ意匠が異なっている。


「ご自分で作られたのですか?」


「はい。少し前に本を読んでいて、栞が欲しくなったので作り始めたんです。そうしたら、思いのほか楽しくて……それで、公爵様もよく本をお読みになるなと思ったら、つい……」


少し照れくさそうに言葉を濁し、フローラは頬を赤らめた。

レオナールは箱の中を覗き込んだ。


押し花は栞ごとに異なる表情を見せ、リボンの色もそれぞれ違っている。縫い目も均一で丁寧な仕上がりだった。ひとつひとつ、手間をかけて作られたものらしい。


「もしよろしければ……受け取っていただけませんか?」


レオナールは箱の中から、淡い青色のリボンで飾られた栞を一枚取り出した。小さな押し花が、リボンの下にそっと添えられている。


「では、こちらをいただきましょう。次に読む本に挟んでおくとよさそうですね」


「本当ですか? よかった!」


フローラは心から嬉しそうに笑った。


栞を一枚渡しただけだというのに、まるで贈り物を受け取った本人よりも、贈った彼女のほうが喜んでいるようだった。


その姿を眺めながら、レオナールはふと思った。


自分も、彼女に何かを贈りたい。

花でも、本でも、あるいは彼女が喜びそうな何か別のものでもいい。


彼女が自分に小さな喜びを分けてくれたのだから、自分も彼女に、同じようなひとときを贈ってみたかった。


書斎へ戻る途中、庭を横切っていたレオナールは、折よく出会った庭師に、新しい花を植えるよう言いつけた。


フローラの好きな、淡い桃色の薔薇をもう少し増やしておくのも悪くないだろう。


庭師は一瞬、公爵の顔を見つめてから、恭しく頭を下げた。


「かしこまりました、公爵様」


その声には、どこか含みのある笑いが混じっていた。


レオナールは気づかないふりをした。


この屋敷には、どうやら察しのいい者がずいぶんと多いらしい。



******



フローラもまた、アーデン公爵邸を訪れる日が待ち遠しくなっていた。


初めのうちは、ただ婚約者として互いを知っていくための時間なのだと思っていた。


レオナールは、そっけない第一印象とは裏腹に、思いのほか話しやすい人だった。彼と一緒にいると、無理に場を盛り上げようとしたり、何かを証明しようと躍起になったりする必要がない。


言葉の途切れた沈黙さえ気まずくはなかったし、自分の好きなことについて話せば、彼は面倒がる素振りも見せずに耳を傾けてくれた。


彼の好むお茶を覚えておいて、贈り物にする。 新しく読んだ本が面白ければ、真っ先に彼に話したくなる。


公爵邸の庭に淡い桃色の薔薇が増えたと聞いたときなど、自分が何気なく口にした言葉を覚えていてくれた。それだけのことが嬉しくて、一日中、心が浮き立っていた。


「……困ったね」


鏡台の前に腰掛けたフローラは、両手で頬を包み込んだ。


いくら考えてみても、どうやら自分はレオナールのことが好きになってしまったらしい。


「こんなの、いけないのに……」


小さく呟いてみたものの、口元に広がる笑みまでは隠しきれなかった。


契約婚約であることを忘れたわけではない。レオナールは初めから、愛を約束することはできないと言っていた。フローラもまた、その条件を承知のうえで彼との婚約を受け入れたのだ。


だから、自分の気持ちに気づいたからといって、彼に何かを求めるつもりはなかった。


けれど。


「好きになってしまったものは、仕方がないもの」


一度芽生えた想いを、なかったことにはできない。


それならせめて、今のように彼と一緒にいられる時間を、大切にしていこう。


いつかこの婚約が終わりを迎えるとしても、彼と過ごした日々が、自分にとって幸せな思い出として残るように。


フローラは、そう心に決めた。


―できることなら、このまま婚約が解消される日など来なければいい。


そんなささやかな願いを、ほんの少しだけ胸に忍ばせながら。



******



二人の婚約生活は、穏やかに続いていた。


時折、社交界の噂が耳に入ってくることもあった。


公爵は本当に侯爵令嬢を愛しているのか。 二人は結婚したあとも、今のような関係を続けていけるのか。 まさかフローラは、四度目の婚約までも解消してしまうのではないか。


