そして私は途方に暮れる
糸川さんに呼び出されて、いつもの喫茶店にやって来ている。
「必要書類はいかがです? 集まっていますか?」
糸川さんは尋ねながらチェックシートをつけている。
「あのぅ、雇用契約書は特になくて、かわりに源泉徴収票でも良いですか?」
こっちがすまなそうに答えているのに糸川さんは小馬鹿にするように、
「従業員と個別に雇用契約は結んでないんですか?」
「はあ、まあ、たぶん、昔からそういう固苦しいことは……」
私は、ごにょごにょ言って誤魔化す。
「就業規則は?」
「え? いえ、特には」
「御社には始業時間などの規定はないんですか?」
「バカにしないでください! あるに決まっています!」
「それを出して下さいと申し上げている」
「はあ」
「たく、なんでそこであいまいな返事になるんですか?」
「だって、いくら探しても出てこないんですもの」
「明文化されたものはないんですか?」
「ないんです」
「よくそれでやって来れましたね〜」
「ええ、これでも江戸時代から続いていますから」
栄芳堂を舐めないでよと虚勢を張る。
「でも、勤めている方は江戸時代からではありませんよね?」
あげあしを取るわね?
「いえ、もしかすると」
妖怪メガネ爺は創業以来ずっと店の片隅から見守っているような気がする。そしてウメさんに乗り移ったのかも。
「何が、もしかすると、です。これまで有給休暇を取りたい人はどうしたんですか?」
「尋ねられれば、そのつど口頭で答えていました。分からないことがあれば、義母か、生き字引のウメさんに聞けば教えてくれますしー」
「はあ⁈」
何だよ! 今度はそっちが「はあ⁈」かよ!
「でも日本は古来、口伝えですよね? 落語でも漫談でも」
「就業規則は落語ても漫談でもありません! 口伝えなら無くても良いという理屈にはなりませんよ。面談は近いんです、その口伝えを急ぎ文章化してください。それから、姫路から依頼された知財資料は?」
「それも……」
「見つからないんですか⁈ やる気あるんですか?」
やる気あるのか? ですって⁈
義母の骨折手術はうまくいきました。ついてはリハビリの病院を探して下さいと担当医から前向きな連絡が入ったと思った刹那、同じ医師から、お母さんは感染症にかかりしばらく入院が必要になりますとすまなそうな電話が入る。手術は失敗したのですか? と聞くと、もちろん手術は成功したが、高齢なため免疫力が低下していて、感染症にかかり、腎臓、肝臓の値がよくないとなんとも歯切れが悪い。そんなことで、義母はしばらく病院のベッドで寝たきりの生活をおくらなければならない。義母の治療費に受験を控えた娘の学費。私には、どうしてもまとまったお金が必要なのだ。
「やる気はあるに決まっています!」
キッパリ言い返すと糸川さんは
「では作って下さい。面談は、上条専務だけではありません。先方の弁護士や税理士も出席する。彼らが御社の現状を把握するための資料がどうしても必要なんです」
「でも、どうすればいいのか?」
「御社に、営業担当はいらっしゃいませんか?」
沢村部長の顔が浮かぶ。なんだかゾワゾウする。生理的に嫌だな〜。
「知財資料の内容は営業トークで使うものです。聞いて、まとめて下さい」
「は、はあ……」
「また〜。良いですか? 事業継承は遊びてはありませんよ!」
「そんなことーーわかってます!」
「では、先方が御社を欲しくなるようにアピールしましょう。しっかりしてください!」
「しっかりしています」
口ごたえすると「どこが?」と言う顔をする糸川さん。何よ、そっちだって高く売って手数料を稼ぎたいだけでしょ? とは口が裂けても言えない。
糸川さんのスマホのアラームが鳴り、
「では、よろしくお願いしましたよ。タイムリミットは今週末ですから」
と言い残してそそくさと喫茶店を出ていく。
「今週末……」
私は途方に暮れて、ソファにもたれ掛かる。




