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泡を掴む

作者:
掲載日:2026/05/30

雨の匂いがする夜だった。


インターホンが鳴ったのは、午前一時を過ぎたころだ。


ドアを開けると、見知らぬ女が立っていた。肩まで濡れた髪。ぶかぶかのコート。何日も眠っていないような目。


「ごめんなさい。行くところがなくて」


掠れた声だった。


「ここに置いてくれないかな。すこしでいいの。雨が止むまで」


普通なら断っていたと思う。

けれど、その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


初めて会ったはずなのに、知っている気がした。


私は黙って道を開けた。


女は「ありがとう」と小さく笑った。その笑い方まで、なぜか懐かしかった。


部屋に入ると、彼女は本棚やマグカップを見て、時々「やっぱり」と呟いた。


「……何が?」


尋ねると、彼女は少し困った顔をした。


「信じてもらえないと思うんだけど」


彼女は湯気の立つマグカップを両手で包み込みながら言った。


「僕は、別の世界から来たんだ」


「別の世界?」


「うん。パラレルワールド、みたいなところ」


彼女はそこで一度、私をまっすぐ見た。


「そこではあなたは男の人で、僕のパートナーだった」


冗談を言っているようには見えなかった。


窓の外では、雨が静かに降っていた。


「……どうして、私だってわかったの。性別も違うのに。場所だって」


彼女は少しだけ笑った。


「すぐにわかったよ」


その声は、泣きそうなくらい優しかった。


「だって君は、僕のたった一人の大好きな人だから」


胸が、変に痛んだ。


「どんな形をしていてもわかる。“あなた”は、僕の大好きな“あなた”だから」


その瞬間だった。


彼女の指先が、薄く透けた。


私は息を呑んだ。


「……ああ、やっぱり時間がないや」


彼女は困ったように笑う。


腕が、肩が、淡い光の粒になっていく。


彼女は消えかけた手で、そっと私の頬に触れた。


冷たいはずなのに、不思議と温かかった。


「この世界にも、君はいるかな」


この言葉は、無意識に口から出ていった。


「私にも、私だけの君がいるかな」


その問いに、彼女は即座に答えていた。


「いるよ」


迷いなく。


「絶対にいる。きっとあなたを探してる」


彼女の目が、私の瞳の奥の奥を覗き込む。その先で、火花が散った気がした。


「出会ったら、きっとわかる。“ああ、この人だ”って」


涙がこぼれそうだった。


「だから、会いに行ってあげて」


彼女は静かに微笑む。


「あなたは必要とされてる。僕が必要としてる」


彼女の身体は、もう半分以上、泡のような光になっていた。


「僕には、あなたがいなきゃ駄目だった。あなたがいるから、今がいちばん幸せ」


最後に残った指先が、そっと私の手を握る。


そして。


しゃぼん玉が弾けるみたいに、彼女は消えた。


部屋には静寂だけが残った。


けれど、右手にはまだ感触があった。


確かに誰かを愛していた手の感触。


私は窓を開けた。


雨はいつの間にか止んでいた。


世界は静かで、広かった。


この世界の君。


どんな人でも構わない。

女でも、男でも、子供でも、大人でも。

人間じゃなくたっていい。


きっと出会えばわかる。


「ああ、君だ」って。


その時は、もう二度と手を離さない。

そしてきっと私は、誰よりも幸せになる。


「行かなきゃ」


駆け出したい気分だった。

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