そんな話を耳にするたび、フローラは少し困ったように笑った。


「まだ結婚もしていないのに、ずいぶんと心配してくださる方が多いのですね」


そう言って笑い飛ばしてはいたものの、噂がまったく耳に入ってこないわけではなかった。


とりわけ、レオナールは自分を愛していないという話は、わざわざ聞き耳を立てずとも、いくらでも耳に入ってきた。


二人がひどく淡白な関係を保っていることは、社交界でもそれなりに知られていたのだ。


もちろん、フローラにそれを否定するつもりはなかった。


そもそも、レオナールは一度たりとも、彼女に愛を約束したことなどないのだから。


彼が自分を大切にしてくれていることは、よくわかっていた。訪ねるたびに時間を作ってくれるし、自分が何気なく口にしたことまで覚えていてくれる。


けれど、それが必ずしも愛を意味するわけではない。

フローラは、その違いを理解していた。


「心配というより、面白がっているだけのようにも思えますが」


傍らから聞こえた声に、フローラは顔を上げた。

いつの間にか、レオナールがすぐそばに立っていた。


「公爵様」


「何を考えていらしたのですか?」


「あ、いえ、大したことではありません。私たちの婚約について、少し噂を耳にしたものですから」


フローラは軽く笑った。

自分に向けられる陰口には、もう慣れていた。いちいち反論する価値もない言葉に、心を煩わせる必要はない。


ただ、レオナールまでそんな噂を耳にしているのかと思うと、少し申し訳ない気持ちになった。


「私の噂は、もともとあんな調子ですから。公爵様にご迷惑がかからなければ、と……」


「私は、さほど困ってはいませんよ。人々が何を噂しようと、自分の務めを果たし、大切な人たちと良好な関係を築いていれば、それで十分ですから」


「大切な人……」


フローラは、思わずその言葉を繰り返した。

レオナールは特に説明することもなく彼女を見つめていたが、やがて何事もなかったかのように話題を変えた。


「今日は庭に新しい花が咲いたと聞きました。見に行きませんか?」


「はい!この前、植えてくださった花ですよね?」


フローラの顔が、たちまち明るくなった。

嬉しそうに先を歩き始めた彼女のあとを、レオナールはごく自然に追った。


彼は、フローラが先ほど何を言いかけたのか、わかっていた。


自分のせいで困ったことにならなければいい―-。


それはきっと、彼女がこれまで三度の婚約を解消するたび、相手に向けてきた言葉でもあるのだろう。


彼女はいつだって、ほかの誰かを先に考える。


相手が何を望んでいるのかを尋ね、その人が心から願う道を見つければ、ためらうことなく送り出す。自分がその選択によって何を失うのかは、そのあとで考えればいいのだ。


そんなフローラのことが、レオナールには時折、理解しがたく思えた。


いや、理解できないわけではない。むしろ、理解できる気がするからこそ、どこか心に引っかかるのだった。


ふと、レオナールは想像した。


いつか彼女が、自分に向かっても同じことを言う日が来るのではないか、と。


自分の望む道が見つかったから、もうここでお別れにしましょう。 あなたが幸せなら、私も嬉しいです。


そう言って、いつものように優しく笑うフローラの姿を。


想像の中の彼女は、普段と何ひとつ変わらない笑顔を浮かべていた。

それなのに、どういうわけか、その姿を見ているのがひどく気に入らなかった。


「公爵様? どうかなさいましたか?」


先を歩いていたフローラが振り返った。


レオナールはそこでようやく、自分が足を緩めていたことに気づいた。


「何でもありません」


そう答え、再び彼女の隣へ歩み寄る。


もしフローラが、自分ではない誰かに笑いかけるようになったら。


こうして一緒に庭を歩くことも、本の話をすることも、自分の知らない花の名前を教えてもらうことも、もう自分のものではなくなったら。


それはきっと、ひどく居心地の悪いことだろう。


胸の奥が、何かに塞がれたように重くなった。


だからといって、彼女を引き留める理由があるわけではない。

二人は初めから、互いの生き方を尊重すると約束していた。


フローラが別の道を選ぶのなら、自分はその選択を尊重すべきだった。


それなのに。


「……公爵様?」


フローラが心配そうな顔で近づいてきた。


「どこか具合でも悪いのですか? 少し顔色が優れないようですが……」


不安げに自分を見上げる彼女を前に、レオナールはようやく何かを悟ったように、小さく呟いた。


「ベロワーズ嬢」


「はい?」


