泡を掴む
雨の匂いがする夜だった。
インターホンが鳴ったのは、午前一時を過ぎたころだ。
ドアを開けると、見知らぬ女が立っていた。肩まで濡れた髪。ぶかぶかのコート。何日も眠っていないような目。
「ごめんなさい。行くところがなくて」
掠れた声だった。
「ここに置いてくれないかな。すこしでいいの。雨が止むまで」
普通なら断っていたと思う。
けれど、その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
初めて会ったはずなのに、知っている気がした。
私は黙って道を開けた。
女は「ありがとう」と小さく笑った。その笑い方まで、なぜか懐かしかった。
部屋に入ると、彼女は本棚やマグカップを見て、時々「やっぱり」と呟いた。
「……何が?」
尋ねると、彼女は少し困った顔をした。
「信じてもらえないと思うんだけど」
彼女は湯気の立つマグカップを両手で包み込みながら言った。
「僕は、別の世界から来たんだ」
「別の世界?」
「うん。パラレルワールド、みたいなところ」
彼女はそこで一度、私をまっすぐ見た。
「そこではあなたは男の人で、僕のパートナーだった」
冗談を言っているようには見えなかった。
窓の外では、雨が静かに降っていた。
「……どうして、私だってわかったの。性別も違うのに。場所だって」
彼女は少しだけ笑った。
「すぐにわかったよ」
その声は、泣きそうなくらい優しかった。
「だって君は、僕のたった一人の大好きな人だから」
胸が、変に痛んだ。
「どんな形をしていてもわかる。“あなた”は、僕の大好きな“あなた”だから」
その瞬間だった。
彼女の指先が、薄く透けた。
私は息を呑んだ。
「……ああ、やっぱり時間がないや」
彼女は困ったように笑う。
腕が、肩が、淡い光の粒になっていく。
彼女は消えかけた手で、そっと私の頬に触れた。
冷たいはずなのに、不思議と温かかった。
「この世界にも、君はいるかな」
この言葉は、無意識に口から出ていった。
「私にも、私だけの君がいるかな」
その問いに、彼女は即座に答えていた。
「いるよ」
迷いなく。
「絶対にいる。きっとあなたを探してる」
彼女の目が、私の瞳の奥の奥を覗き込む。その先で、火花が散った気がした。
「出会ったら、きっとわかる。“ああ、この人だ”って」
涙がこぼれそうだった。
「だから、会いに行ってあげて」
彼女は静かに微笑む。
「あなたは必要とされてる。僕が必要としてる」
彼女の身体は、もう半分以上、泡のような光になっていた。
「僕には、あなたがいなきゃ駄目だった。あなたがいるから、今がいちばん幸せ」
最後に残った指先が、そっと私の手を握る。
そして。
しゃぼん玉が弾けるみたいに、彼女は消えた。
部屋には静寂だけが残った。
けれど、右手にはまだ感触があった。
確かに誰かを愛していた手の感触。
私は窓を開けた。
雨はいつの間にか止んでいた。
世界は静かで、広かった。
この世界の君。
どんな人でも構わない。
女でも、男でも、子供でも、大人でも。
人間じゃなくたっていい。
きっと出会えばわかる。
「ああ、君だ」って。
その時は、もう二度と手を離さない。
そしてきっと私は、誰よりも幸せになる。
「行かなきゃ」
駆け出したい気分だった。