フローラが自分のそばを離れていく姿を想像したとき、彼は初めて、自分が何を望んでいるのかを知った。


彼女に幸せでいてほしい。


誰よりも、自分と一緒に幸せになってほしい。


それは、フローラがかつて婚約者たちに願ったものと似ているようで、少し違っていた。


彼女が望む道を見つけられるよう、手放してやる。それだけでは、もう満足できなかった。


「見つけたようです」


「え? 何をですか?」


フローラはわけがわからないといった様子で、小首を傾げた。

レオナールはそんな彼女を見つめ、それからゆっくりと口を開いた。


「好きなものが見つかったら、教えてほしいとおっしゃいましたね」


「あ……!」


フローラの顔に、ぱっと喜びが広がった。


婚約してからというもの、彼女は何度も同じ質問をしてきた。けれど、レオナールはそのたびに、まだよくわからないと答えるばかりだった。


それが今回は、ようやく何か気に入るものを見つけたらしい。


「どんなものを見つけたのですか?」


期待に満ちた顔で尋ねるフローラを、レオナールはしばらく見つめていた。


これまで幾度となく言葉を交わしてきたというのに、いざ口にしようとすると、どういうわけか、言葉が思うように出てこなかった。


「フローラ嬢」


「はい!」


名前を呼ばれ、フローラは元気よく返事をした。


けれど、いくら待っても、レオナールの口から次の言葉は出てこない。


お気に入りの本でも見つけたのかしら。 それとも、よくお茶を召し上がるから、お茶のこと? あるいは、思いもよらないものだったりして。


そんなことをあれこれ考えていたフローラの頭が、ふいに真っ白になった。


彼は笑っていた。


いつも冷静で、表情を崩すことの少ない彼の顔に、フローラが今まで一度も見たことのない、柔らかな笑みが浮かんでいた。


「フローラ嬢が好きです」


「……え?」


確か、先ほどは何かを見つけたと言っていたはずだ。


どうして、そこで自分の名前が出てくるのだろう。


「あ、あの、公爵様。今、何と……」


「好きなものが見つかったと申し上げたのです」


あまりにも淡々とした返答だった。


まるで、今日、庭に薔薇が咲いたとでも教えるかのように。


けれど、その言葉の意味を遅れて理解したフローラの顔は、瞬く間に赤く染まった。


耳の先まで真っ赤になり、何かを言おうとしては口を閉じる。それを何度も繰り返した。


「あ、あの……」


フローラは、行き場を失った指先をもじもじと動かした。


いつもなら、相手がどんなことを言っても、それなりに返事ができるはずなのに。今はもう、頭の中がすっかり混乱してしまっていた。


「私のことを……お好き、なのですか?」


ようやく確かめるように尋ねると、レオナールは頷いた。


「ええ、フローラ嬢が好きです」


今度も、ためらいのない返事だった。


フローラは両手で赤くなった頬を覆った。


これまで一緒に過ごすなかで、レオナールが自分に優しいと感じたことは何度もあった。

けれど、そのすべてが、自分を好きだからだとは思いもしなかったのだ。


しばらく赤い顔を両手で覆っていたフローラは、やがてそっと手を下ろした。


「公爵様は、初めに、愛を約束することはできないとおっしゃいましたよね」


「そうでしたね」


「私も、そのお言葉は理解していたつもりです。だから、公爵様が私を大切にしてくださることも、一緒に時間を過ごしてくださることも、婚約者として当然のことをしてくださっているのだと思っていました。もちろん、それだけでも十分に嬉しかったのですけれど……」


少しずつ落ち着きを取り戻していたフローラだったが、最後まで言い終えると、また頬を赤らめた。


「ですが、今は少し欲が出てしまいました」


「欲、ですか?」


「ええ。初めは、あなたと一緒なら、互いに無理なことを求めずとも、うまくやっていけると思っていました。あなたなら、私が愛を約束できなくても理解してくださるだろうと」


レオナールは、そっとフローラの手を取った。


「初めは、あなたと過ごす時間が心地よいのだと思っていました。けれど、今ならわかります。あなたといる時間が心地よいのは、あなたと一緒にいるからなのだと」


握られた手から伝わる温もりが、いつになく鮮明に感じられた。


「そして、あなたが私のそばを離れていく姿を想像したとき、ようやく自分が何を望んでいるのかがわかりました。私は、あなたに幸せでいてほしい。できることなら、その幸せを私と一緒に味わってほしいのです。あなたが別の場所で幸せになる姿を祝福するだけでは満足できないほど、あなたを好きになってしまいました」


フローラは、しばらく彼を見つめることしかできなかった。


頭の中ではさまざまな思いが駆け巡っていたけれど、いざ口にしようとすると、言葉がなかなか見つからない。


彼女はレオナールを好きになった。


そのことに気づいてからも、自分の気持ちを彼に伝えるつもりはなかった。


それなのに、レオナールのほうから先に想いを告げてくれた。


しかも、ずっと聞きたかった言葉を。


そんな言葉を聞かされてもなお、勇気を出せないほど、フローラ・ベロワーズはおとなしい性分ではなかった。


フローラは赤くなった顔を少し伏せた。

まだ恥ずかしさは残っていたけれど、きちんと伝えたかった。


誰かの気持ちを思いやることには慣れていても、自分の気持ちを正直に打ち明けるのは、思っていた以上に難しい。


「私も、公爵様が好きです」


レオナールの目が、わずかに見開かれた。

彼がそんな表情を見せるのは初めてだった。


フローラはそれが少し嬉しかったけれど、いざ見つめ合うと、また顔が熱くなってしまい、慌てて言葉を続けた。


「初めは、私だけが好きになってしまったのだと思っていました。公爵様は、愛を約束することはできないとおっしゃっていたから。だから、ただ……今のように一緒に過ごせるだけで十分だと思っていたんです」


レオナールの手は温かく、自分を包むその手には、少しのためらいも感じられなかった。


「でも、実際に公爵様から好きだと言っていただけたら、嬉しいのに、信じられなくて……」


フローラは言葉を濁した。


嬉しい気持ちを隠したいわけではない。ただ、自分が何かを勘違いしているのではないかという思いが、ほんの少しだけ残っていた。


レオナールはそんな彼女を見つめ、重ねた手にそっと力を込めた。


「公爵様、私……」


フローラはもう一度、握られた手に目を落とし、それからゆっくりと口を開いた。


「今でも、愛する人が望む道を見つけたのなら、私はその人を手放すことができます。その人が私と一緒にいるよりも、ほかの場所で幸せになれると思うのなら……きっと悲しいですけれど、それでも、その人の選択を尊重したいと思います」


レオナールは、黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。


「けれど、もしその人が、私と一緒にいたいと思ってくれるのなら……」


フローラは、そこで少し言葉を切った。


頬はまだ赤かった。それでも今度は、逃げるように視線を逸らしたりはしなかった。


彼女はレオナールの手を、もう少しだけ強く握った。


「私も、その人と一緒にいたいです。その人が私と一緒にいることを幸せだと思ってくれるのなら、私もその幸せを一緒に味わいたい。だって、愛する人の幸せに自分が力になれるなんて、これ以上素敵なことはないでしょう?」


フローラの言葉は、レオナールが望んでいた答えだった。

けれど、実際に聞いてみると、想像していた以上に嬉しかった。


だからといって、自分のために身を引くとも言わなかった。


ただ、自分と一緒にいることが幸せなら、自分もその幸せを分かち合いたいと言ってくれた。

彼女は、自分を引き留めるとは言わなかった。


それだけで、十分だった。


「それでは、フローラ嬢。一つ、お願いしてもよろしいですか?」


「お願い、ですか?」


「ええ。これから先、私があなたと一緒にいたいと言ったときは、その言葉を信じていただきたいのです。私があなたのそばにいるのは、あなたが私を引き留めたからではありません。私自身が、そうしたいと望んでいるからです」


「はい。信じます」


フローラは、恥ずかしそうに微笑んだ。


「ですから、公爵様も私の言葉を信じてくださいね。私は、公爵様と一緒にいたいです。今も、これから先も」


レオナールは、その言葉を心に刻むように、しばらく彼女を見つめていた。


「フローラ嬢」


「はい?」


「私は、あなたと結婚したいと思っています」


「……え?」


つい先ほどまで、レオナールからの告白を聞いて胸がいっぱいだったというのに、今度はそれ以上に大きな話が飛び出してきた。


「で、でも、私たちはもう婚約しているではありませんか……?」


「承知しています」


「でしたら、結婚することも決まっているのでは……?」


「そうでしょうね」


「それなのに、どうして今さら……」


「婚約しているから結婚するのではなく、あなたと結婚したいから、こうして申し上げているのです」


レオナールは、彼女が答えるまで静かに待った。


普段なら、相手が困らないように、適当な言葉を付け加えていたかもしれない。


けれど、今度ばかりはそうしたくなかった。


彼女がどんな答えを返そうとも、急かすつもりはなかった。


「……私も、公爵様と結婚したいです」


ようやく、フローラが答えた。


「私も、公爵様と一緒にいる未来を望んでいます。これからも一緒にお茶を飲んで、庭を散歩して、時には何でもないことで笑い合って……そんなふうに過ごしていきたいです。ですから……」


彼女は、今にも泣き出しそうな顔で笑った。


「私と結婚してください」


どちらが先に求婚したのか、思わず忘れてしまいそうになるほど、嬉しい言葉だった。


レオナールは微笑みを浮かべたまま、彼女の手を離さなかった。


「喜んで」


婚約破棄専門の令嬢は、今回も相手の幸せを願うつもりだった。


ただ、今度はもう少し近いところから。



******



結婚から間もなく、レオナールは王宮を訪れた。


王妃との面会は、以前から予定されていたものだった。アーデン公爵家は王室と深い関わりを持つ名門であり、フローラは王妃から寵愛を受ける令嬢でもある。二人の結婚について話を交わすのは、ごく自然なことだった。


ただ、レオナールは王宮に足を踏み入れる前から、なぜか落ち着かない気分だった。


王妃が自分を呼び出した理由は、単に結婚を祝うためだけではない。そんな予感がしていたのだ。


「よくいらっしゃいましたね、公爵」


王妃はティーカップを置き、穏やかに微笑んだ。

レオナールは礼儀正しく挨拶を済ませると、王妃の向かいに腰を下ろした。


「急なお呼び立てにも応じてくださって、ありがとう。ご結婚後で何かとお忙しいでしょうに……。まずは、ご結婚おめでとうございます。フローラがどれほど喜んでいたかを知れば、公爵も嬉しくなることでしょうね。私に手紙を送ってきたのですが、いつもの倍はあろうかという大きな字で書かれていたのですよ」


「……そうなのですか?」


「ええ。よほど嬉しかったのでしょうね。書きたいことが多すぎたようです。普段は私にさえ、あれほど長い手紙を送ってくる子ではないのですけれど」


侯爵令嬢だった頃からフローラを見守ってきた王妃にとって、その手紙がどれほど特別なものだったか、わざわざ説明するまでもなかった。


レオナールはティーカップを持ち上げ、静かに頷いた。


「私も、嬉しく思っております」


「あら。嬉しく思っている、というだけですか?」


王妃がいたずらっぽく聞き返した。


「妻が幸せそうにしている姿を見ること以上に、嬉しいことがあるでしょうか」


「まあ」


王妃の目が、すっと細められた。

口元には相変わらず笑みが浮かんでいたが、レオナールはどうにもただならぬ気配を感じずにはいられなかった。


「結婚前は、愛を約束するのは難しいとおっしゃっていたように思いますけれど」


「……フローラがそこまで話していたのですか?」


「もちろんです。フローラが私に隠し事など、どれほどあるというのでしょう?」


王妃の口調はどこまでも優しかったが、その言葉に込められた意味まで優しいとは限らない。


「……私が軽率でした」


「あら、謝ることではありませんよ。おかげで面白い話を一つ知ることができたのですから」


王妃はふと思い出したように、ごく自然な調子で話を続けた。


「ところで、公爵。フローラが結婚したあとも、これまでどおり私のところへ遊びに来られるよう、取り計らってくださいますよね?」


「もちろんです。ただ、王妃殿下にも、私たち夫婦の時間をあまり奪いすぎないよう、ご配慮いただければと思います」


「あらまあ」


王妃の目が、きらりと輝いた。


「思っていた以上に欲張りな方なのですね」


「結婚したのですから、そのくらいの欲は出してもよいのではありませんか?」


レオナールが平然と答えると、王妃はとうとう声を上げて笑った。


結婚前には愛を約束するのは難しいと言っていた男が、今となっては妻と過ごす時間を確保したいと、王妃にまで釘を刺している。


しかも、フローラへの愛情を少しも隠そうとせずに。


「いいでしょう。私も、あの子が幸せでいてくれるのなら、喜んで譲るつもりですよ。ただし、公爵にも一つ、覚えておいていただきたいことがあります」


「何でしょうか?」


「私があの子を大切に思うようになったのは、公爵よりもずっと前からだということです」


二人は、しばし互いの顔を見つめた。


王妃は相変わらず微笑んでおり、レオナールもいつもどおり落ち着き払っていた。


けれど、どちらも相手がそう簡単に引き下がる人間ではないということだけは、はっきりと理解したようだった。

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